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第四章

第24話 春の日

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 月次決算は今月も前年対比15%の利益増だった。
 財務諸表に目を通していると、祥子が珈琲を淹れてやって来た。

 「今月の業績も良かったようですね? 少し休憩されてはいかがですか?
 成績の良い通信簿なんて、どうせ見てもしょうがないじゃないですか?」
 「好事魔多しだよ。好調な時にこそ細心の注意を払う必要がある」

 祥子はそっと珈琲と落雁を置いた。

 「ここから見る千鳥ヶ淵の桜はとても綺麗ですね? お花見に行きたいくらい」
 「珈琲に落雁でか?」
 「意外と合うんですよ、落雁を口に入れてコーヒーを飲むと、すっと溶けて淡い甘さが口に拡がるんです。今日のこの桜のようにふんわりと」
 「今日の珈琲は何だ?」
 「テクニカルウッドの村山さんからのいただき物のブルーマウンテンです。もう少しローストした方がいいとは思いませんか?」
 「俺は祥子のように味覚が鋭敏じゃねえからな?」

 俺は祥子に言われた通り、落雁を一口齧って珈琲を飲んだ。

 「うん、結構合うな? 落雁とブルマン?」
 「この落雁に合うように、珈琲は少し長めに蒸らしました」
 「どうだ? 桜も咲いたし、昼飯に鰻でも食いに行かねえか?」
 「あら、私の念力が社長に通じたのかしら? 今日は鰻の気分だったんです、私」
 「そうか? じゃあ今日は岩倉さんとよく行った『山岡』の鰻でも食いに行くか? 普通の店は花見客で混んでいるだろうからな?」
 「では予約しておきますね?」
 「ああ、13時半に予約しておいてくれ」
 「かしこまりました」


 
 祥子は俺のカラのビジネスバッグを持って会社を出た。
 あくまで俺の秘書としての随行を装うために。
 社用車に乗り込むと運転手の角田に言った。

 「帰りは勝手に帰るから大丈夫だからな?」
 「かしこまりました。お気を付けて」
 
 祥子は角田に小さなブーケを渡した。

 「角田さん、今日は結婚記念日ですよね? これ、奥さんに」
 「いつも気にかけていただいて、ありがとうございます。あやうく忘れるところでした」
 「そうか? 結婚記念日か?」

 俺は財布から1万円札を1枚抜いて角田に渡した。

 「なんだか申し訳ありません、わたくし事ですのに」
 「お前にやるんじゃねえよ、そのままお母ちゃんに渡せよ」
 「ありがとうございます。では遠慮なく」
 
 角田は恭しくそれを受け取った。
 運転手の角田は余計な詮索はしない男だ。


 店にクルマが到着すると、

 「角田さん、少しここで待っていて頂戴ね?」
 「はい、田子倉課長」

 鰻屋に入ると祥子が女将に言った。

 「イワスギホームの田子倉です。
 女将さん、頼んでおいたお弁当、出来ていますか?」
 「いつもありがとうございます。祥子ちゃん。
 特上がおふたつでしたよね? ハイどうぞ」
 「ありがとうございます。社長、角田さんに渡して来ますね?」
 「お前はいつも気が利くな?」
 「角田さんは私たちの大切なですから。あはははは」

 小走りに店を出て行く祥子。

 

 「角田さん、これ、社長からの結婚記念日のお祝いです。
 奥さんとどうぞ」
 「こんな老舗の『山岡』の鰻まで。課長、いつもすみません。社長にもよろしくお伝え下さい」
 「ご苦労様、気を付けて帰ってね?」
 「お疲れ様です。では失礼いたします」

 仕事が出来るとは気配りが出来ることを言う。
 祥子は秘書としても一流だった。


 「昼飯を食うのに俺の鞄まで持って、用意周到だな? 田子倉課長は?」
 「どこで誰が見ているかわかりませんからね? 鰻屋さんじゃなく、これは業務の一環ですから。うふっ」

 祥子は座敷に俺の鞄と自分のビジネスバッグを置いた。
 中庭のしだれ桜はまだ五分咲きだったが、松や苔、芽吹き始めた新緑の木々が午後の陽射しを浴びて輝いていた。


 「杉田社長、いつもありがとうございます。また今年もお花見の季節になりましたね?」

 女将自らが挨拶にやって来た。

 「取り敢えず生2つ」
 「社長、私はまだお仕事が」
 「そうか? じゃあ俺が2つ飲むからいい。女将、生2つくれ。
 あと何かすぐ出来るやつ。ここの鰻は時間が掛かるからな?」
 「畏れ入ります。ではいくつかおススメをご用意させていただきます」

 女将は静かに襖を閉めた。

 「祥子、もう春だなあ」
 「卒業式に入学式、そして歓送迎会の季節になりましたね?」
 「早いもんだぜ、人生は。この前までは寒い冬だったのにな?」

 女将が声を掛けて襖を開けた。

 「お待ちどうさまでした。菜の花と筍、そして酢漬けのニシンでございます。
 後程、肝焼きと出汁巻きをお持ちいたします。
 杉田社長にはおビールを。祥子ちゃんには私物の鉄観音茶をお持ちしました。美味しいわよ、どうぞ召し上がれ」
 「ありがとう女将さん」
 「菜の花と筍か? 旨そうだ」
 「ありがとうございます。春ですからね?」

 女将が下がると、俺は祥子の前にビールを置いた。

 「今日はこのまま直帰しろ」
 「いいんですか?」
 「社長命令だ。いいから飲め。
 いつもありがとうな? 祥子」
 「どうしたんですか社長? 今日は何かヘンですよ? お昼から鰻なんかに誘ってくれて? そして「いつもありがとう」だなんて?」
 「まあ、いいから飲め」
 「いただきます」

 祥子と俺は生ビールを飲んだ。

 「ああ、美味しい。昼間に飲むビールには罪悪感がありますよね?
 だから美味しいのか? あはははは」
 「お前たちが一生懸命働いてくれるお陰で、会社も上手く回っている。
 会社が上向きな時に俺もこのイワスギホームを卒業したいと考えているんだ。
 いつまでも偉そうに、ジジイが組織のトップにいちゃいけねえ。
 民自党を見てみろ、パンパースをしたジジイがまだ権力の座にしがみついているじゃねえか? だから組織が腐るんだ。
 俺はイワスギホームを腐らせたくはねえ」
 「駄目ですよ社長。そんなことは私が許しませんからね。社長あってのイワスギホームなんですから。
 社員も私と同じ考えだと思います。まだまだ会社には杉田社長が必要です」
 「祥子、お前、常務になれ」
 「イヤですよ、常務だなんて。誰が社長に美味しいお茶を淹れるんですか?」
 「なって欲しいんだ、お前に。
 そしてアイツらを支えてやってくれ」
 「私は社長を支えたいんです」
 「俺はな? もう休みてえんだよ。今までずっと働いて来たんだぜ。
 そろそろ俺にも休みをくれよ。
 俺には夢があってな? 引退したら鎌倉に『港町食堂』って名前の小さな定食屋をやりてえんだ。そして二階が俺の住まい。
 クルーザーを買って毎日釣りに出掛け、その日に釣れた魚を店で出す。
 近くに畑を借りて野菜も作るんだ。
 店の営業時間は日の出から日没まで。雨の日は休み。本を読んだり音楽を聴いたりしてな?
 晴耕雨読ってやつだ。
 そしてあの宮沢賢治の「アメニモマケズ」みてえな暮らしがしてえんだよ」
 「社長・・・」
 「我儘言って悪りいな?」
 「私もあなたと一緒にやりたい! その『港町食堂』を!」
 「お前はお客だ。いつでも食いに来い。お前は永久にタダで食わせてやるからな。あはははは」
 
 祥子はめずらしく泣いていた。
 泣きながら鰻を食べていた。
 季節はもう春だと言うのに。
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