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牛尾田の話 その二
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もう陽が落ちそうになる時刻の駅前の商店街を、後ろに男の子を乗せた
電動自転車が走っていた。
運転しているのは爽やかな白地のTシャツを着た父親らしき男だ。
自転車がドラッグストアの前を通り過ぎた時、脇道から人が進路方向に
飛び出してきて、その男は「オオッ」と大声をあげてブレーキをかけた。
自転車は立ちはだかる男の直前で止まった。
「危ねえな!!」
父親はその顔に似合わぬドスの聞いた声を出した。が、立ちはだかった男の顔を
見ると、今度は視線を落として不服そうに俯いてしまった。
「スピード出しすぎなんじゃないのか? 自転車って言ってもな、軽車両
なんだから、ぶつかったら怪我じゃ済まないかもしれないんだぞ。」
「すいませんス。牛尾田さん」男はペコリと頭を下げた。
「まぁいいや。ちょっといいか?」牛尾田は顎で道の端を示した。
男は仕方なく、後ろに載せた男の子に「よし君。ちょっと待ってて」と声をかけ、
後輪部分を持ち上げて自転車のブレーキをかけてから、先を行く牛尾田の背を追って
自転車から少し離れた。
「息子のお迎えか?」
「ええ。保育園のです」
「共働きか? 表ざたに出来ない仕事で、よく保育園入れたな。」
「まぁ・・・」
「女房は知ってんのか? お前がリスって名前で裏稼業で稼いでるって事。
チャカからクスリから死体まで、どんなものでも売ります萬家のリス。
今日もせっせと巣にドングリ溜め込んでます。御用のある時はいつでもどうぞ。
ってな」
「やめてくださいよ」
リスと呼ばれた男は、背後の自転車を気にした。さすがに子供には聞かれたくない
のだろう。
「で、今日は何ですか?」
「いやまぁな。別に用ってほどでも無いんだけどな、リスは元気かなぁと
思ってさ。」
そう言っておいて、牛尾田が用事も無いのに会いに来た事などほとんどない。
リスがまた嫌悪の気持ちを顔に出すと
「そんな顔するなよ」と牛尾田にポンポンと肩を叩かれた。
「なんか、戸越の近くが騒がしいんだけどな。何か知ってるか?」
今さっきとは打って変わって、抑えた声で顔を寄せて聞いてきた。
戸越は「天明興行」という株式会社の看板を出しているが、中身はヤクザまがいの
商売をやっている会社の社長だ。
戸越社長は、自分や会社が変に目立つ事を嫌う。それでいて陰では法律ギリギリ、
と言うかほとんど違法の商売で甘い汁を吸い続けている男だ。
そんな悪賢い男が、最近は物騒な男たちを集めて何やら騒いでいるのだ。
リスは「参ったな」と言いながら頭を掻いている。
その横顔を眺めながら牛尾田は思った。これだけ目鼻立ちの整ったいい男で、
人当たりも良い。
真っ当な仕事をやっててもそこそこの安定は見込めるだろう。
なのになぜ結婚した妻に隠してまで危ない仕事をやり続けているのか、
理解に苦しむ。
「ネズミっているでしょう? ハッカーの」
「ネズミか。噂だけなら知ってる。」
最近評判のハッカーで、どんなセキュリティーもネズミになら解けないものはない
と言われている。
もちろん警察でもネズミの犯行ではないかと思われる事件を何件か扱ったが、
結局証拠が無く、疑惑だけで引っ張る事も出来ずにいた。
「――そのネズミがですね、よせばいいのに、戸越社長の娘のパソコンに
ハッキングしたんですよ」
「娘? 戸越に娘がいるのか?」
「ええ。大学生の。その娘は自分のパソコンの中に、自分が付き合ったり
関係を持った男との写真を保存していたり、読めば恥ずかしくなるくらいの
日記を書いていたんです。
それを全部ネズミがハッキングして世界中にぶちまけたらしいんです。
当然、戸越社長が怒り狂って、ネズミを捕まえろって大号令かけてるらしい
ですよ。」
大切な娘を傷つけたヤツを痛め殺そうとする親の愛情。分からなくは無い。
先ずはそんなふうに男遍歴をパソコンに保存していた娘を注意すべきでは?
とも思うが――。
ただここで一つ疑問が沸いてきた。
「しかし・・・ネズミは証拠を残さないだろう? なんでバレた?」
リスは「そんな事ですか」と余裕のある表情を見せて答えた。
「ネズミが、裏の人間の誰かと酒を飲んだ時に、酔った勢いでそいつに
喋っちゃったみたいなんです。もちろんネズミは‘‘ここだけの話‘‘って
釘を刺したけど、そういうのが‘‘ここだけの話‘‘で終わるわけないでしょう?」
牛尾田の脳は回転した。
おっかない社長を怒らせて追われた天才ハッカー。
ひょっとしたら、からめばうまい汁が吸えるかもしれない。
ネズミの居場所を先に見つけて戸越に知らせて恩を売る事も出来る。
もしくは、ネズミを先に見つけ、お前の居場所を戸越に教えるぞ。
と脅せば、天才ハッカーが俺の思い通りに扱えるかもしれない。
「パパー! まだー!?」
自転車後ろのキッズシートに座った男の子が大きな声を出すと、
リスは「よし君ごめんね。もうちょっと待って」となだめた。
「そうか。分かった。時間取らせてすまなかったな。」
牛尾田が言うと、リスは「いや、いいんスけど」と不快感を滲みだし
ながら答えた。
「少ないけど、これで息子に何か買ってやってくれ。」
牛尾田がポケットからきれいに折り畳まれた千円札をリスの前に出した。
リスは、一瞬周囲を見回してからサッと札を奪って右ポケットに入れた。
「これはもらったから言うわけじゃないんですけど・・・」
リスは顔を牛尾田の耳に近づけた。
「牛尾田さん、気を付けた方がいいですよ。こっちの世界じゃあ、
いろんな所から結構恨まれてますよ。このままじゃあ危ないですから。」
確かに、警察手帳を盾にしてかなり悪どい事をやってきた。
おおっぴらに自分の過去を喋れないような連中を食い物にして金を搾り取った
事もある。
だからなんだ。この世は弱肉強食、食うか食われるかだ。
悪い奴らを抑えつける力が無ければ、正義は無力だ。むしろ力があるものこそが
正義であって、小さく力のない者たちは、大人しく落ち葉の下ででもカサカサ動いて
餌を探していればいいんだ。
「じゃあ、どうも」
ペコリと頭を下げたリスに「おう、またな」と手を振る。
少し安堵した顔で息子の待つ自転車に向かおうとしたリスに、
「そうだ、あともうひとつだけ」と声をかけた。
「なんですか?」
振り向いたリスの眉間に明らかな皺が寄っている。
「いや大したことじゃないんだけどよ・・・さっきの、ネズミと酒を飲んで、
戸越の娘の話を聞いて、それを周りにバラした奴がいるって言ってたよな?」
「・・・ええ」
「そいつなんだが・・・ひょっとして、お前なんじゃないか?」
リスは、牛尾田を見たまま口角をあげてニヤリと一笑いした。
そして、「違いますよ」と言うと、またペコリと頭を下げて、
自転車に近寄っていった。
怒る息子にごめんごめんと謝りながら、遠くなっていく自転車を
牛尾田は見送った。
この世には、正直な心のきれいな人間ってのはいなくなってしまったのか?
そう思うしかないみたいな、俺の周りの世界よ。
牛尾田は、歩き始めた。
これからどうやってこのうまそうな話しに絡んでいこうか、
アレコレと思案を重ねながら歩いた。
夕方の商店街は、人影が増え、少し賑やかになってきている。
ふと、牛尾田は足を止めた。
その視線の先には、白髪交じりの男が、妻らしき女性と二人で商店街の
いろいろな店頭を眺めながら談笑して歩いている姿がうつる。
もう子供たちは独立でもしたのだろうか。並んで歩く二人の様子からは、
協力して幾多の困難を乗り越えてきた者たち特有の、落ち着いていて穏やかな
雰囲気が感じられた。
もし、俺があの白髪の男の人生とすり替わっていたら・・・と牛尾田は夢想する。
もっと穏やかで安定した暮らしが出来ていたのだろうか・・・
「そんなのは、死んでも嫌だね」
自分の出した結論に妙に納得した牛尾田は、フン。と何かを鼻であざ笑うと、
陽が傾いていく商店街を黙々と去っていった。
電動自転車が走っていた。
運転しているのは爽やかな白地のTシャツを着た父親らしき男だ。
自転車がドラッグストアの前を通り過ぎた時、脇道から人が進路方向に
飛び出してきて、その男は「オオッ」と大声をあげてブレーキをかけた。
自転車は立ちはだかる男の直前で止まった。
「危ねえな!!」
父親はその顔に似合わぬドスの聞いた声を出した。が、立ちはだかった男の顔を
見ると、今度は視線を落として不服そうに俯いてしまった。
「スピード出しすぎなんじゃないのか? 自転車って言ってもな、軽車両
なんだから、ぶつかったら怪我じゃ済まないかもしれないんだぞ。」
「すいませんス。牛尾田さん」男はペコリと頭を下げた。
「まぁいいや。ちょっといいか?」牛尾田は顎で道の端を示した。
男は仕方なく、後ろに載せた男の子に「よし君。ちょっと待ってて」と声をかけ、
後輪部分を持ち上げて自転車のブレーキをかけてから、先を行く牛尾田の背を追って
自転車から少し離れた。
「息子のお迎えか?」
「ええ。保育園のです」
「共働きか? 表ざたに出来ない仕事で、よく保育園入れたな。」
「まぁ・・・」
「女房は知ってんのか? お前がリスって名前で裏稼業で稼いでるって事。
チャカからクスリから死体まで、どんなものでも売ります萬家のリス。
今日もせっせと巣にドングリ溜め込んでます。御用のある時はいつでもどうぞ。
ってな」
「やめてくださいよ」
リスと呼ばれた男は、背後の自転車を気にした。さすがに子供には聞かれたくない
のだろう。
「で、今日は何ですか?」
「いやまぁな。別に用ってほどでも無いんだけどな、リスは元気かなぁと
思ってさ。」
そう言っておいて、牛尾田が用事も無いのに会いに来た事などほとんどない。
リスがまた嫌悪の気持ちを顔に出すと
「そんな顔するなよ」と牛尾田にポンポンと肩を叩かれた。
「なんか、戸越の近くが騒がしいんだけどな。何か知ってるか?」
今さっきとは打って変わって、抑えた声で顔を寄せて聞いてきた。
戸越は「天明興行」という株式会社の看板を出しているが、中身はヤクザまがいの
商売をやっている会社の社長だ。
戸越社長は、自分や会社が変に目立つ事を嫌う。それでいて陰では法律ギリギリ、
と言うかほとんど違法の商売で甘い汁を吸い続けている男だ。
そんな悪賢い男が、最近は物騒な男たちを集めて何やら騒いでいるのだ。
リスは「参ったな」と言いながら頭を掻いている。
その横顔を眺めながら牛尾田は思った。これだけ目鼻立ちの整ったいい男で、
人当たりも良い。
真っ当な仕事をやっててもそこそこの安定は見込めるだろう。
なのになぜ結婚した妻に隠してまで危ない仕事をやり続けているのか、
理解に苦しむ。
「ネズミっているでしょう? ハッカーの」
「ネズミか。噂だけなら知ってる。」
最近評判のハッカーで、どんなセキュリティーもネズミになら解けないものはない
と言われている。
もちろん警察でもネズミの犯行ではないかと思われる事件を何件か扱ったが、
結局証拠が無く、疑惑だけで引っ張る事も出来ずにいた。
「――そのネズミがですね、よせばいいのに、戸越社長の娘のパソコンに
ハッキングしたんですよ」
「娘? 戸越に娘がいるのか?」
「ええ。大学生の。その娘は自分のパソコンの中に、自分が付き合ったり
関係を持った男との写真を保存していたり、読めば恥ずかしくなるくらいの
日記を書いていたんです。
それを全部ネズミがハッキングして世界中にぶちまけたらしいんです。
当然、戸越社長が怒り狂って、ネズミを捕まえろって大号令かけてるらしい
ですよ。」
大切な娘を傷つけたヤツを痛め殺そうとする親の愛情。分からなくは無い。
先ずはそんなふうに男遍歴をパソコンに保存していた娘を注意すべきでは?
とも思うが――。
ただここで一つ疑問が沸いてきた。
「しかし・・・ネズミは証拠を残さないだろう? なんでバレた?」
リスは「そんな事ですか」と余裕のある表情を見せて答えた。
「ネズミが、裏の人間の誰かと酒を飲んだ時に、酔った勢いでそいつに
喋っちゃったみたいなんです。もちろんネズミは‘‘ここだけの話‘‘って
釘を刺したけど、そういうのが‘‘ここだけの話‘‘で終わるわけないでしょう?」
牛尾田の脳は回転した。
おっかない社長を怒らせて追われた天才ハッカー。
ひょっとしたら、からめばうまい汁が吸えるかもしれない。
ネズミの居場所を先に見つけて戸越に知らせて恩を売る事も出来る。
もしくは、ネズミを先に見つけ、お前の居場所を戸越に教えるぞ。
と脅せば、天才ハッカーが俺の思い通りに扱えるかもしれない。
「パパー! まだー!?」
自転車後ろのキッズシートに座った男の子が大きな声を出すと、
リスは「よし君ごめんね。もうちょっと待って」となだめた。
「そうか。分かった。時間取らせてすまなかったな。」
牛尾田が言うと、リスは「いや、いいんスけど」と不快感を滲みだし
ながら答えた。
「少ないけど、これで息子に何か買ってやってくれ。」
牛尾田がポケットからきれいに折り畳まれた千円札をリスの前に出した。
リスは、一瞬周囲を見回してからサッと札を奪って右ポケットに入れた。
「これはもらったから言うわけじゃないんですけど・・・」
リスは顔を牛尾田の耳に近づけた。
「牛尾田さん、気を付けた方がいいですよ。こっちの世界じゃあ、
いろんな所から結構恨まれてますよ。このままじゃあ危ないですから。」
確かに、警察手帳を盾にしてかなり悪どい事をやってきた。
おおっぴらに自分の過去を喋れないような連中を食い物にして金を搾り取った
事もある。
だからなんだ。この世は弱肉強食、食うか食われるかだ。
悪い奴らを抑えつける力が無ければ、正義は無力だ。むしろ力があるものこそが
正義であって、小さく力のない者たちは、大人しく落ち葉の下ででもカサカサ動いて
餌を探していればいいんだ。
「じゃあ、どうも」
ペコリと頭を下げたリスに「おう、またな」と手を振る。
少し安堵した顔で息子の待つ自転車に向かおうとしたリスに、
「そうだ、あともうひとつだけ」と声をかけた。
「なんですか?」
振り向いたリスの眉間に明らかな皺が寄っている。
「いや大したことじゃないんだけどよ・・・さっきの、ネズミと酒を飲んで、
戸越の娘の話を聞いて、それを周りにバラした奴がいるって言ってたよな?」
「・・・ええ」
「そいつなんだが・・・ひょっとして、お前なんじゃないか?」
リスは、牛尾田を見たまま口角をあげてニヤリと一笑いした。
そして、「違いますよ」と言うと、またペコリと頭を下げて、
自転車に近寄っていった。
怒る息子にごめんごめんと謝りながら、遠くなっていく自転車を
牛尾田は見送った。
この世には、正直な心のきれいな人間ってのはいなくなってしまったのか?
そう思うしかないみたいな、俺の周りの世界よ。
牛尾田は、歩き始めた。
これからどうやってこのうまそうな話しに絡んでいこうか、
アレコレと思案を重ねながら歩いた。
夕方の商店街は、人影が増え、少し賑やかになってきている。
ふと、牛尾田は足を止めた。
その視線の先には、白髪交じりの男が、妻らしき女性と二人で商店街の
いろいろな店頭を眺めながら談笑して歩いている姿がうつる。
もう子供たちは独立でもしたのだろうか。並んで歩く二人の様子からは、
協力して幾多の困難を乗り越えてきた者たち特有の、落ち着いていて穏やかな
雰囲気が感じられた。
もし、俺があの白髪の男の人生とすり替わっていたら・・・と牛尾田は夢想する。
もっと穏やかで安定した暮らしが出来ていたのだろうか・・・
「そんなのは、死んでも嫌だね」
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