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第5話 形だけのお見合い

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 私は光一郎と紅葉のいる生活に、何も不満はなかった。
 だがそれは安楽ではあるが、生き甲斐かと問われると素直に肯定することが出来なかった。

 多くの人間はしあわせとは安心だという。
 生活を保証された変化のない安定した毎日を幸福と置き換え、それを求めようとする。
 それはある意味「妥協の人生」ではないのだろうか?
 
 何不自由のない生活、あたたかい家族と生きる幸福。
 その「普通」の安定した生活を手に入れるために、多くを犠牲にするのが普通の生き方だ。

 私にとって本当のしあわせな人生とは、「自分を偽らない人生」だと思って生きて来た。
 そしてそれは、いつの間にか自分に言い訳をして生きる人生になってしまっていた。
 それに気付いてしまったのは、冴島との出会いだった。


 私は学生時代、結婚を約束した三歳年上のさとしという恋人がいた。

 北村 聡。
 彼は軽音楽サークルの先輩で、私は聡を兄のように慕っていた。

 私たちは聡の小さな1Kのアパートで同棲生活を始め、まるで新婚夫婦のように過ごしていた。

 ミニテーブルを壁に寄せ、ひとり用の布団を敷いてふたりで寝た。


 「必ず迎えに来るからな、遥が大学を卒業したら結婚しよう」
 「うん」

 幸せだった。何もないこの小さなアパートには、ふたりの愛がたくさん詰まっていた。

 
 大学を卒業した聡は地元に戻り、県議会議員の父親のコネで市役所に就職した。
 聡はやがて父親の跡を継いで代議士になることが決められていた。

 就職してからは実家暮らしだった聡は、週末には遥の部屋で過ごすのが定番になっていた。
 ふたりの結婚は揺るぎないものになりつつあった。


 そんなある日のこと、聡は父親から見合いを勧められた。


 「実は大山先生から、是非お前を婿にと言われてな、今回の就職の件も大山先生のご尽力によるものだ。
 お前には遥さんがいることは十分承知している、形だけでいいんだ、形だけで。
 すまんが俺の顔を立ててくれんか? 心配することはない、先生のお嬢さんの瑞希みずきさんに嫌われればいい話だ」

 聡は一瞬戸惑ったが、見合いを受けることにした。
 父親の政治家としての立場に配慮したのだ。

 「親父、形だけだぜ」
 「ああ、それでいい形だけで。ありがとう、聡」

 聡は軽い気持ちでそれを承諾してしまった。


 
 地元の老舗料亭で行われたその見合いは、見合いというよりも政治家と業者の談合のようだった。
 大臣経験のある大山光三は、大広間が揺れるほど大きな声で豪快に笑っていた。


 「聡君、久しぶりじゃのう。どうだ、役所の仕事には慣れたかね?
 嫌な事があったらいつでもワシにいいなさい、わかったね? わっはっはっ!」

 瑞希は自信に満ち溢れた華やかな女性だった。
 青い振袖姿がより一層透けるような白い細面を引き立てている。

 「ごめんなさいね、うるさいでしょ? 父の声。
 いっつもこうなのよ、鼓膜が破れそう」

 そう言って瑞希も笑っていたが、この親子は似ているなと聡は思った。
 
 大物政治家の娘だけあって、瑞希には銀座のクラブママのような凛とした威厳があった。
 ガマ親分のような父親とは反対に、元女優だった母親の美貌を受け継いだ瑞希は、宝塚女優のように美しかった。


 「さて飯も食ったことだし、瑞希、あとは聡君と散歩でもしておいで。
 パパたちはお前たちの邪魔はしないからな、わっはっはっ!」



 聡と瑞希は料亭の庭を散策した。
 池のろ過ポンプと水の音が聡の沈黙を助けてくれていた。


 「聡さん、彼女、いるんでしょ?
 イケメンでやさしそうだもん」


 瑞希は鮮やかな振り袖姿のまま、裾を気にしながら聡の後ろをついて歩いた。


 「実は大学時代から付き合っている彼女がいます。
 すみません、瑞希さんには嘘は吐けないので。
 実は来年、彼女の卒業を待って結婚するつもりなんです。
 それに瑞希さんのような美人で聡明な方と僕では不釣り合いですよ。
 すみませんが、瑞希さんの方からお断りしていただけませんか?」

 瑞希は空を見上げて笑った。

 「聡さんて正直な人ね? 私、そういうところ、嫌いじゃないわ。
 でもね、普通はそこをうまく躱さないと。あなたもいずれはお父様の地盤を引き継いで政治家になるんだから。
 嘘はだめ、どうせバレるから。
 でも偽るのはいいのよ、偽るって「人の為」って書くでしょ?」
 
 瑞希ははにかむように笑った。

 「私にとってはパパの政略結婚のようなものだから気にしないで」
 「ありがとうございます」
 「でもね、ひとつお願いがあるの、聞いてくれる?」
 「僕に出来ることなら」
 「簡単なことよ。これからふたりでドライブしない? 着物、疲れちゃった。
 着替えてくるから海にドライブに行きましょうよ、ねえ、いいでしょう?」

 聡は安心した。
 ドライブくらいなら遥も許してくれるだろうと思ったからだ。

 「いいですよ、じゃあお迎えにいきます」
 「ううん、私が迎えに行くわ、私、運転するの大好きだから」


 気怠い午後の日差しが日本庭園に差し込んでいた。
 聡はこの時、それが瑞希の仕掛けた巧妙な罠だとは微塵も気付かなかった。
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