12 / 52
第三章 天正十一年十二月二十一日
十二 天狗娘
しおりを挟む
その力が目覚めたのは、六つになったばかりの頃。折から続く日照りで、田圃も川も涸れ果てたとき、少女は天を指さしてこう言ったのだ。
「明日、雨が降るよ」
翌日、本当に雨が降った。そしてその雨が、今度は三日降り続いたとき。
「堤が崩れるよ」
その言葉通り堤は崩れ、川は氾濫した。
これがきっかけとなり、城下の人々は噂を口にするようになった。
「吉岡の娘子には、天狗が憑いておる」
やがて噂は城下から城中へと伝わり、殿さまの耳にも入るようになった。下級武士の父親は城主に呼ばれ、娘を連れて城中にまかり越した。
「天狗娘の話が、聞いてみとうてな」
殿さまは優しい笑顔で、そうたずねる。父親は頭を床に擦りつけんばかりに下げた。
「恐れながら申し上げます。天狗などとは言いがかり、ただの子供の戯れ言が、たまさか幾つか当たっただけに過ぎませぬ。殿のお耳を汚すような事は何も」
扇子を開いては閉じ、開いては閉じしながら、殿さまはなおもたずねる。
「まあまあ良いではないか。みどもは毎日毎日、戦の事ばかり考えて、気が疲れておるのじゃ。たまには子供の戯れ言が聞いてみたい。娘子の名は何と申す」
そう言われては、父親も答えざるを得ない。
「はっ……みぞれと申します」
「ほう、みぞれか。可愛い名じゃな。どれ聞かせておくれ、みぞれや」 殿さまはこうたずねた。「サルとタヌキはどちらが強いと思う」
みぞれは小さな体を父親の背に隠すように立ちながら、首を傾げた。
「どっちも強いよ」
殿さまの扇子が動きを止めた。
「では、どちらが勝つ」
「どっちも勝つよ」
「どっちも? どういう事じゃ」
父親が慌てて割って入る。
「殿、ですから戯れ言でございますので」
「おまえは黙っておれ!」
殿さまが床を扇子で叩いた。少女は怯え、涙を浮かべる。しかし殿さまは回答を迫る。
「どちらも勝つとはどういう事じゃ。わかるように申せ」
「……最初におサルさんが勝って、次にタヌキさんが勝つの」
それを聞くと、殿さまは難しい顔になり、何かを思案した。そして再び優しい笑顔を浮かべた。
「ではみぞれ、みどもはどうすれば良いかのう。サルと仲良くするべきか、タヌキと仲良くするべきか」
「わからない」
「わからない? どうしてわからない」
「だってもうすぐ」
「もうすぐどうなる」
「お城が焼けてしまうから」
扇子が床に叩きつけられた。殿さまは何かをわめいていたが、もうみぞれには聞き取れない。ただただ恐ろしかった。
家老から蟄居を命じられ、父娘は家に戻った。心配した母親が、家の外で待っていた。しかし憔悴しきった様子の夫に、声がかけられない。母は無理矢理笑顔を作り、泣きべそをかいている娘の涙を拭った。
「ほら、元気を出しなさい。ご飯ができていますよ。みんなで一緒に食べましょう」
「ねえ、かかさま」
「なあに、みぞれ」
少女は怯えた様子で母にこう問うた。
「かかさまはどうして首を吊っているの?」
母の顔が凍り付く。言葉が出てこない。
「ととさまはどうしてお腹を切っているの?」
父は膝をつき、娘の両肩をつかむと、その目を正面から見つめた。怯えた目が見つめ返す。確信した。この子には、すべてが見えているのだと。
「全部みぞれが悪いの?」
父はみぞれを抱きしめた。母はその腕にすがった。もはや二人には、ただ声を殺して泣く事しかできなかった。
その夜、謎の黒い影の集団が吉岡の家を襲った。嵐の如く訪れたそれは、あっという間に娘のみぞれを引っさらい、何処へともなく姿を消した。
数日後、娘を隠した罪で、父には切腹が言い渡された。母はその後を追って首を吊った。それから一ヶ月と待たずして、城は焼け落ち、殿さまは首を取られた。それをみぞれは随分と後で知った。今からもう三年ほど前の事である。
みぞれは闇の中で目を覚ました。すぐ近くに、孫一郎とナギサの寝息が聞こえる。静かな冬の夜。ふと何かが見えそうになる。だがみぞれは見ないようにした。内なる目を閉じ、心を塞げば何も見えない。この三年で覚えた事である。何も見ず、何も口にしなければ、誰も不幸にならない。自分は不思議な力を持っている。だがそれは、誰のためにもならない悪い力なのだ。だから封じよう。改めてそう考えると、心が少し安らかになった。今日は疲れた。今は眠ろう。
――眠れない。どうして。
今日は冒険の連続だった。みぞれは三年間、誰にも逆らわなかった。逃げようともしなかった。それが当たり前に見えるように。そしていつしか、本当に当たり前になった。みぞれはもう逃げない、誰もがそう思った。だから西国から三河に向かう途上、船が岸和田の港に着いたとき、彼女を縛るものは何もなかったのだ。みぞれはそれを見逃さず、逃げ出した。そして人さらいたちに追われ、孫一郎とナギサに救われ、今はここにいる。
そう、あのときみぞれは助けを求めた。すると孫一郎が現われた。そしてナギサも。偶然だろうか。みぞれの不思議な力が呼び寄せたのではないか。この力は、みぞれを助けてくれるのではないか。いや、駄目だ。そんなことを考えてはいけない。
まだ気が張っているのかも知れない。だから眠れないのだ。みぞれはそう思った。ここにいれば大丈夫、ここは安全……本当にそうだろうか? 何かが心の中で鐘を打つ。心の目が映し出すものを見ろと叫んでいる。嫌だ、もう見ない。もう見ないと誓ったのに。
みぞれがその目を固く閉じたとき、耳に届いたのは、海塚家の玄関の戸を蹴破る音。あのときと同じ音。跳ね起きた彼女が戸口に見たものは、夜より暗い人型の闇。あのときと同じ闇。それは嵐の如く屋内に侵入した。だが。
「明日、雨が降るよ」
翌日、本当に雨が降った。そしてその雨が、今度は三日降り続いたとき。
「堤が崩れるよ」
その言葉通り堤は崩れ、川は氾濫した。
これがきっかけとなり、城下の人々は噂を口にするようになった。
「吉岡の娘子には、天狗が憑いておる」
やがて噂は城下から城中へと伝わり、殿さまの耳にも入るようになった。下級武士の父親は城主に呼ばれ、娘を連れて城中にまかり越した。
「天狗娘の話が、聞いてみとうてな」
殿さまは優しい笑顔で、そうたずねる。父親は頭を床に擦りつけんばかりに下げた。
「恐れながら申し上げます。天狗などとは言いがかり、ただの子供の戯れ言が、たまさか幾つか当たっただけに過ぎませぬ。殿のお耳を汚すような事は何も」
扇子を開いては閉じ、開いては閉じしながら、殿さまはなおもたずねる。
「まあまあ良いではないか。みどもは毎日毎日、戦の事ばかり考えて、気が疲れておるのじゃ。たまには子供の戯れ言が聞いてみたい。娘子の名は何と申す」
そう言われては、父親も答えざるを得ない。
「はっ……みぞれと申します」
「ほう、みぞれか。可愛い名じゃな。どれ聞かせておくれ、みぞれや」 殿さまはこうたずねた。「サルとタヌキはどちらが強いと思う」
みぞれは小さな体を父親の背に隠すように立ちながら、首を傾げた。
「どっちも強いよ」
殿さまの扇子が動きを止めた。
「では、どちらが勝つ」
「どっちも勝つよ」
「どっちも? どういう事じゃ」
父親が慌てて割って入る。
「殿、ですから戯れ言でございますので」
「おまえは黙っておれ!」
殿さまが床を扇子で叩いた。少女は怯え、涙を浮かべる。しかし殿さまは回答を迫る。
「どちらも勝つとはどういう事じゃ。わかるように申せ」
「……最初におサルさんが勝って、次にタヌキさんが勝つの」
それを聞くと、殿さまは難しい顔になり、何かを思案した。そして再び優しい笑顔を浮かべた。
「ではみぞれ、みどもはどうすれば良いかのう。サルと仲良くするべきか、タヌキと仲良くするべきか」
「わからない」
「わからない? どうしてわからない」
「だってもうすぐ」
「もうすぐどうなる」
「お城が焼けてしまうから」
扇子が床に叩きつけられた。殿さまは何かをわめいていたが、もうみぞれには聞き取れない。ただただ恐ろしかった。
家老から蟄居を命じられ、父娘は家に戻った。心配した母親が、家の外で待っていた。しかし憔悴しきった様子の夫に、声がかけられない。母は無理矢理笑顔を作り、泣きべそをかいている娘の涙を拭った。
「ほら、元気を出しなさい。ご飯ができていますよ。みんなで一緒に食べましょう」
「ねえ、かかさま」
「なあに、みぞれ」
少女は怯えた様子で母にこう問うた。
「かかさまはどうして首を吊っているの?」
母の顔が凍り付く。言葉が出てこない。
「ととさまはどうしてお腹を切っているの?」
父は膝をつき、娘の両肩をつかむと、その目を正面から見つめた。怯えた目が見つめ返す。確信した。この子には、すべてが見えているのだと。
「全部みぞれが悪いの?」
父はみぞれを抱きしめた。母はその腕にすがった。もはや二人には、ただ声を殺して泣く事しかできなかった。
その夜、謎の黒い影の集団が吉岡の家を襲った。嵐の如く訪れたそれは、あっという間に娘のみぞれを引っさらい、何処へともなく姿を消した。
数日後、娘を隠した罪で、父には切腹が言い渡された。母はその後を追って首を吊った。それから一ヶ月と待たずして、城は焼け落ち、殿さまは首を取られた。それをみぞれは随分と後で知った。今からもう三年ほど前の事である。
みぞれは闇の中で目を覚ました。すぐ近くに、孫一郎とナギサの寝息が聞こえる。静かな冬の夜。ふと何かが見えそうになる。だがみぞれは見ないようにした。内なる目を閉じ、心を塞げば何も見えない。この三年で覚えた事である。何も見ず、何も口にしなければ、誰も不幸にならない。自分は不思議な力を持っている。だがそれは、誰のためにもならない悪い力なのだ。だから封じよう。改めてそう考えると、心が少し安らかになった。今日は疲れた。今は眠ろう。
――眠れない。どうして。
今日は冒険の連続だった。みぞれは三年間、誰にも逆らわなかった。逃げようともしなかった。それが当たり前に見えるように。そしていつしか、本当に当たり前になった。みぞれはもう逃げない、誰もがそう思った。だから西国から三河に向かう途上、船が岸和田の港に着いたとき、彼女を縛るものは何もなかったのだ。みぞれはそれを見逃さず、逃げ出した。そして人さらいたちに追われ、孫一郎とナギサに救われ、今はここにいる。
そう、あのときみぞれは助けを求めた。すると孫一郎が現われた。そしてナギサも。偶然だろうか。みぞれの不思議な力が呼び寄せたのではないか。この力は、みぞれを助けてくれるのではないか。いや、駄目だ。そんなことを考えてはいけない。
まだ気が張っているのかも知れない。だから眠れないのだ。みぞれはそう思った。ここにいれば大丈夫、ここは安全……本当にそうだろうか? 何かが心の中で鐘を打つ。心の目が映し出すものを見ろと叫んでいる。嫌だ、もう見ない。もう見ないと誓ったのに。
みぞれがその目を固く閉じたとき、耳に届いたのは、海塚家の玄関の戸を蹴破る音。あのときと同じ音。跳ね起きた彼女が戸口に見たものは、夜より暗い人型の闇。あのときと同じ闇。それは嵐の如く屋内に侵入した。だが。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる