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第12話

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 いつものように、ふたりはお互いの愛を確かめ合っていた。
 昼間のセックスと飲酒がデカダンスとして、より一層その行為を甘美なものにしていた。
 蘭子は大徳寺に寄り添い、彼の胸に手を置いた。

 「今、すごくしあわせ。生きている実感があるの。 
 あの人との生活は経済的には恵まれてはいるけど、いつも何か物足りない気がしていたわ。
 あなたとこうしていると、それがよく分かるの。
 「人はパンのみで生きるものにあらず」ってことなのかしら? 私たち夫婦には本当の愛は無かったのかもしれない。
 背徳感がないのは、たぶんそのせいなのかもしれない。
 お掃除にお洗濯、お料理、そして子作りのための義務的なセックス。
 でもそれは彼のためにするものではなく、私はそれが妻としての務めだと思っていた。
 つまりそれには「何のために?」という目的意識はあっても、「誰のために?」という絶対的な愛は存在してはいなかった。
 男と女が生きていく上で大切なこと、それは打算的な暮らしではなく、「愛のある暮らし」だったのね?」
 「普通は恋愛の延長線上にあるのが結婚というゴールだと考えますが、それは正しくはありません。 
 結婚をゴールに考えてはいけない。結婚はスタートなのです、すべての始まりなのです。
 特に女性の場合は結婚イコール安定的な生活と捉えることが多いかもしれません。
 そこに「守って欲しい」という思いがあるのなら、そこで結婚は再考するべきなのです。
 それはまだ恋のままだからです。
 信号はまだ赤なのです。青になってはいない。
 青にならなければ結婚はスタートしてはいけないのです。
 つまり、「してもらいたい」ではなく、「してあげたい」という想いになった時、恋愛信号が青に変わる時ではないでしょうか?
 殆どの結婚生活の失敗、もしくは事実上の破綻は、周りの幸福との比較にあります。
 知り合いがどんどん結婚し、しあわせそうに見えてしまう。
 すると無意識のうちに愛のない、憧れだけの家庭を作ろうとしてしまう。
 「あれがない、これが足りない」と。
 でもそこに愛があれば、お互いにその不足を補うことが出来る。それが足りないとすら感じなくなるのではないでしょうか?
 僕は蘭子さんが傍にいてくれるだけで何も望む物はありません。
 それを教えてくれたのは蘭子さん、あなたです」
 「私と彼との生活にはそれがなかったのね?
 そろそろ結婚しようかと考えていた時、結婚相手の条件として彼が妥当だったから安易に結婚をしてしまった。
 セックスも同じ。 「抱かれてもいい」ではなく、「抱かれたい」じゃないと駄目。
 いえ「抱いてあげたい」、かしら?
 つまり、私の周りには自分を捨ててまで愛せる男性がいなかったのかもしれない」
 「人生にやり直しは出来ないという人もいますが、僕はそうは思いません。
 人生はやり直すのではなく、そして勝ち負けでもありません。
 人生は学びなのです。
 未来に絶望し、過去を悔やみ、現在を否定的に生きることは愚かなことです。
 過去は既に終わったことなのです。
 必要なのは未来を変える勇気です。
 人生を諦めてはいけません。私たちはしあわせになるために生まれて来たのですから」
 「私は未来を変えるわ、たとえどんな障害があろうとも、そしてどんなダメージを、罰を受けようとも」
 「これからアトリエに寄ってくれませんか? 蘭子さんの絵がようやく完成しました」
 「楽しみだわ、私の絵」

 蘭子はすでに野村から絵の完成を知らされていたので、期待は更に高まった。

 「では行きましょうか?」

 蘭子たちは大徳寺のアトリエへと向かった。



 アトリエのイーゼルには白布に赤いリボンが掛けてあった。

 「どうぞ蘭子さん、除幕して下さい」

 蘭子はリボンを解き、ゆっくりと白布を外した。


 「これが私・・・」


 蘭子はその絵の迫力に圧倒され、動くことが出来なかった。
 止めどなく涙が溢れて来る。
 白い肌の温もりが伝わるような光と陰影。
 そして不安と希望の混在する表情。
 蘭子の心の奥底までもが完全に描き尽くされていた。
 蘭子の魂のすべてがこの絵の中に閉じ込められたような油絵だった。
 一本一本、詳細に描かれた髪が窓からの光を浴び、かすかに動いているかのようにさえ見える。


 「いかがですか? 気に入っていただけましたか?」
 「出来ることなら新しい家にこの絵を飾りたい、このすばらしい先生の描いてくれた私の絵を」
 「蘭子さん、私はあの家をご主人から買い取るつもりです。
 そしてこの絵をあの家に飾りましょう。
 僕たちの永遠の愛の証として」

 蘭子と大徳寺は絵の前でいつまでも強く抱き合って泣いた。

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