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第13話 甘い誘惑

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 そして今も私の心は揺れていた。

 私は紅葉を寝かしつけると、リビングでバラエティ番組を観ていた。
 関西のお笑い芸人が、関西弁で捲くし立てるトークが苛立たしく、私はテレビを消した。

 静寂に包まれた空間で、私は冴島との刺激的な夜を思い出していた。

 光一郎から今夜は残業で遅くなるとLINEが入った。
 
 あの一夜の出来事は、紅葉が生まれてからの光一郎とのセックスレスによる欲求不満のせいだと割り切ろうとした。
 それは冴島に対する恋心などではなく、ただの成り行き、一夜の火遊びだったと自分を納得させようとした。
 しかしそれは、愛とは呼べないまでも明らかに恋ではあったはずだ。
 光一郎はやさしく子煩悩で理想的な夫ではあるが、いつも彼は「受け身」だった。
 物事を決めるのはいつも私。
 だが冴島は常にアグレッシブであり、女をグイグイ引っ張っていくタイプの男性だった。

 それはベッドでも同じだった。
 草食系の光一郎と野獣のような冴島。
 私は身体が熱くなるのを感じていた。


 そこへ偶然、冴島からLINEが届いた。

   遥さんのことが
   忘れられません
   また 会えませ
   んか?

 私はそれを既読にしたまま、返信を保留にした。

 (あの時約束したじゃないの、一度だけって)


 光一郎が帰って来た。

 「ただいまー」
 「お帰りなさい、ご飯が先?」
 「うん、ああ、お腹空いたー」
 
 私はキッチンに立ち、光一郎のために煮込みハンバーグを温め始めた。


 光一郎は部屋着に着替えると冷蔵庫から缶ビールを取出し、食卓に着いた。
 光一郎はリモコンでテレビを点けた。
 深夜のスポーツ番組が流れ、会話の少ないふたりの空間を埋めてくれた。


 「はい、お待ち同様、今日は煮込みハンバーグよ」
 「うまそーだなあー、さすがは遥、レストランみたいだよ、ありがとう」

 おいしそうに料理を食べて褒めてくれる光一郎に、私は胸が締め付けられる想いだった。

 「明日も早いんだろ? いいよ先に休んでも。
 あとは自分でやるから」
 「そう、悪いわね。
 じゃあお休みなさい」


 私はベッドに入いり、冴島から届いていたLINEを再度確認した。

 いますぐにでも会いたいと思った。
 冴島に今すぐ抱かれたいと。

   「遥さんのことが忘れられません」

 それは私も同じだった。
 私は何度もそれを読み返した。


 そしてついに私は冴島に返信をしてしまった。

   明日の夜なら
   いいですよ
   少しの時間だけ
   なら


 私は「会うだけ」と自分に言い訳をした。
 「少しの時間だけなら」と敢えて前置きしたのは、「抱かれることはできませんよ」という布石だった。
 すぐに冴島から返信が来た。

          明日が楽しみで
          今夜は眠れそう
          にありません
          明日の夜が待ち
          遠しい想いです
          おやすみなさい
  
   おやすみなさい


 私はスポーツジムで鍛えられた冴島の肉体を思い出し、携帯を抱き締めた。
 体が熱い。
 私は自分を慰め、すぐに眠りに落ちて行った。



 翌朝、光一郎に嘘を吐いた。

 「今日の紅葉のお迎えは光一郎だよね? 私、今日は少し遅くなるかも。20日締めの請求書の整理があるの」
 「わかった、この前みたいにあまり遅くならないようにな」

 (この前みたいに?)

 私は光一郎に対する背徳感と罪悪感で押しつぶされそうだった。

 「じゃあ行ってきます」
 「いってらっしゃい」

 私は光一郎の背中を詫びるように見送った。

 (ごめんね、光一郎)
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