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第4話 小次郎

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 「ここのお店はね、カニピラフが有名なんだけど、私、手が臭くなるのがイヤなのよねー。今日は何にしようかしら?」

 雪乃は渡されたメニューを眺めながら、独り言を呟いた。

 ふたりは海に面した、大きな窓際の席に案内され、有線放送のクラッシック音楽が邪魔をして、波の音が聞こえないのが少し残念に思えた。

 「カニピラフは嫌いなんですか?」
 「いいえ、大好きよ。
 でも手が臭くなるのがねー。一応、フィンガーボールも付いてくるんだけど、今度はそのジャスミンの香りがキツくって・・・」
 「じゃあ、私が殻を剥いてあげますよ。蟹の身を解すのは好きなんです」
 「あら、蟹の殻じゃなくて、女の子を剥くのが好きだったりしてね? うふっ」
 「それも好きですけどね」

 ふたりは楽しそうに笑った。


 「じゃあ、君はカニピラフで。私はカニクリームコロッケにします。
 カニクリームコロッケも名物らしいですよ、このお店」
 「そうな? 知らなかった、よくご存じね?
 よく来るの? このレストランに?」
 「久しぶりに来ました、10年ぶりに」

 男の顔が少しだけ曇ったのを雪乃は見逃さなかった。

 (別れた女とでも来たのかしら?)

 「いいお店よね? 私ね、ここで海を見ながらお食事をするとね、ユーミンの『海を見ていた午後』が浮かんでくるの。
 
    ソーダ水の中を 貨物船が通る
    小さな泡も恋のように 消えていった

 いい歌よねー? 知ってる? この曲?」
 「ええ、素敵な曲ですよね? 私も好きです」
 「行ってみたいなあ、山手のドルフィン。
 そうだ、ここからなら貨物船も見えるわよね?」

 雪乃はドリンクメニューを開いた。

 「あー、がっかり、ソーダ水がないわ」
 「じゃあ、ジンジャエールにすればどうです?」
 「いい、それいい! ジンジャエールなら夕暮れの黄昏の海になるわよね? そこを貨物船が通るなんて、もっとロマンチックになるじゃない?
 すみませーん、ジンジャエールを下さい!
 あなた、飲み物は?」
 「私はビールで」
 「クルマじゃないでしょうね? ダメよ、飲酒運転は」
 「そんな度胸は私にはありませんから安心して下さい」
 「じゃあビールと蟹ピラフのMサイズ、それから蟹クリームコロッケをお願い。
 ご飯は?」
 「要りません、ビールのつまみにしますから」
 「そう、じゅあライスはなしで」
 「かしこまりました、お飲み物はいつお持ちすればよろしいでしょうか?」
 「ビールは食事と一緒で、ジンジャエールは食後にして頂戴」
 「熱々のコロッケを食べてからのビールでいいわよね?」

 男は笑って頷いた。
 
 (男性とこんな楽しい会話をしたのは何年ぶりかしら?)

 真也の笑顔が浮かんだ。
 雪乃は涙を隠そうと、化粧室へと席を立った。

 「ごめんなさい、ちょっと失礼」
 

 化粧室の鏡には、自分の情けない顔が映っていた。

 (ダメ、やっぱり真也のことが忘れられない・・・)

 雪乃の化粧は遅々として進まなかった。


 席に戻ると、男は真剣な表情で蟹の殻を剥いていた。
 その姿に雪乃の憂鬱は消えた。

 「あらあら、本当に上手なのね? 蟹の殻を剥くの?」

 男はそれには答えず、作業に没頭していた。

 一心不乱に蟹の身を解すその姿に、雪乃は胸がキュンとした。
 真剣に自分のために殻を剥くこの男に。

 「ねえ、もうそれくらいでいいわよ、コロッケが冷めちゃうわ」
 「コロッケは少し冷めた方がいいんです、私は猫舌なので」

 男は手を止め、雪乃を見てそう言うとまた手を動かし始めた。
 雪乃はその一瞬で恋に落ちた。
 

 雪乃の前に、どっさりと蟹の身が乗ったピラフの皿が差し出された。

 「お待ちどうさまでした。さあ、召し上がれ」
 「うっわあーっ、ありがとう!
 人に蟹を剥いて貰ったの初めてよ!」

 雪乃は高校生のようにはしゃぎ、喜んだ。
 また泣きそうになってしまった。
 それは真也を思い出したからではなく、自分のためにしてくれた、この男の純粋な無償の行為に。

 「どうです? カニピラフの味は?」
 「ジュエル・ロブションのフレンチよりも美味しい!
 人に剥いてもらった蟹は最高! 手も汚れないしね? あはは」

 男は満足そうに笑っていた。
 ナイフとフォークの使い方に、男の育ちの良さが窺えた。


 食事も終わり、ジンジャーエールが運ばれてきた。
 雪乃は、グラスを沖を通る船に翳した。

 「わあー、ユーミンの曲と同じ・・・」

 すると驚いたことに、今度は男が雪乃を見詰め、涙を浮かべていた。
 雪乃はなぜ、その男が泣いているのかがわからなかった。

 (こんな男もいるのね、女の前で平気で泣ける男が・・・)

 「私、春山雪乃。あなたは?」
 「小次郎」
 「上のお名前は?」
 「無いんだ、苗字は」
 「それじゃあワンちゃんと同じでしょ? 人が真剣に聞いているのに意地悪ね!」
 「どうせ名前で呼んでくれるんでしょう? ファミリーネームなんて不要です」

 小次郎は少し温くなってしまったビールを口にした。

 「それもそうね。じゃあ小次郎さん、私の事も雪乃って下の名前で呼んでもいいわよ、特別に。
 お仕事は何をしているの?」
 「ゴミの掃除です」
 「何それ? 私をからかっているの?
 まあいいわ、仕事なんて別にどうでもいいわよね?
 私の事は聞かないの? 人妻とか?」

 小次郎のスマートな物腰、ウイットのある会話、身なりも好きだった。

 (社長さんかしら? 法律関係? それとも大学教授? 医者には見えないけど・・・)

 服はベルサーチ、時計はフランクミュラーをしていた。
 靴はBARRIE? きちんと磨かれている。
 
 (奥さんが磨いてくれるの? それとも自分で?)

 雪乃は妻帯者であるかは敢えて訊ねなかった。
 それは淡い期待があったからだ。
 独身であって欲しいと。

 だが、小次郎には家族も、そして女のいる気配も感じられなかった。
 ただ時折見せる、悲しそうな表情が妙に気になった。


 「ご主人がいるようには見えませんね? 指輪もしていないし」
 「小次郎さんは? 指輪はしてないようだけど?」

 雪乃は期待を込めて小次郎を真っ直ぐに見た。
 どうか独身でありますようにと。

 「私も独身ですよ。たぶんこれから先もずっと」

 雪乃は安心した。

 「そんなのわからないでしょー? 結婚するかどうかなんて?
 そうゆう人ほどあっさりと結婚してしまうものよ」


 雪乃はバッグから名刺入れを取出し、小次郎に渡した。

 「よかったら遊びに来てちょうだい、クラブをやっているの。
 ウチのお店は美人揃いよ、いい結婚相手が見つかるかも」
 「近いうちに伺います」

 そう言って、小次郎は雪乃の名刺をポケットに入れた。



 帰り際、雪乃は小次郎の携帯番号を聞こうかと思ったが、止めた。
 雪乃は賭けをしたのだ。これが本物の出会いなら、必ず小次郎は雪乃に会いに店を訪れるはずだと。


 「今日はとっても楽しかったわ。お店で待っているわね、必ず来てね? 約束よ。
 それじゃ指切り」
 「必ず伺います」

 そう言って、小次郎は雪乃の指切りを拒んだ。

 「私のクルマで送ってあげましょうか?」
 「ありがとうございます、お気遣いなく」

 小次郎はそう言うと、来た道とは反対方向に向かって歩いて行った。
 雪乃はいつまでもその後ろ姿を見送った。

 夕暮れ近くの海岸には、一羽のカモメが低く波打ち際を飛んでいた。
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