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第10話

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 蘭子の肖像画がようやく完成した。
 大徳寺は最後の筆を入れ終えると、満足気にタバコに火を点けた。
 最高の出来だった。
 美しい裸体の蘭子が窓の外を憂いのある深い瞳で見詰めている、写実感のある油絵だった。

 「蘭子さん・・・」

 大徳寺はタバコを吸い終えると、絵に署名をし、カンバスに白布を掛けた。


 「出掛けてくる」
 「お気をつけて」

 野村も大徳寺も、先日の話は一切しなかった。
 野村は大徳寺が出掛けるとアトリエに入いり、白布を静かに取り、その場から動けなくなってしまった。

 「なんて綺麗なの! この蘭子さんの表情。
 すばらしい! 美とはその滅びゆく様《さま》にその本質があるのよ!
 これこそまさに「滅びの美学」だわ!
 壊したい、この絵に永遠の価値を与えるために、壊したい。蘭子さん自身をも!
 いえ、壊すべきなのよ! この美を永遠の物にするために!
 老婆になってゆく蘭子さんなんて見たくはないもの!
 死は時間の停止なのよ! 蘭子さんは死ぬべきなのよ!」

 野村は早速、蘭子に電話を掛けた。

 「葛城さんの奥様ですか? 大徳寺の助手の野村です。
 先日の絵のことでお話ししたいことがあります。
 会っていただけませんか?」

 蘭子は一瞬躊躇ったが、それを承諾した。

 「わかりました。では今日の午後3時、汐留のロイヤルパークホテルのラウンジで」
 「かしこまりました」

 野村は電話を切ると、蘭子の絵の前で自慰行為を始めた。

 「蘭子、さ・・・ん、あなたが・・・、欲し、い・・・」

 野村は恍惚となっていった。




 ラウンジにはすでに野村が到着していた。

 「ごめんなさい、遅れてしまって」

 蘭子はいかにもセレブらしい、コンサバティブなファッションで現れた。

 「すみません、お忙しいところを突然に。
 今日のことは大徳寺には内緒でお願いします」
 「もちろんよ、野村さんは口が堅い人なんでしょう?
 私も同じ。
 ここのケーキ、美味しいのよ、いかが?」
 
 野村の女のそこはすでに潤んでいた。


 ふたりはケーキを無言で食べていた。

 「ところでお話しってなあに?」
 「奥様の絵が完成したようです」
 「そう、きれいに描かれていた? 私の裸、うふっ」
 「すばらしい作品です。まるで奥様が絵の中に閉じ込められてしまったかのように。
 私、大学で美学を専攻しておりました。
 心が震えました。奥様の美しさに」
 「そんな大袈裟な。あはははは」

 蘭子は笑って珈琲を口にした。

 「ご覧になればわかることです。
 今日、参りましたのは、私の性癖のことです。
 私は女性が好きなのです。レズビアンなのです」

 蘭子はそれを大徳寺から聞いてはいたが、知らないふりをした。

 「そう? いつから?」
 「幼い頃からです」
 「それで? まさか私となんて言わないでしょうね? ダメよ私、男性が好きだから」
 「それは残念です。女同士の性愛を知らないなんて。
 一度でいいんです、お願いです、私の蘭子さんへの愛を伝えさせて下さい」
 「ごめんなさい。悪い気はしないけど、私はノーマルなの、あなたのご希望には添えないわ」

 すると野村は挑むような眼差しで蘭子にこう言った。

 「では、先日のことをご主人にお話しするまでです」
 「本気なの? そこまでして私を抱きたい?」
 「いえ、どちらかといえば抱かれたい。
 お願いします、一度だけ、一度だけでいいんです、私の望みを叶えて下さい」

 野村は蘭子に頭を下げた。

 「いいわ、じゃあ約束して、一度だけだと。
 そもそも私は女性としたことがないから、ご期待に応えられるかどうか、わからないわよ?」
 「結構です、後はすべて忘れますから」
 「あなたを信じるしかなさそうね?
 野村さんだけには言うわね、私、主人とは別れるつもりなの。
 だから本当はあなたが主人に話そうが話すまいが、そんなことはどうでもいいの。
 私と彼は覚悟を決めたのよ。
 あなたの要求に応じるのは、あなたが主人に黙っていてくれたお礼。
 だから脅迫しなくてもいいわよ」

 そう言って蘭子は笑った。

 「ありがとうございます。
 部屋を取りましたので、よろしくお願いします」

 高層ビルに囲まれたスカイラウンジに、夕暮れの疲れ果てた陽射しが傾いていた。
 ふたりは部屋へと向かった。

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