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第二章 天正十一年十二月二十日
六 卜半斎
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かつて大坂にあった本願寺は、織田信長との戦いの果てに焼け落ちた。本願寺顕如は一旦紀州に逃れ、鷺宮に本願寺を置いたのだが、本能寺の変に信長が倒れて後、畿内の実権を握った羽柴秀吉との和睦を受けて、三年後の天正十一年(一五八三年)、すなわちこの年の七月に貝塚へと移ってきたのである。
卜半斎了珍は、元は根来寺の出身であったが、天文二四年(一五五五年)より本願寺支配下の末寺として貝塚寺内町を統治し続けており、顕如の受け入れには積極的であった。
◇ ◇ ◇
「この方は海塚信三郎殿、拙僧の身の回りの世話役を務めている方です。少し変わっているかも知れませんが、よろしくお願い申し上げる」
巨漢の僧の名は卜半斎了珍、この本願寺のある貝塚寺内町の責任者であるという。山門前の変な男、海塚信三郎を紹介すると、孫一郎たち一行を、寺の客間に通してくれた。
「左様ですか。顕如さまへのご挨拶であるならば、この卜半斎が間違いなくお取り次ぎ致しましょう。しかし、本当に顕如さまにお会いにならなくて良いのですか」
孫一郎は全力で遠慮した。
「そそ、そんな滅相もない。それがしのような家格の低い者がお会いなどしてしまったら、ご迷惑も甚だしいでありましょう」
卜半斎は自分の前に置かれた茶碗を手に取ると、静かに口元に運んだ。
「顕如さまは、そのような些細な事を気にはされませんがな」
「いえいえ、顕如さまがされなくとも、こちらがしてしまいますから」
孫一郎は懸命に遠慮し続けた。
「左様ですか。故郷に土産話が出来ると思うのですが、勿体ない事です。して、この寺に参られたのはそれだけが理由ですかな」
「ああっ! いえ、とんでもない。実はこの」
孫一郎は押し黙ったままの少女を卜半斎に紹介した。
「この子の家族の居場所を探さねばならないのです。おそらくはこの近在の村か町に居るものと思われるのですが、それがし共で探すには、雲をつかむようで手が足りません。何かご存じの方は、こちらにいらっしゃらないでしょうか」
孫一郎は、少女と人さらいの事を、手短に卜半斎に話して聞かせた。
「なるほど、人さらいですか」
「はい、ですから近在の娘だとは思うのですが」
しかし卜半斎は首を傾げた。
「拙僧も長くここにおりますが、この娘子は見知りませんな。そもそも人さらいが近在の者をさらうとは限らぬでしょうが、とは言え、まずは近隣から当たるしか方法はござりますまい。まあ顔の広い者は何人か知っております。よろしい、この娘の親が見つかるまで、こちらで預かり置きましょう」
「本当ですか。それは助かります」
孫一郎はホッと息をついた。
「良かったじゃないか、キミ」
だがナギサの言葉にも、うつむいたまま少女は反応しなかった。
「ところで、拙僧も気になった事がございましてな。よろしければ、お答え願えますでしょうか」
「はあ。何でしょうか」
卜半斎は、キョトンとした顔の孫一郎にたずねた。
「いま大坂では、羽柴さまが城を築いておられるとの話ですが」
しまった。その思いは孫一郎の顔に出た。
「拙僧はまだ、大坂までご挨拶に上がれておりませんでしてな。古川殿は旅の途中ご覧になりましたか。どのようなお城ですかな」
確かに、いま大坂では羽柴秀吉公が巨大な城を築いている。それも以前、本願寺があった場所に。気まずい、これは気まずい。
「ああ、何と申しますか、その」
「たいそう大きな城と聞き及んでおりますが」
「は、はい。大きいのはとても、大変に大きいですが」
「本願寺があった場所に建てておられるとか」
「あ、えーっと、その」
孫一郎が困り果てていると、卜半斎は突然笑い出した。
「お気遣いなく。こちらも意地悪でおたずねした訳ではないのです。羽柴さまからは、城を見に来いと催促されておりましてな、しかし拙僧もなかなか忙しく、この貝塚を離れる訳にも参らぬ故、こうしてうかがったまで」
「は、はあ」
「拙僧も仏門の徒なれば、諸行無常は心得ております。寺と言えどもいずれは焼け落ち朽ち果てるもの。それで良いのです。それこそが世の理(ことわり)なのですから」
孫一郎はホッとため息を吐いた。額に汗が浮かんでいる。その様子をしばし見つめた後、卜半斎はナギサに目を移した。
「さて、こちらの法師殿にうかがいますが、どちらで修行なされましたか」
ナギサはギクリと反応した。そりゃまあな、本物の僧侶からすれば気になるだろう、と思ったが、それを顔に出す訳にも口に出す訳にも行かない。
「えっと……それは言わないとダメかな」
マズい、ごまかし切れない。ナギサは焦った。しかし卜半斎は、何故か満足そうに微笑むと、小さくうなずいた。
「いやいや、言わぬもまた、ひとつの答なり」
「では、それで」
「結構結構。ところで古川殿、貴殿は今宵、何処にお泊まりなさるのですかな」
孫一郎は素直に答えた。
「はい、それがしは、空いていれば旅籠に泊まるつもりなのですが」
「左様ですか。して法師殿は」
「え、いや、あのー、どう……しましょうかねえ」
泊まる所など、もちろんない。近代兵器を身につけてはいても、小銭ひとつ持ち合わせていないのだから仕方ない。
「おや、もしかして泊まる所がないと」
卜半斎は驚いたような顔をした。だが明らかに驚いていない。こいつ、まさか最初から気づいていたのか。口ごもっているナギサに卜半斎がこう言った。
「でしたらいかがでしょうな、泊まる所は拙僧が用意できるのですが」
その言葉にナギサは飛びついた。まさにこれこそ地獄に仏。
「え、本当ですか。いや、でも金の持ち合わせがなくて」
「いやいや、それは構いません。ただその代わりと申しては何ですが……」
卜半斎はにんまりと笑った。
卜半斎了珍は、元は根来寺の出身であったが、天文二四年(一五五五年)より本願寺支配下の末寺として貝塚寺内町を統治し続けており、顕如の受け入れには積極的であった。
◇ ◇ ◇
「この方は海塚信三郎殿、拙僧の身の回りの世話役を務めている方です。少し変わっているかも知れませんが、よろしくお願い申し上げる」
巨漢の僧の名は卜半斎了珍、この本願寺のある貝塚寺内町の責任者であるという。山門前の変な男、海塚信三郎を紹介すると、孫一郎たち一行を、寺の客間に通してくれた。
「左様ですか。顕如さまへのご挨拶であるならば、この卜半斎が間違いなくお取り次ぎ致しましょう。しかし、本当に顕如さまにお会いにならなくて良いのですか」
孫一郎は全力で遠慮した。
「そそ、そんな滅相もない。それがしのような家格の低い者がお会いなどしてしまったら、ご迷惑も甚だしいでありましょう」
卜半斎は自分の前に置かれた茶碗を手に取ると、静かに口元に運んだ。
「顕如さまは、そのような些細な事を気にはされませんがな」
「いえいえ、顕如さまがされなくとも、こちらがしてしまいますから」
孫一郎は懸命に遠慮し続けた。
「左様ですか。故郷に土産話が出来ると思うのですが、勿体ない事です。して、この寺に参られたのはそれだけが理由ですかな」
「ああっ! いえ、とんでもない。実はこの」
孫一郎は押し黙ったままの少女を卜半斎に紹介した。
「この子の家族の居場所を探さねばならないのです。おそらくはこの近在の村か町に居るものと思われるのですが、それがし共で探すには、雲をつかむようで手が足りません。何かご存じの方は、こちらにいらっしゃらないでしょうか」
孫一郎は、少女と人さらいの事を、手短に卜半斎に話して聞かせた。
「なるほど、人さらいですか」
「はい、ですから近在の娘だとは思うのですが」
しかし卜半斎は首を傾げた。
「拙僧も長くここにおりますが、この娘子は見知りませんな。そもそも人さらいが近在の者をさらうとは限らぬでしょうが、とは言え、まずは近隣から当たるしか方法はござりますまい。まあ顔の広い者は何人か知っております。よろしい、この娘の親が見つかるまで、こちらで預かり置きましょう」
「本当ですか。それは助かります」
孫一郎はホッと息をついた。
「良かったじゃないか、キミ」
だがナギサの言葉にも、うつむいたまま少女は反応しなかった。
「ところで、拙僧も気になった事がございましてな。よろしければ、お答え願えますでしょうか」
「はあ。何でしょうか」
卜半斎は、キョトンとした顔の孫一郎にたずねた。
「いま大坂では、羽柴さまが城を築いておられるとの話ですが」
しまった。その思いは孫一郎の顔に出た。
「拙僧はまだ、大坂までご挨拶に上がれておりませんでしてな。古川殿は旅の途中ご覧になりましたか。どのようなお城ですかな」
確かに、いま大坂では羽柴秀吉公が巨大な城を築いている。それも以前、本願寺があった場所に。気まずい、これは気まずい。
「ああ、何と申しますか、その」
「たいそう大きな城と聞き及んでおりますが」
「は、はい。大きいのはとても、大変に大きいですが」
「本願寺があった場所に建てておられるとか」
「あ、えーっと、その」
孫一郎が困り果てていると、卜半斎は突然笑い出した。
「お気遣いなく。こちらも意地悪でおたずねした訳ではないのです。羽柴さまからは、城を見に来いと催促されておりましてな、しかし拙僧もなかなか忙しく、この貝塚を離れる訳にも参らぬ故、こうしてうかがったまで」
「は、はあ」
「拙僧も仏門の徒なれば、諸行無常は心得ております。寺と言えどもいずれは焼け落ち朽ち果てるもの。それで良いのです。それこそが世の理(ことわり)なのですから」
孫一郎はホッとため息を吐いた。額に汗が浮かんでいる。その様子をしばし見つめた後、卜半斎はナギサに目を移した。
「さて、こちらの法師殿にうかがいますが、どちらで修行なされましたか」
ナギサはギクリと反応した。そりゃまあな、本物の僧侶からすれば気になるだろう、と思ったが、それを顔に出す訳にも口に出す訳にも行かない。
「えっと……それは言わないとダメかな」
マズい、ごまかし切れない。ナギサは焦った。しかし卜半斎は、何故か満足そうに微笑むと、小さくうなずいた。
「いやいや、言わぬもまた、ひとつの答なり」
「では、それで」
「結構結構。ところで古川殿、貴殿は今宵、何処にお泊まりなさるのですかな」
孫一郎は素直に答えた。
「はい、それがしは、空いていれば旅籠に泊まるつもりなのですが」
「左様ですか。して法師殿は」
「え、いや、あのー、どう……しましょうかねえ」
泊まる所など、もちろんない。近代兵器を身につけてはいても、小銭ひとつ持ち合わせていないのだから仕方ない。
「おや、もしかして泊まる所がないと」
卜半斎は驚いたような顔をした。だが明らかに驚いていない。こいつ、まさか最初から気づいていたのか。口ごもっているナギサに卜半斎がこう言った。
「でしたらいかがでしょうな、泊まる所は拙僧が用意できるのですが」
その言葉にナギサは飛びついた。まさにこれこそ地獄に仏。
「え、本当ですか。いや、でも金の持ち合わせがなくて」
「いやいや、それは構いません。ただその代わりと申しては何ですが……」
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