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第14話 砂漠の薔薇

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 「すぐにわかりましたか?」
 「ええ、『銀次郎』さんは銀座でも一流のお店ですから」
 
 私と冴島は銀座の有名鮨屋で落ち合うことになっていた。


 「飲物は何にしますか?」
 「じゃあ、ビールを下さい」
 「遥さん、苦手な物はありますか?」
 「ウニとイクラ以外なら大丈夫です」
 「それは良かった、高い物がお嫌いで」

 私たちは笑った。
 冴島はそれを職人に伝えた。

 それから冴島は急に真顔になり、

 「良かった、また遥さんに会えて。
 もう会えないかと思っていました」
 「別に構いませんよ、お食事ならいつでも誘って下さい」

 私は冴島の反応を注視したが、表情に変化はなかった。
 
 (お食事だけよ、それ以上はダメ。取引先としての仕事上のお付き合いだけ)

 
 寿司を摘まみながら、私は考えていた。
 男は外見も大切だが、それ以上に重要なのが会話だ。
 話のつまらない男との時間は地獄だ。
 冴島と一緒に話していると時間を忘れてしまう。

 そして男の器量とは食事をしている時にわかるものだ。
 さり気ない気配りが出来る男は仕事も出来る。
 それは招待者に対してだけではなく、お店の人や周りに対する気配りもそうだからだ。
 
 「俺は客だ!」

 そう言う態度の男は論外だが、さらに注目すべきは「食べ方」だ。
 もちろんこれは男性に限った事ではない。食事にはその人の品性ややさしさ、教養が出るものだ。
 本来、体内に入れる、あるいは出すという行為は、性行為や排せつ行為と同様に人に見せるものではない。
 身体に出し入れする行為は不浄とされる。
 そもそも「食べる」とは「命を食べる」ことでもある。
 皇族が食事を召し上がっている様を、公にしないこともそこに理由がある。


 鮨屋は客を見る。
 この客のレベルを計り値段を決めるのだ。
 女連れの場合、勘定は高くなる。
 女にいいところを見せようとするからだ。
 だが冴島は場慣れしていた。
 商社マンとしての接待も多い冴島は、職人や仲居さん、そして食材に対する感謝まで窺えた。

 「大将、いつも美味しい寿司をありがとう。
 今日も素晴らしく美味しいよ、『銀次郎』の寿司は世界一だ」
 「そんな風に食べてくれる冴島さんを見てると、もっと悦ばせたくなるんだよなあ。
 あんた、人をその気にさせる天才だよ。
 ねえ、お嬢さん」
 「冴島さんはやり手の商社マンですからね?」

 大将の言う通りだと思った。
 冴島は人をその気にさせる名人だ。


 「遥さん、近くに凄く雰囲気の良いBARがあるんですが、でも今日は時間がないんでしたよね?
 それじゃ次回ということで」

 冴島は私の自分に対する想いを推し量ろうとしていた。
 そしてまた、先日のように私を独り占めしたいと考えているのは明白だった。


 「いいですよ、一杯だけなら」

 (大丈夫、今からなら21時の電車に間に合う)



 銀座の裏通りを冴島と歩いていると、すれ違う女性からゲランの『夜間飛行』の香りがした。


 「ここです」

 そこは更に袋小路の奥にある小さなBARだった。

 「Rose de Sahara?」
 「そうです、『サハラのバラ』です。さあ、中へどうぞ」

 冴島は真鍮製のキックプレートの付いた、重厚なマホガニーのドアを開けた。
 そこにはアラビアの砂の街を思わせるような、淫靡な雰囲気が漂っていた。
 ムスクのお香が焚かれ、気怠いモロッコの音楽が流れていた。


 「カサブランカに来たみたいでしょう?
 サハラ砂漠に出来る、薔薇の形をした砂の結晶。ほら、あそこに飾ってあるのがそれです」


 冴島の示したそれは、折り重なるように薔薇の形をした石が、スポットライトに照らされてガラスケースの中に収められていた。

 「神秘的な石ですね? ほんと、薔薇みたい。
 初めて見ました」
 「いいでしょう? 砂漠に咲くバラ。
 ロマンチックですよね? 永遠の薔薇です、遥さんは本物の美しい薔薇ですけどね?
 遥さんは何を飲みますか?」
 「私はベリーニを」

 今日は光一郎に残業だと言って家を出て来たので、強い酒は控えてシャンパンベースの桃のカクテルにした。

 「僕はギムレットを」
 「かしこまりました」

 銀髪の品の良い老バーテンダーは酒の用意を始めた。

 
 この店のエロチックな雰囲気と甘いカクテルに、私のさっきまでの堅い誓いは緩み始めていた。

 「遥さん、僕は君を忘れることが出来なくなってしまいました」
 「・・・」

 私は何も答えずに、再びカクテルを口にした。

 (彼は私を求めている)

 「このままあなたとどこかへ行ってしまいたい気分です」
 「冴島さん、酔っていらっしゃるのね?
 あの夜のことは夢、一夜限りの夢。
 一度だけの戯れだと、そうお約束したはずですよ?」
 「私はしていませんよ、そんな約束。
 それを言ったのは遥さんで、僕は同意も否定もしなかった。
 僕はあなたのすべてが欲しい」

 冴島の太い血管の浮き出た大きな手が、私の手を握った。

 「どうして冴島さんは私を困らせるの? 私は人妻で子供もいるのよ」
 「好きなんだ! 遥さんのことが」
 「冴島さんにだって家族がいるじゃないですか?
 これ以上進んではいけないわ、私たち。
 周りを巻き込みたくはないの。もう嘘は吐きたくないの」
 「確かに僕は非常識かもしれない、なんと言われても構わない。
 妻とは来月、離婚することにしました。
 遥さん、僕はあなたが欲しい。真剣に愛しているんです!」
 「もう止めましょう、こんな話。
 そろそろ時間なので私はこれで。今日はご馳走様でした」

 私がそう言って椅子から立ち上がろうとした時、冴島は唇を重ねてきた。

 私の抵抗は徐々に弱まり、ついにそれに応じてしまった。

 「遥さんを帰したくない」

 私は再び椅子に座った。

 「テキーラを下さい、ダブルで」


 私はその夜、何もかも忘れて再び女へと変貌を遂げた。
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