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第12話 遥の忘れ物

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 その日を境にして光一郎との付き合いが始まった。
 最初はほんの気晴らしのつもりだったが、光一郎のピュアな想いが私の心を次第に開いていった。

 「ねえ、今日は何が食べたい?」
 「カレーがいいな、遥のカレーライス、旨いから」
 「でもね、あのカレーを作るには5日は掛かるから今日は無理だよ」
 「じゃあ、すき家の牛丼でいいよ、早いし安いし旨いから」
 「そうだね、たまには牛丼もいいかもね? じゃあ牛丼食べて帰ろうか?」


 いつしか私と光一郎はお互いの家を行き来するようになっていた。

 聡とは週末婚だったから、ひとり寝が寂しい夜もあった。
 肌の温もりのある生活に心は癒された。


 親友の里美も喜んでくれた。

 「良かったじゃないの、光一郎は女子の憧れだよ、それを虜にするんだからやっぱり遥はすごいよ」

 だが、私にはもう一人の自分がいた。
 それはまだ聡のことを諦めきれない自分だった。

 忘れよう忘れようと思えば思うほど、ぴったりと私の背中に張り付く聡の亡霊。

 光一郎は彼氏として申し分のない男性だが、ただ「不満がないのが不満」だった。
 頭が良くて誠実でイケメンでやさしい光一郎。
 確かに光一郎のことは好きだ。
 でもそれは恋愛と呼ぶには何かが足りなかった。
 光一郎はただ甘いだけの滑らかなプリンで、苦味のあるカラメルソースが掛かってはいなかった。
 それは贅沢な悩みかもしれない。
 私の想いは複雑だった。



 大学を卒業すると私は大手食品会社の購買部へ、そして光一郎は家電メーカーの総務部で働くようになっていた。


 就職して3年が過ぎた頃、光一郎に初めて抱かれたホテルのレストランで食事に誘われた。

 ふたりが食事をしていると、突然レストランの照明が消えた。

 するとスタッフに扮したゴスペルシンガーたちが「愛こそすべて」を歌い始めた。
 そしてワゴンに載せられたケーキがやって来た。

 「遥、ナイフを入れてごらん」

 何かに当たる感触があった。
 それはガラスの容器に入れられた婚約指輪だった。

 「遥、僕と結婚して下さい」
 「はい」

 何となくそんな予感はしていた。
 私は聡への気持ちの整理がつかぬまま、光一郎のプロボーズを受けてしまった。
 その時、私には光一郎の申し出を断ることが出来なかった

 再び照明が点き、割れんばかりの拍手の中、今度は「変わらぬ想い」がアカペラで歌われ、光一郎のプロポーズに協力してくれたお客さんやスタッフさんが涙ぐんで祝福してくれた。

 私も泣いた。
 だがそれは光一郎に対する「忖度の涙」だった。
 私は困惑していた。
 もう一人の遥が自分に問い掛けて来た。

 「いいの? 本当に光一郎で?」

 私はもうひとりの自分を置き去りにしたまま、光一郎との結婚を決めた。


 

 半年後、私たちは都内のホテルで結婚式を挙げた。
 「形から入る結婚生活」もあるはずだと、私は自分にそう言い聞かせた。

 でも私は気付いていた。自分の聡への恋心という忘れ物に。

 だがそれは私の手の遠く及ばぬところに置き去りのまま、それを取りに行くことは出来なかった。

 何不自由のない生活。

 そこに私の幸福感は満たされることは無かった。
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