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第四章 天正十一年十二月二十二日
二十一 雪降る空
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甚六が小瀬の惣堂に戻ったのは、深夜日付の変わる頃。与兵衛は松蔵からもらった握り飯を残しておいてくれた。握り飯といってもヒエやアワの混じったものだが、一日何も腹に入れていなかった甚六にとっては、何よりのごちそうだった。この飢饉の広がる折に、いったい松蔵は何処からこんな米を仕入れてくるのだろう。疑問ではあったが、その問いは封じていた。今はそれより優先すべき事がある。
「親父が生きてるかも知れない」
無言で一気に握り飯を食い終わると、甚六は吐き出すように与兵衛に告げた。
「かも知れない、ってのはどういう事だ」
甚六は順を追って話した。朝の貝塚寺内町で消えた娘たち、佐野の浜での事、そして夜の岸和田の惨劇。
「アレは見れば見るほど親父にしか思えない。だが見れば見るほど親父以外の何かにも思えて来る」
「何だそりゃ」
「だから俺にもわからんのだ。ただ間違いないのは、あの伴天連は何かを企んでいる。親父みたいに見えるあいつは、それに従う下僕だ」
「あの六衞門さまが、伴天連の下僕か」
「考えづらいだろう」
「確かに」
与兵衛も腕を組み唸ったものの、一呼吸置いて、だが、と言った。
「その伴天連は、孫一郎さまに危害を加えそうなのか」
甚六は惣堂の床に、大の字で寝転んでしまった。
「それもわからん。何もかもわからん。わからんという事しかわからんのだ」
「では明日はどうする」
少し呆れたような与兵衛に、甚六は答えた。
「もちろん孫一郎さまをお守りする。あんな連中がウロウロしてるんだ、余計に放っておけんだろう」
それだけ言うと、すぐに寝息を立て始めた。
朝、雪が降った。ちらちらと儚げに降る雪は、積もる事はないのだろう。会津の雪とは随分違う。けれど頬に落ちれば冷たいのは同じだ。灰色の空を見上げながら、孫一郎はその向こうに、見えそうで見えないあの顔を探していた。
「お侍さん」
路地の入り口に立っていた孫一郎は、慌てて脇に退いた。声をかけた町娘は、通りの真ん中でクスクスと笑っている。孫一郎と同じくらいの歳だろうか。手甲脚絆を身につけ、頭に手ぬぐいを巻いた、長い髪を背中で結んだ町娘。まだ幼さの顔に残る、笑顔の可憐な、吸い込まれそうなほど瞳の大きな娘であった。
「どうかなさったんですか」
「いやあ、それがし何かおかしかったですか」
頭を掻き掻き、どぎまぎしている孫一郎が余程おかしかったのだろう、娘は声を上げて笑った。
「あら、ごめんなさい。でも空を見つめながら、ぼうっとしてましたよ」
「ああ、それは癖のようなもので。以前からなのです」
「あまりよろしくありませんね」
「そう、でしょうか」
「はい。雪降る空を見つめていると、心まで冷たくなります」
何故だろう、それはまるで孫一郎がよく知る誰かが口にした言葉に思えた。
「娘さんは、この辺りの出ではないのですか」
孫一郎のその言葉に、娘は大層驚いた顔をした。
「どうしてそう思ったのです?」
「いや、何となくです。何となく雰囲気が違うような気がして」
「私は三河の出身です。お侍さんもこの近辺の方ではないですよね」
「ええ、それがしは会津です。諸国を巡る旅の途中なのです」
「まあ、北国ですね。でしたら雪はお嫌いでしょうに」
「……そうでもないです」
孫一郎は胸に手を当てていた。哀しげな、懐かしげな顔で。
「雪は、嫌いではありません」
そこに。
「孫一郎」
路地の奥から声がした。孫一郎が顔を上げると、娘の姿は何処にもなかった。
「あれ」
「どうしたの、孫一郎」
路地の奥からナギサが顔を出す。
「い、いえ、別に何も」
「そう。朝ご飯できたってさ。奥さんに呼んで来てって言われたから」
「わかりました。ただ、あの、法師殿」
「何?」
孫一郎はもじもじしている。
「いや、その、いくら何でも呼び捨てはどうかと」
「孫一郎は孫一郎でしょ。いいじゃんそれで。さ、早く行こ」
「ええー」
親しき仲にも、と言いたかった孫一郎だが、背を向けてさっさと路地の奥に戻っていくナギサに、何も言えずじまいであった。
孫一郎たちが消えた路地、その斜め向かいの路地の入り口に、さっきの町娘の姿があった。背後に迫る黒い影。影は言った。
「おりんさま、お控えください」
「良いじゃないか、減るもんじゃなし」
服部竜胆は楽しげに笑う。
「我らの寿命が縮みます」
「長生きなどしても良い事は何もないよ。それよりも、さっきので間違いはないんだね」
「はい、みぞれはあの二人と一緒に居るものと思われます」
「手強そうには見えなかったけど」
「ご油断召さりませぬよう」
竜胆が小さく手を挙げた。影はうなずくように頭を下げると、姿を消した。
「また紀州へも行かねばならない。早めに仕掛けたいが、さて」
小さな声でつぶやくと、竜胆は何食わぬ顔で通りを歩いて行った。
「親父が生きてるかも知れない」
無言で一気に握り飯を食い終わると、甚六は吐き出すように与兵衛に告げた。
「かも知れない、ってのはどういう事だ」
甚六は順を追って話した。朝の貝塚寺内町で消えた娘たち、佐野の浜での事、そして夜の岸和田の惨劇。
「アレは見れば見るほど親父にしか思えない。だが見れば見るほど親父以外の何かにも思えて来る」
「何だそりゃ」
「だから俺にもわからんのだ。ただ間違いないのは、あの伴天連は何かを企んでいる。親父みたいに見えるあいつは、それに従う下僕だ」
「あの六衞門さまが、伴天連の下僕か」
「考えづらいだろう」
「確かに」
与兵衛も腕を組み唸ったものの、一呼吸置いて、だが、と言った。
「その伴天連は、孫一郎さまに危害を加えそうなのか」
甚六は惣堂の床に、大の字で寝転んでしまった。
「それもわからん。何もかもわからん。わからんという事しかわからんのだ」
「では明日はどうする」
少し呆れたような与兵衛に、甚六は答えた。
「もちろん孫一郎さまをお守りする。あんな連中がウロウロしてるんだ、余計に放っておけんだろう」
それだけ言うと、すぐに寝息を立て始めた。
朝、雪が降った。ちらちらと儚げに降る雪は、積もる事はないのだろう。会津の雪とは随分違う。けれど頬に落ちれば冷たいのは同じだ。灰色の空を見上げながら、孫一郎はその向こうに、見えそうで見えないあの顔を探していた。
「お侍さん」
路地の入り口に立っていた孫一郎は、慌てて脇に退いた。声をかけた町娘は、通りの真ん中でクスクスと笑っている。孫一郎と同じくらいの歳だろうか。手甲脚絆を身につけ、頭に手ぬぐいを巻いた、長い髪を背中で結んだ町娘。まだ幼さの顔に残る、笑顔の可憐な、吸い込まれそうなほど瞳の大きな娘であった。
「どうかなさったんですか」
「いやあ、それがし何かおかしかったですか」
頭を掻き掻き、どぎまぎしている孫一郎が余程おかしかったのだろう、娘は声を上げて笑った。
「あら、ごめんなさい。でも空を見つめながら、ぼうっとしてましたよ」
「ああ、それは癖のようなもので。以前からなのです」
「あまりよろしくありませんね」
「そう、でしょうか」
「はい。雪降る空を見つめていると、心まで冷たくなります」
何故だろう、それはまるで孫一郎がよく知る誰かが口にした言葉に思えた。
「娘さんは、この辺りの出ではないのですか」
孫一郎のその言葉に、娘は大層驚いた顔をした。
「どうしてそう思ったのです?」
「いや、何となくです。何となく雰囲気が違うような気がして」
「私は三河の出身です。お侍さんもこの近辺の方ではないですよね」
「ええ、それがしは会津です。諸国を巡る旅の途中なのです」
「まあ、北国ですね。でしたら雪はお嫌いでしょうに」
「……そうでもないです」
孫一郎は胸に手を当てていた。哀しげな、懐かしげな顔で。
「雪は、嫌いではありません」
そこに。
「孫一郎」
路地の奥から声がした。孫一郎が顔を上げると、娘の姿は何処にもなかった。
「あれ」
「どうしたの、孫一郎」
路地の奥からナギサが顔を出す。
「い、いえ、別に何も」
「そう。朝ご飯できたってさ。奥さんに呼んで来てって言われたから」
「わかりました。ただ、あの、法師殿」
「何?」
孫一郎はもじもじしている。
「いや、その、いくら何でも呼び捨てはどうかと」
「孫一郎は孫一郎でしょ。いいじゃんそれで。さ、早く行こ」
「ええー」
親しき仲にも、と言いたかった孫一郎だが、背を向けてさっさと路地の奥に戻っていくナギサに、何も言えずじまいであった。
孫一郎たちが消えた路地、その斜め向かいの路地の入り口に、さっきの町娘の姿があった。背後に迫る黒い影。影は言った。
「おりんさま、お控えください」
「良いじゃないか、減るもんじゃなし」
服部竜胆は楽しげに笑う。
「我らの寿命が縮みます」
「長生きなどしても良い事は何もないよ。それよりも、さっきので間違いはないんだね」
「はい、みぞれはあの二人と一緒に居るものと思われます」
「手強そうには見えなかったけど」
「ご油断召さりませぬよう」
竜胆が小さく手を挙げた。影はうなずくように頭を下げると、姿を消した。
「また紀州へも行かねばならない。早めに仕掛けたいが、さて」
小さな声でつぶやくと、竜胆は何食わぬ顔で通りを歩いて行った。
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