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第8話

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 息子が東京に転職することになった。

 「私たち、みんなで東京へ引っ越すことにしたから」

 予想はしていたとはいえ、それが現実となると私は狼狽うろたえた。

 「この家を出てか?」
 「そうよ、費用の方はよろしくね? 私たち、お金ないから」
 「何もお前たちまで雅彦について行くことはないじゃないか?」
 「もう私たち限界なの。
 あなたと同じ空気を吸うのもイヤ。
 私たち、ずっと待ってたの。この家から出てあなたと別れて暮らすことを」

 私には返す言葉がなかった。
 何も変わらないと思っていたのは自分だけだったのである。
 私はすでに家族を失っていたのだ。

 「それじゃあ、アパートだけは俺が手配するよ」
 「遠慮しておくわ。自分たちで暮らす家は自分たちで探すから大丈夫」
 「住所は?」
 「必要があればこちらから連絡します」



 弥生たちが家を出る日、私は弥生に通帳と印鑑、そしてキャッシュカードとクレジットカードを渡した。

 「ありがとう、助かるわ」
 「その他に、毎月20万円を振り込むよ」
 「無理しなくていいわよ、私たちも働くから」
 「ほんの慰謝料だ」
 「そうね? あなたは私たちを裏切ったんだから当然かもね?」
 「困ったらいつでも電話しろよ」
 「うん、ありがとう。じゃあ、行くね?」


 子供たちは無言で出て行った。
 息子の運転するクルマで、元家族たちは私の元を去って行った。

 家族のいなくなったガランとした家。
 私は屋敷の広さを改めて実感した。
 そして自分が独りぼっちになったことを初めて知った。
 私は温かい家族との生活と引き換えに、「孤独な自由」を手に入れた。


 女たちとは縁を切った。
 それが自分への罰だった。
 弥生たちの悲しみや憎しみに、私は鞭打たれる必要があったからだ。
 その喪中に肉欲は邪魔だった。

 これが私の思い描いた夢だったのだろうか?
 恋愛の理論など、もうどうでも良かった。
 私はかけがえのないものを失った。
 私は家族を不幸にするために弥生と結婚し、子供たちをもうけたことになるのだ。
 自分の夢を犠牲にして。


 私は屋敷を処分し、眺望の良い賃貸マンションへと移り住んだ。
 誰も知り合いのいない街で、私は新しい人生を始めることにした。

 「人生をやり直す」なんて都合のいいことは出来ない。
 人生とはまっさらな白い紙に、青いインクで物語を記していくものだからだ。
 消しゴムで消せるような鉛筆書きの人生ではない。

 だが、やり直しは出来ないが、新しいページをめくることは可能だ。
 それだけが人間に許された希望だからだ。


 その後、弥生たちから連絡はなかった。
 思い出されるのは弥生や子供たちとの楽しかった思い出ばかり。

 子供が生まれた日、歩いた日、幼稚園、小学校、中学、高校、大学・・・。
 そして別れた日。
 弥生との楽しかった日々。

 私は一体どこで道を間違えたのだろう。

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