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最終話

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 それぞれの想いを秘めて、ついに鎌倉の家が完成した。

 稔と蘭子、由梨子は溜息を吐いた。

 「すばらしい! 正に芸術品と呼ぶにふさわしい家だ!」

 稔が言った。
 大徳寺、園子、稔、蘭子、そして由梨子の5人が集い、家の前に立っていた。

 その日は5人の心模様のように、雪がちらつく灰色の肌寒い天気だった。
 
 「寒いので中に入りましょう」

 大徳寺に促され、みんなは家の中に入って行った。


 家の中では暖炉が焚かれ、林檎を剪定した薪の燃える、甘い香りが漂っていた。

 樅の木の床に漆喰の壁、開放感のある吹き抜け。
 大きな窓からは鎌倉の海が見えていた。
 大徳寺がコンポのスイッチを入れた。
 
 シカゴ・シンフォニー・オーケストラ
 バーンスタイン指揮 
 ショスタコーヴィッチ『交響曲第7番・ハ長調作品60』

 室内に響き渡る深い荘厳な調べ。
 完璧に計算され尽くした音響効果を披露してみせた。

 「この曲はショスタコーヴィッチがレーニンのために書いた交響曲だと言われています。
 ファシズムからの脱却と革命の成功。
 その後の現実はみなさんご存知の通りです」

 大徳寺は音楽を止めた。
 暖炉の前で揺らめく炎を見詰める5人、静寂の時が流れた。
 誰が話始めるのかと、それぞれが牽制していた。
 そして遂に稔がその沈黙を破った。

 「大徳寺さん、この感動をどう表現してお伝えするべきか、私にはその言葉が見つかりません。
 あなたにこの家をお願いして本当に良かった」
 「ありがとうございます。
 葛城さん、そこでお願いがあります。
 この家を私に譲っていただきたいのです」
 「すみません大徳寺さん。僕はアメリカン・ジョークに不慣れなもので、こんな時、アメリカ人ならどう切り返すべきなのでしょうか?」
 「冗談ではありません。私は本気でお願いしているのです。
 葛城さんお願いです、どうかこの家を私にお譲り下さい」
 「一体どうしたんです? いきなり。
 いくら自分の作った作品に愛着があるとは言え、それはあまりにおかしな話だ。無礼にもほどがある。
 この家は私の頼んだ私の家だ!」

 再び気まずい静けさが訪れ、薪のパチパチと燃える音がサロンに響いていた。


 「それは出来ませんね」

 由梨子が稔に寄り添い、彼の身体に頬を寄せ、稔の右手を握ってそう言った。
 驚愕する大徳寺と蘭子、そしてそれをまるで予想していたかのように平然とした園子がいた。


 「この家で私と稔さんが暮らすの。不貞な妻、蘭子ではなくね?
 ごめんね蘭子、そういうことなの。
 私と稔さんは愛し合っているのよ、だからこの家は誰にも譲れないわ」
 「どうして・・・」
 「どうして? これは私の蘭子への復讐と、稔さんのあなたへの愛情が消えたという、お互いの利害関係が一致したということよ。
 あなたはいつもそう、大学の時からいつも女王様で輝いていた。
 覚えている? 信二のこと。
 信二は私の生き甲斐だった。
 大学を卒業して3年したら結婚しようと約束していた。
 しあわせだった。
 でもその信二を誘惑したのは蘭子、あなたよね?
 それでもあなたが信二に本気なら、私も諦めがついたわ。あなたは私の親友だったから。
 でもあなたはそれをゲームでもするかのように楽しんでいた。私たちの愛を壊し、それを弄んでいたのよ!
 そして信二はボロ雑巾のようにあなたに捨てられた。
 彼はイケメンではないかもしれないけど、やさしくて繊細な人だった。
 でも彼はもう、この世にはいない。
 それなのによくも私の店に! この鎌倉にやって来れたわね!
 あなたは私の憎しみの籠ったお茶を、いつも涼しげな顔で飲んでいたのよ!
 許せない! 絶対に!
 蘭子、アンタは稔さんに捨てられたのよ!
 ざまあみろだわ!」

 蘭子は静かに言った。

 「そう、そうだったの。由梨子は私のことをずっと憎んでいたのね?
 知らなかった。
 あなたが夫とどうなろうと、私にはもうどうでもいいの。
 愛というものはね? 落ちるものではなく「奪うもの」だから。
 だから由梨子、あなたは正しい。
 魅力的な人間には常に需要があるものよ。つまり、そんな素敵な人にはすでに恋人がいるか、あるいは結婚して家庭に収まっているものよ。
 そして大抵の人間はその道徳心から、また自分の安定した生活を壊すことを恐れるあまり、その恋から目を背けてしまう。
 誰も傷付けたくない、自分も傷付きたくないから。
 でもそれは本当の愛じゃないわ。
 それは単なる憧れ、恋心よ。
 本当に愛しているなら、本能に従うべきなの、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、例え罪の業火にその身が焼かれようとも。
 私はためらうことなく自分の本能に従うわ。
 一度きりの人生だもの」

 蘭子はそう言い終わると、大徳寺の手を握った。

 「稔、私は彼とこの家で暮らしたいの! お願い、この家を私たちに譲って頂戴!」
 「離れろ! 離れろラン!
 お前にソイツは似合わない! お前は俺の妃なんだ!
 そんな奴にお前を渡さない!
 離れろ! ラン! 大徳寺から離れろ!」

 稔は蘭子と大徳寺の手を放そうと、蘭子の腕を掴んだ。

 「止めてあなた! もう決めたことなの! 後戻りは出来ないわ!」
 「うるさい!」

 稔は大徳寺の頬を殴りつけ、足を蹴った。

 「ふざけやがって! よくも俺の女房を! 蘭子を!」

 稔は大徳寺に馬乗りになり、何度も大徳寺を殴った。

 「あなた止めて! どうしても殴りたいなら私を殴って! この私を!」

 稔は立ち上がると、蘭子を睨みつけた。

 「い、いいん、です・・・、蘭子、さん。
 ぼく、は、罰をうけ、る、義務、が、ある・・・」

 蘭子は大徳寺に覆い被さり、

 「さあ早く、早く私を蹴りなさいよ! 踏みつけなさいよ! どんなに蹴られても殴られても、私たちの愛は変わらないわ!」

 すると由梨子が言った。

 「くだらない。たかが恋愛じゃない? 馬鹿じゃないの? アンタたち。
 所詮愛なんて幻よ、ひと時の気の迷いだわ。「恋は盲目」とはよく言ったものね?
 一緒にいればお互いの嫌なところも見えてくるし、どんどんお爺さんとお婆さんになっていくのよ。
 今、あなたたちが燃えているのは、そこに障害があるからでしょう?
 そのドキドキ感に、ただ酔いしれているだけ。
 愛はいずれ消えるの、夏の陽炎のようにね?
 そして虚しい「祭りの後」が待っているのに」

 そう言って由梨子はその場から去って行った。

 「由梨子!」

 稔も由梨子を追いかけて家を出て行った。

 残された3人。
 そして園子もそこから離れていった。


 「先生、大丈夫? 大丈夫なの?」
 「だい、じょうぶ、です。
 これ、じゃ、足りない、くらい、です。ぼく、は、もっと、罰を、受けるべき、なんだ・・・」
 
 蘭子は大徳寺に縋り、嗚咽した。
 新築した家に、蘭子の悲しみと、安堵が広がって行った。

 大徳寺は仰向けのまま、左手で蘭子を抱き締め、右手で床を愛おしむように触った。

 「ごめんね? 悲しませてしまって」

 それは蘭子と、家に対しての言葉だった。
 蘭子は何度も首を横に振った。

 「悲しくなんてないわ。私はしあわせよ・・・」

 


 3か月後、蘭子は葛城と離婚し、鎌倉の家は大徳寺が買い取ることになった。
 穏やかな春の日、開け放たれた窓からは雄大な太平洋が広がり、潮騒の音と穏やかな潮風が吹き抜けて行った。

 「あなた、お茶を淹れましょうか?」
 「ありがとう、蘭子さん」

 リビングに飾られた、蘭子の絵が微笑んでいた。


                 『火炎木』完

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