7 / 52
第二章 天正十一年十二月二十日
七 忍びの者
しおりを挟む
和泉国と紀州を隔てる和泉山脈は、八百メートル級の山が連なる低い山脈である。北部では金剛山地につながり、古くから修験道の修行場が点在した。そんな山脈の中にある小さな山、牛滝山に分け入る人影が七つ。すでに陽も落ちかけ、辺りには闇が迫っている。
「畜生、ふざけやがって」
先頭を行くのは、孫一郎に大刀を弾き飛ばされた男。人さらいの七人は、ほの暗い山道を山頂に向かっていた。
「おい何処だ! 出てこいよ、俺だ!」
わめく男の目の前に突然、木の葉を踏む音すらなく町娘の姿が現れた。手甲脚絆を身につけ、頭には手ぬぐいを巻き、長い髪を後ろで結んでいる。だが、ただの町娘である訳がない。暗い中にあってなお黒々とした大きな瞳は、まるで飲み込まんとするかの如く、男たちを見つめた。
「随分と時間がかかったな」
町娘の視線に、男たちは少し気後れを見せた。
「いや、その事だけどよ」
「で、小娘はどうした」
てめえも小娘だろうが、という言葉を飲み込んで、男は悔しげな声を上げた。
「逃げられたんだよ、畜生。邪魔が入りやがってよ。だから、あんたらの力を貸してくれねえか。このままじゃ腹の虫が治まらねえ」
「何処で逃げられた」
「おう、案内するよ、来てくれ」
「何処で逃げられたと聞いている」
その感情のこもらぬ声は、男たちの心胆を寒からしめるには充分だった。
「き……紀州街道。岸和田から南に抜けてすぐの辺り。なあ、怒ってんのか。大丈夫だって、次はちゃんと連れて来るからよ、任せてくれって」
「次はない」
その言葉を最後まで聞く事が出来たかどうか。男の首は胴から切り離されていた。力なく倒れるその傍らに、刀を持った黒い影。全身を黒い布で覆った、人とも妖ともつかぬ影が、刀を手に立っている。
「あ、兄貴!」
「てめえ何しやが……」
仲間たちが短刀を手にしたとき、竹籠を背負った一番大きな男が、前のめりに倒れた。その籠を貫いた刀を背中に突き立てて。残った五人は気付いた。ざわざわ、ざわざわざわ。森の中、闇の中、黒い気配が充満している事に。自分たちは、すでに取り囲まれていたのだという事に。影が、闇が、男たちに一斉に襲いかかる。
男たちは悲鳴すら上げられず、ただ全身を何本もの刀に貫かれて死んだ。
「おりんさま」
片膝をつく黒い影を町娘は見やった。目の奥が笑っている。
「人を使うというのは難しいな。まさか、ここまで能なしだとは思わなかった」
「いかがいたします」
「三つに分かれろ。人選は任せる」
「はい」
「貝塚の寺内町には旅籠がある。一つはそこを探れ。もう一つは貝塚より先を探せ。小娘を連れてそう遠くまで行く事はないと思うが、念のためだ」
「残り一つは」
町娘は不意に顔を背けると、闇の中を見つめた。飲み込まんとするかの如く見つめた。
「あれを殺せ」
何処かで枝が揺れた音。
六衛門と太助は、樹上から地面に飛び降りた。闇の中を走る、走る。
「六衛門さま、あれは一体」
「何処ぞの忍びだ。今は黙って走れ、舌をかむぞ」
夜目は利く。会津の山中で鍛えた足腰は、初めての山道でも惑う事なく走れる。忍びは隠密が基本。人里まで降りれば、それ以上追っては来ないだろう。六衛門はそう考えた。だが。
ざわ、ざわ、ざわ。森がざわめく。頭の上に気配がする。それも一つや二つではない。馬鹿な、樹上を移動しているというのか。枝から枝に飛び移りながら、それでも地面を走る自分たちに追いつく速さで。
「太助!」
六衛門は一瞬恐怖した。もしや背後に続く足音が、すでに太助ではない何かに入れ替わっているのではないかと。
「はい!」
だが太助はまだそこにいた。ならば。
「おまえは甚六に見たままを伝えよ。出来るな」
「六衛門さまは」
「わしは時間を稼ぐ」
「そんな」
「行け! 走れ!」
そう叫ぶが早いか、六衛門は跳び、樹上に駆け上がった。そして懐から何かを取り出し、暗闇の中の気配に向けて投げつける。柔らかい物を断つ小さな音がしたかと思うと、闇の中の気配が乱れた。目潰しである。
相手は六衛門以上に夜目が利く。だが夜目が利くというのは、暗闇の中で目を見開いているという事であり、故に目潰しは効果的なのだ。六衛門は続けて懐に両手を突っ込んだ。引き抜いたその手には、いくつもの十字手裏剣が。
「くらえ!」
闇の中の気配に、手裏剣の乱れ打ち。これで何人かの動きを止める事が出来れば。しかし。その狙いは外れた。
「腕は悪くない」
それは背後からの声。六衛門が振り返らんとしたとき。
「ただ遅い」
六衛門の腹から刃(やいば)が生える。背中から腹を貫いたのは、反りも見事な大刀であった。だが自分の後ろに立つ闇に、六衛門はニヤリと笑顔を見せつけた。その懐で弾けた火花が、六衞門の顔を下から照らす。
閃光と轟音。大筒でも撃たれたかと思うほどの爆発音に、近隣の里の者たちは外に出て山を見上げた。
「おりんさま」
辺りはもうすっかり暗い。村はずれの地蔵堂の横に、夜よりもなお暗い、人の形をした闇が片膝をついている。隣には、これといったダメージをくらった様子もなく、ふて腐れた顔で地面にしゃがみ込む町娘の姿。
「髪が何本か焼けてしまった」
「ですから我らにお任せくださいと」
「年寄りは気が短くていかんな」
「何処の草か調べますか」
「もう調べようもないだろう。良いよ、ここは敵地だ。味方はいない」
そして立ち上がると、ひとつ伸びをした。
「では他の者たちと合流を」
「いいや」
町娘は首を振った。
「私は今宵のうちに紀州に向かう。明日には戻る。他の者には、みぞれを探させておけ」
「御意」
影は、音もなく夜の闇の中に溶けた。町娘は小さくつぶやく。
「こんな小さな国ごとき、落としてご覧に入れましょう。父上さま」
「畜生、ふざけやがって」
先頭を行くのは、孫一郎に大刀を弾き飛ばされた男。人さらいの七人は、ほの暗い山道を山頂に向かっていた。
「おい何処だ! 出てこいよ、俺だ!」
わめく男の目の前に突然、木の葉を踏む音すらなく町娘の姿が現れた。手甲脚絆を身につけ、頭には手ぬぐいを巻き、長い髪を後ろで結んでいる。だが、ただの町娘である訳がない。暗い中にあってなお黒々とした大きな瞳は、まるで飲み込まんとするかの如く、男たちを見つめた。
「随分と時間がかかったな」
町娘の視線に、男たちは少し気後れを見せた。
「いや、その事だけどよ」
「で、小娘はどうした」
てめえも小娘だろうが、という言葉を飲み込んで、男は悔しげな声を上げた。
「逃げられたんだよ、畜生。邪魔が入りやがってよ。だから、あんたらの力を貸してくれねえか。このままじゃ腹の虫が治まらねえ」
「何処で逃げられた」
「おう、案内するよ、来てくれ」
「何処で逃げられたと聞いている」
その感情のこもらぬ声は、男たちの心胆を寒からしめるには充分だった。
「き……紀州街道。岸和田から南に抜けてすぐの辺り。なあ、怒ってんのか。大丈夫だって、次はちゃんと連れて来るからよ、任せてくれって」
「次はない」
その言葉を最後まで聞く事が出来たかどうか。男の首は胴から切り離されていた。力なく倒れるその傍らに、刀を持った黒い影。全身を黒い布で覆った、人とも妖ともつかぬ影が、刀を手に立っている。
「あ、兄貴!」
「てめえ何しやが……」
仲間たちが短刀を手にしたとき、竹籠を背負った一番大きな男が、前のめりに倒れた。その籠を貫いた刀を背中に突き立てて。残った五人は気付いた。ざわざわ、ざわざわざわ。森の中、闇の中、黒い気配が充満している事に。自分たちは、すでに取り囲まれていたのだという事に。影が、闇が、男たちに一斉に襲いかかる。
男たちは悲鳴すら上げられず、ただ全身を何本もの刀に貫かれて死んだ。
「おりんさま」
片膝をつく黒い影を町娘は見やった。目の奥が笑っている。
「人を使うというのは難しいな。まさか、ここまで能なしだとは思わなかった」
「いかがいたします」
「三つに分かれろ。人選は任せる」
「はい」
「貝塚の寺内町には旅籠がある。一つはそこを探れ。もう一つは貝塚より先を探せ。小娘を連れてそう遠くまで行く事はないと思うが、念のためだ」
「残り一つは」
町娘は不意に顔を背けると、闇の中を見つめた。飲み込まんとするかの如く見つめた。
「あれを殺せ」
何処かで枝が揺れた音。
六衛門と太助は、樹上から地面に飛び降りた。闇の中を走る、走る。
「六衛門さま、あれは一体」
「何処ぞの忍びだ。今は黙って走れ、舌をかむぞ」
夜目は利く。会津の山中で鍛えた足腰は、初めての山道でも惑う事なく走れる。忍びは隠密が基本。人里まで降りれば、それ以上追っては来ないだろう。六衛門はそう考えた。だが。
ざわ、ざわ、ざわ。森がざわめく。頭の上に気配がする。それも一つや二つではない。馬鹿な、樹上を移動しているというのか。枝から枝に飛び移りながら、それでも地面を走る自分たちに追いつく速さで。
「太助!」
六衛門は一瞬恐怖した。もしや背後に続く足音が、すでに太助ではない何かに入れ替わっているのではないかと。
「はい!」
だが太助はまだそこにいた。ならば。
「おまえは甚六に見たままを伝えよ。出来るな」
「六衛門さまは」
「わしは時間を稼ぐ」
「そんな」
「行け! 走れ!」
そう叫ぶが早いか、六衛門は跳び、樹上に駆け上がった。そして懐から何かを取り出し、暗闇の中の気配に向けて投げつける。柔らかい物を断つ小さな音がしたかと思うと、闇の中の気配が乱れた。目潰しである。
相手は六衛門以上に夜目が利く。だが夜目が利くというのは、暗闇の中で目を見開いているという事であり、故に目潰しは効果的なのだ。六衛門は続けて懐に両手を突っ込んだ。引き抜いたその手には、いくつもの十字手裏剣が。
「くらえ!」
闇の中の気配に、手裏剣の乱れ打ち。これで何人かの動きを止める事が出来れば。しかし。その狙いは外れた。
「腕は悪くない」
それは背後からの声。六衛門が振り返らんとしたとき。
「ただ遅い」
六衛門の腹から刃(やいば)が生える。背中から腹を貫いたのは、反りも見事な大刀であった。だが自分の後ろに立つ闇に、六衛門はニヤリと笑顔を見せつけた。その懐で弾けた火花が、六衞門の顔を下から照らす。
閃光と轟音。大筒でも撃たれたかと思うほどの爆発音に、近隣の里の者たちは外に出て山を見上げた。
「おりんさま」
辺りはもうすっかり暗い。村はずれの地蔵堂の横に、夜よりもなお暗い、人の形をした闇が片膝をついている。隣には、これといったダメージをくらった様子もなく、ふて腐れた顔で地面にしゃがみ込む町娘の姿。
「髪が何本か焼けてしまった」
「ですから我らにお任せくださいと」
「年寄りは気が短くていかんな」
「何処の草か調べますか」
「もう調べようもないだろう。良いよ、ここは敵地だ。味方はいない」
そして立ち上がると、ひとつ伸びをした。
「では他の者たちと合流を」
「いいや」
町娘は首を振った。
「私は今宵のうちに紀州に向かう。明日には戻る。他の者には、みぞれを探させておけ」
「御意」
影は、音もなく夜の闇の中に溶けた。町娘は小さくつぶやく。
「こんな小さな国ごとき、落としてご覧に入れましょう。父上さま」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる