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第9話 新たな恋

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 聡と衝撃的な別れをした私の絶望は続いていた。

 この一週間というもの、私はワンルームのマンションから一歩も外へは出なかった。
 正確には出られなかったという方が正しい。

 私には生きている実感がなかった。
 部屋はあの時のまま。

 ケーキも、そして聡の好物の鰹の刺身も鶏の唐揚げも腐敗し、悪臭を放っていた。
 ビールもホットカーペットに零れ、シミを残して蒸発していた。
 
 聡に渡された手切れ金も部屋に散乱したままだった。
 私はそれを拾おうともせず、そのお金を呆然と眺めていた。

 (私の聡への愛はたった100万円だったの?)


 毎日毎晩、私は泣いた。
 聡の言葉が頭から離れなかった。
 目を腫らし髪もボサボサ、風呂にも入らず女であることも忘れていた。
 それほど聡との別れは辛く悲しいものだった。



 親友の里美も両親も、私を心配して何度もLINEや携帯を掛けて来たが、

 「大丈夫だよ」

 としか返信をせず、携帯にも出なかった。



 そんな週末、里美と両親が遥を心配してマンションにやって来た。
 里美も両親もドアを開けて愕然としていた。

 「なにこれ!」
 「どうしたの遙・・・」

 部屋は様々な腐敗臭が充満し、蠅やゴキブリが残飯に集っていた。
 点けっぱなしのテレビでは関西のお笑い芸人が何が面白いのか、体をくねらせ大声で笑っていた。
 私はまるで死人のようにぽつんと座ったままだった。


 里美と両親は泣きながら締め切ったカーテンを開け、窓を開け放った。
 土曜日の朝の陽射しが遥の部屋を一週間ぶりに照らした。
 ボーっとしままの遥をそのままにして、3人はまるで災害救助隊のように部屋を片付け始めた。


 
 お昼過ぎになり、ようやく部屋は元の状態まで復旧した。
 里美はバスに湯を入れ、

 「遥、お風呂に入って来なよ、お湯、入れといたからさ」
 「ありがとう・・・。でも、いいよ、まだ」

 母が言った。

 「お風呂に入ってさっぱりしていらっしゃい、折角里美ちゃんがお風呂の準備をしてくれたんだから」

 それでも私が動こうとしないと里美が叫んだ。


 「何よ! たかが男にフラれたくらいでそんな死にそうな顔して!
 あんたバカじゃないの!
 遥、あんたもう忘れたの? 私が賢二に浮気されて別れた時、私に何て言ったか?
 「あんな男、付き合ったってしょうがないよ、次行こう、次」って言ったじゃない!
 それなのに自分はどうなのよ!
 そんなにやつれて! そんな遥なんか見たくない!」

 里美は私を抱き締めて号泣した。
 父も母も泣いていた。

 「ごめんね里美、でもホントに好きだったんの、聡のこと・・・」

 ふたりは抱き合ったまま、思い切り泣いた。

 
 母が私の背中を摩ってくれた。
 私はゆっくりと立ち上がった。

 「お風呂、入って来る」

 遥の父親はタバコに火を点けると、

 「よし、じゃあ今日はみんなで焼肉でも食いに行くか?
 ビールでも飲んで」
 「おじさんそれ賛成。行こうよ焼肉!」

 里美は泣きながら必死に笑顔を作ろうとした。
 私は脱衣場へと入って行った。



 それから1か月が過ぎた。
 私は少しずつ日常を取り戻してはいたが、傷心はまだ癒えなかった。
 
 久しぶりに大学の軽音楽サークルの練習に顔を出した。
 放課後の西日の入る教室で、同級生の君島光一郎がコルネットを磨いていた。
 私に気付くと光一郎が声を掛けてきた。


 「遥、来週の金曜日、ブルーノート東京にマンハッタン・ジャズ・オーケストラが来るんだけど一緒にどう?」
 「それってデートのお誘いってこと?」
 「そうとも言う」
 「・・・いいよ、どうせヒマだし」
 
 私は軽い気持ちで光一郎の誘いに乗った。

 光一郎は身近な存在だったせいか、男を意識したことはなかった。
 やさしくてインテリ・イケメンの光一郎は、女子たちからも人気があった。

 神様は傷付いた私のために、新しい恋を用意してくれたらしい。 
 
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