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第三章 天正十一年十二月二十一日
十七 雪姫
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天守のない岸和田城の、本丸にある屋敷の最深部、離れの一番大きな部屋が雪姫の寝所であった。細身の与力、河毛源次郎に連れられて、アーチ状の渡り廊下を歩いていたナギサたち一同だったが、その足が急に止まった。雪姫の寝所から、老女と言うにはいささか若い女房が出てきて、こちらに向かって頭を下げたからだ。いかにも来訪を知っていたという顔である。ナギサの不審に、振り返った卜半斎が答えた。
「雪姫さまは、勘働きの鋭い方でしてな」
河毛与力は女房に近付いてたずねた。
「鶴殿、いかがされました」
「はい、姫さまは誰にもお目にかかりたくないそうでございます」
「ご気分が優れないと?」
「ご気分もお体も、とにかく優れないとおっしゃいまして」
鶴と呼ばれた女房も、ほとほと困ったという感じだった。なるほど、甘やかされて育ったワガママお嬢さまなのかな、ナギサがそう思ったとき。
ナギサの手を握っていた、口の利けぬ少女が手を放した。そしてトコトコと歩いて行く。皆が呆気にとられて見ていると、河毛与力と鶴の隣に立ち止まり、寝所の障子をじっと見つめている。と、突然。
「鶴さま! 姫さまが!」
内側から声がした。鶴は慌てて寝所に飛び込む。二十秒ほど間が空いただろうか、鶴は再び困った顔で寝所から出て来ると、こう言った。
「姫さまが、お目にかかりたいそうです」
部屋には五人の女房が、いそいそと働いていた。その部屋の真ん中に、畳が高く重ねられている。そこに今、身を起こしたのが雪姫さまらしかった。
年の頃なら十四、五歳というところか。孫一郎より二つ三つ下くらいだ。だが子供らしさなど微塵も感じない。長い黒髪は艶を失い、その名の通り白い着物に包まれた白い肌は、白さを通り越して青くさえあった。生気のない、触れれば折れそうなその様子は、孫一郎には正視できないものだった。
雪姫の視線は、口を利かぬ少女に向けられている。そして弱々しく微笑むと、その目を卜半斎に移した。
「花を見ました」
「花、ですと?」
「はい、春の野の花を。この子が見せてくれました」
一同の目が少女に向けられる。当の少女は不機嫌そうにふくれっ面を見せていた。
「まさか生きているうちに、こんな子に出会えるとは思ってもみませんでした。卜半斎さまには御礼申し上げます」
雪姫は精一杯の笑顔を見せている。孫一郎にはそれが理解できた。なればこそ心が痛んだ。ここから逃げ出したいほどに。
「姫さま、縁起でもない事を口になさっては」
鶴は雪姫をたしなめた。
「左様、家中の皆は、雪姫さまがご快癒なさる事を祈っているのです。滅多な事を申されるものではございません」
河毛与力も身を乗り出した。心なしか顔が上気しているようにも見える。けれど、雪姫は首を振った。
「お医者さまが何とおっしゃっているか知っています。この冬を越せるかどうかというところなのでしょう」
鶴と河毛与力は絶句した。その様子が事実であると告げている。部屋の空気が重く沈んだ。しかし。
「その医者、ヤブだね」
ナギサの声に、孫一郎は顔を上げた。他の皆もナギサの顔を見つめていた。
「ヤブ……?」
首を傾げる雪姫に、左のこめかみを押さえたナギサが答える。
「腕の悪い、ろくでもない医者だって事」
「法師殿」
その力強い声に、思わず孫一郎は腰を浮かした。
「何故お医者さまの腕が悪いと思われるのですか」
雪姫は責めるような視線でナギサを見つめた。医者を信用しているのなら、それは当然の反応だろう。しかしナギサはあっけらかんと言い返した。
「だってあなた、何処も悪くないんだもの」
「貴様。適当な事を言うと、ただでは済まさぬぞ」
河毛与力は立ち上がった。刀に手がかかっている。
「お待ちください」
孫一郎はナギサと河毛の間に立ちはだかった。
「雪姫さま、法師殿の話を聞いては頂けませんか」
河毛に斬られると思わなかった訳ではない。しかし今はナギサの言葉が必要なのだ。それは孫一郎の直感であった。
「……聞くだけなら」
冷たい目で睨む雪姫に、ナギサは苦笑を返した。
「そりゃどうも。じゃあまず前提として、雪姫さまは体が重いですよね。頭も重くて物事を考えるのが苦痛だ。ご飯も砂を噛むようで味がしない」
「どうしてそれを」
雪姫の目が丸くなっている。ナギサは続けた。
「確かに私は医者じゃない。だけど体の何処が悪いかくらいならわかる。いわゆるその、法力ってやつ? まあそんな感じで」
「ではどうすれば治るのです。私は病ではないのですか」
雪姫の声に、すがるような響きが混じる。本当に苦しいのだ。苦しくて苦しくて、でもどうしようもなくて、諦めるしかなかったのに、ひょんな所から希望が顔を出した。その事に彼女自身はまだ気づいていない。だがその身の内なる何かが懸命に手を伸ばそうとしている。
「結論から言えば、雪姫さまは病気です。でもその原因は体の中にはないんです」
「それは、つまり」
ナギサの言葉に、雪姫は首を傾げる。しかしもうその目に不信はない。
「心因性のストレスによって脳の一部が不活発になっている、って言っても何の事かわかりませんよね。わかりやすく言うなら、雪姫さまの病気の原因は人です」
「人?」
「そう人。他人です。雪姫さまは他人と話すだけで疲れるのでしょう。他人に見られているだけで焦ったり心配したり辛かったり苦しかったりするのでしょう。常に人に囲まれている事、それが病気の原因です」
「失敬な!」
いきり立ったのは鶴である。
「姫さまを馬鹿にするおつもりか」
「鶴、おやめ」
雪姫の静かな、しかし厳しい言葉だった。
「しかし、姫さま」
「良いからお座りなさい。源次郎殿も、お座りください」
雪姫にそう言われては、鶴も河毛与力も座るしかない。孫一郎も再び腰を下ろした。そして雪姫は悲しげな笑顔を浮かべた。
「法師さまには本当にすべてお見通しなのですね。そうです、私は人が苦手です。けれど私は武家の娘です。そのような弱々しい事を口にはできません」
「強いか弱いかの話じゃない。向き不向きの話です」
そう言うナギサに、雪姫は首を振った。
「同じ事です。武家の娘に向いていないのなら、体面を保ったまま死ぬ方を選びます。さもなくば兄上に迷惑がかかりますから」
「それは違う!」
孫一郎は、天井に響く音で床を叩いた。
「それは断じて違います。大事なのはまず生きる事です。生き残るために死力を尽くす事です。それは武家である前に、人として当然の事なのです。それを迷惑と思う兄などいません。中村さまとて同じ気持ちのはずです。だから……ああ、上手く言えない!」
孫一郎は自分の口下手さ加減が腹立たしかった。しかし隣のナギサからはクスクスと笑う声が聞こえてくる。
「別に、上手く言う必要はないんじゃないの」
「そうでしょうか」
「ちゃんと伝わってると思うよ」
雪姫はうつむき、何かを考え込んでいるようだった。そして何かを思い切ったかのように顔を上げると、ナギサにたずねた。
「もし私が生きられるとしたら、何をすれば良いのでしょう」
ナギサは微笑み、右手の指を四本立てると、一本ずつ折っていった。
「まずは、人の居ない静かな場所に暮らす事。そして、日の光に当たる事。次に、沢山散歩する事。最後に、いっぱい食べる事」
それを聞いて、雪姫は悲しげな表情を浮かべた。
「ああ……お城の中は何処も人だらけですし、ここ以上に静かな場所は難しいですね」
するとナギサは卜半斎をのぞき込んだ。
「本願寺に、静かな場所ってないんですか」
「ふうむ。狭くてもよろしいのなら、人の寄りつかぬ場所は提供できますが」
「じゃあそこで。身の回りの世話は鶴さん一人で」
鶴は慌てた声を上げた。
「えっ、一人ですか」
「あれ、無理?」
無邪気に問いかけるナギサに、しかし鶴はキッと顔を向けた。
「無理などありません!」
「じゃあそれで。他は何とかなりそう?」
雪姫はまた少しうつむいたが「何とか頑張ってみます」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「無理に頑張る必要はないですよ。できる事から徐々に少しずつやって行けば、必ず良くなりますから」
ナギサの笑顔に、雪姫は釣られるように笑顔を返した。それはまだ弱々しかったけれど、懸命さのない自然な笑顔だった。
「あとは、お兄さんを説得できるかどうか、かなあ」
ナギサは河毛与力を見つめた。河毛源次郎は周囲を見回すと、自分の顔を指さした。
「……えっ」
「雪姫さまは、勘働きの鋭い方でしてな」
河毛与力は女房に近付いてたずねた。
「鶴殿、いかがされました」
「はい、姫さまは誰にもお目にかかりたくないそうでございます」
「ご気分が優れないと?」
「ご気分もお体も、とにかく優れないとおっしゃいまして」
鶴と呼ばれた女房も、ほとほと困ったという感じだった。なるほど、甘やかされて育ったワガママお嬢さまなのかな、ナギサがそう思ったとき。
ナギサの手を握っていた、口の利けぬ少女が手を放した。そしてトコトコと歩いて行く。皆が呆気にとられて見ていると、河毛与力と鶴の隣に立ち止まり、寝所の障子をじっと見つめている。と、突然。
「鶴さま! 姫さまが!」
内側から声がした。鶴は慌てて寝所に飛び込む。二十秒ほど間が空いただろうか、鶴は再び困った顔で寝所から出て来ると、こう言った。
「姫さまが、お目にかかりたいそうです」
部屋には五人の女房が、いそいそと働いていた。その部屋の真ん中に、畳が高く重ねられている。そこに今、身を起こしたのが雪姫さまらしかった。
年の頃なら十四、五歳というところか。孫一郎より二つ三つ下くらいだ。だが子供らしさなど微塵も感じない。長い黒髪は艶を失い、その名の通り白い着物に包まれた白い肌は、白さを通り越して青くさえあった。生気のない、触れれば折れそうなその様子は、孫一郎には正視できないものだった。
雪姫の視線は、口を利かぬ少女に向けられている。そして弱々しく微笑むと、その目を卜半斎に移した。
「花を見ました」
「花、ですと?」
「はい、春の野の花を。この子が見せてくれました」
一同の目が少女に向けられる。当の少女は不機嫌そうにふくれっ面を見せていた。
「まさか生きているうちに、こんな子に出会えるとは思ってもみませんでした。卜半斎さまには御礼申し上げます」
雪姫は精一杯の笑顔を見せている。孫一郎にはそれが理解できた。なればこそ心が痛んだ。ここから逃げ出したいほどに。
「姫さま、縁起でもない事を口になさっては」
鶴は雪姫をたしなめた。
「左様、家中の皆は、雪姫さまがご快癒なさる事を祈っているのです。滅多な事を申されるものではございません」
河毛与力も身を乗り出した。心なしか顔が上気しているようにも見える。けれど、雪姫は首を振った。
「お医者さまが何とおっしゃっているか知っています。この冬を越せるかどうかというところなのでしょう」
鶴と河毛与力は絶句した。その様子が事実であると告げている。部屋の空気が重く沈んだ。しかし。
「その医者、ヤブだね」
ナギサの声に、孫一郎は顔を上げた。他の皆もナギサの顔を見つめていた。
「ヤブ……?」
首を傾げる雪姫に、左のこめかみを押さえたナギサが答える。
「腕の悪い、ろくでもない医者だって事」
「法師殿」
その力強い声に、思わず孫一郎は腰を浮かした。
「何故お医者さまの腕が悪いと思われるのですか」
雪姫は責めるような視線でナギサを見つめた。医者を信用しているのなら、それは当然の反応だろう。しかしナギサはあっけらかんと言い返した。
「だってあなた、何処も悪くないんだもの」
「貴様。適当な事を言うと、ただでは済まさぬぞ」
河毛与力は立ち上がった。刀に手がかかっている。
「お待ちください」
孫一郎はナギサと河毛の間に立ちはだかった。
「雪姫さま、法師殿の話を聞いては頂けませんか」
河毛に斬られると思わなかった訳ではない。しかし今はナギサの言葉が必要なのだ。それは孫一郎の直感であった。
「……聞くだけなら」
冷たい目で睨む雪姫に、ナギサは苦笑を返した。
「そりゃどうも。じゃあまず前提として、雪姫さまは体が重いですよね。頭も重くて物事を考えるのが苦痛だ。ご飯も砂を噛むようで味がしない」
「どうしてそれを」
雪姫の目が丸くなっている。ナギサは続けた。
「確かに私は医者じゃない。だけど体の何処が悪いかくらいならわかる。いわゆるその、法力ってやつ? まあそんな感じで」
「ではどうすれば治るのです。私は病ではないのですか」
雪姫の声に、すがるような響きが混じる。本当に苦しいのだ。苦しくて苦しくて、でもどうしようもなくて、諦めるしかなかったのに、ひょんな所から希望が顔を出した。その事に彼女自身はまだ気づいていない。だがその身の内なる何かが懸命に手を伸ばそうとしている。
「結論から言えば、雪姫さまは病気です。でもその原因は体の中にはないんです」
「それは、つまり」
ナギサの言葉に、雪姫は首を傾げる。しかしもうその目に不信はない。
「心因性のストレスによって脳の一部が不活発になっている、って言っても何の事かわかりませんよね。わかりやすく言うなら、雪姫さまの病気の原因は人です」
「人?」
「そう人。他人です。雪姫さまは他人と話すだけで疲れるのでしょう。他人に見られているだけで焦ったり心配したり辛かったり苦しかったりするのでしょう。常に人に囲まれている事、それが病気の原因です」
「失敬な!」
いきり立ったのは鶴である。
「姫さまを馬鹿にするおつもりか」
「鶴、おやめ」
雪姫の静かな、しかし厳しい言葉だった。
「しかし、姫さま」
「良いからお座りなさい。源次郎殿も、お座りください」
雪姫にそう言われては、鶴も河毛与力も座るしかない。孫一郎も再び腰を下ろした。そして雪姫は悲しげな笑顔を浮かべた。
「法師さまには本当にすべてお見通しなのですね。そうです、私は人が苦手です。けれど私は武家の娘です。そのような弱々しい事を口にはできません」
「強いか弱いかの話じゃない。向き不向きの話です」
そう言うナギサに、雪姫は首を振った。
「同じ事です。武家の娘に向いていないのなら、体面を保ったまま死ぬ方を選びます。さもなくば兄上に迷惑がかかりますから」
「それは違う!」
孫一郎は、天井に響く音で床を叩いた。
「それは断じて違います。大事なのはまず生きる事です。生き残るために死力を尽くす事です。それは武家である前に、人として当然の事なのです。それを迷惑と思う兄などいません。中村さまとて同じ気持ちのはずです。だから……ああ、上手く言えない!」
孫一郎は自分の口下手さ加減が腹立たしかった。しかし隣のナギサからはクスクスと笑う声が聞こえてくる。
「別に、上手く言う必要はないんじゃないの」
「そうでしょうか」
「ちゃんと伝わってると思うよ」
雪姫はうつむき、何かを考え込んでいるようだった。そして何かを思い切ったかのように顔を上げると、ナギサにたずねた。
「もし私が生きられるとしたら、何をすれば良いのでしょう」
ナギサは微笑み、右手の指を四本立てると、一本ずつ折っていった。
「まずは、人の居ない静かな場所に暮らす事。そして、日の光に当たる事。次に、沢山散歩する事。最後に、いっぱい食べる事」
それを聞いて、雪姫は悲しげな表情を浮かべた。
「ああ……お城の中は何処も人だらけですし、ここ以上に静かな場所は難しいですね」
するとナギサは卜半斎をのぞき込んだ。
「本願寺に、静かな場所ってないんですか」
「ふうむ。狭くてもよろしいのなら、人の寄りつかぬ場所は提供できますが」
「じゃあそこで。身の回りの世話は鶴さん一人で」
鶴は慌てた声を上げた。
「えっ、一人ですか」
「あれ、無理?」
無邪気に問いかけるナギサに、しかし鶴はキッと顔を向けた。
「無理などありません!」
「じゃあそれで。他は何とかなりそう?」
雪姫はまた少しうつむいたが「何とか頑張ってみます」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「無理に頑張る必要はないですよ。できる事から徐々に少しずつやって行けば、必ず良くなりますから」
ナギサの笑顔に、雪姫は釣られるように笑顔を返した。それはまだ弱々しかったけれど、懸命さのない自然な笑顔だった。
「あとは、お兄さんを説得できるかどうか、かなあ」
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