ちゃんばら多角形(ポリゴン)

柚緒駆

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第七章 天正十一年十二月二十五日

三十 闇の中の盗人

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 夜の山。街道を行かず、獣道も行かず。樹から樹へ、枝から枝へと渡り歩いて飛び跳ねて、人の目に触れず山脈を越える。その様子から、若い頃には猿飛と渾名された事もある。忍びの群れを束ねていた事もある。しかしそれも過去の事。今、松蔵と名乗る男は、金持ちの蔵に眠る米を狙う、ただの盗人であった。

 日の本中に飢饉の広がるこのご時世、何処の村にも米はない。大名もない物は取れず、各地で年貢を免除する事も増えていると聞く。

 だが大名とて、米を食えねば死ぬはずだ。金持ちも同じく。なのに大名や金持ちは飢え死にしない。それは『蓄え米』があるからだ。農民たちが飢え死ぬのを横目に、大名や金持ちは蓄え米を食って毎日生活しているのである。

 別に松蔵は、その事を非難するつもりはなかった。それもまた人の世である。だが同時に、自分たちが生きるために蓄え米を少しばかり頂戴したところで、何が悪いのかという気持ちはあった。

 とは言え、同じ所から何度も盗んでいると、見つかる恐れがある。なので狙う先を常に分散させていた。この間は岸和田の金持ちの蔵に忍び入った。だから今日は紀州まで足を伸ばす。

 本来なら松蔵は一人暮らしでもあるし、一度働けば次の仕事まで、一月は持つはずだった。それ以上頻繁に盗みを重ねれば、村の連中にもバレるかも知れない。そうなれば殺されるに違いない。いわゆる一銭切、小銭一枚でも盗む者は、村の掟で死罪になる。それが盗みに対するこの時代の『常識』であった。

 盗んで村人に分けたというのならまだしも、独り占めにしていたとなれば、決して許しはすまい。だが松蔵は今、甚六と与兵衛という余所者に関わってしまっている。あの二人のために、余計に米を手に入れねばならない。

 放っておいても良かった。いや、そうすべきだったのだろう。しかし松蔵は、甚六と与兵衛の二人に、若かりし頃の自分の姿を重ねてしまった。どうしても見捨ててはおけなかったのだ。

 今夜の標的は、紀州雑賀の土橋屋敷。大名のいない雑賀では、土豪の屋敷に米が唸っている。これをちょっと多めに頂く算段であった。侵入経路も逃走経路も確認済みだ。バレる事はあるまい、そう思っていた。けれど。

 異変に気付いたのは、土橋屋敷の目と鼻の先。自分以外、誰も居ないはずの夜の闇の中に、誰かが居た。

「誰だ」

 松蔵の声に、闇が笑った。

「それはこちらが聞きたい」

 灯りなどない夜の森。相手の姿は見えない。ただ気配だけがあった。ざわざわと、闇に溶け込み松蔵を包む無数の気配。動けない。ヘビににらまれたカエルである。闇が問う。

「おまえ、雑賀に何の用だ」

 答えられない。まさか盗人でございと言う訳にも行かない。

 すると闇がこう言った。

「盗賊かな? でもただの盗賊にしては、良い動きをしている」

 言い当てられた。松蔵は腹をくくった。

「そういうあんたは何者なんだ」

 闇が面白そうに問いかける。

「良いのかい、それを聞いたら死ぬ事になるよ」
「このままでも、どうせ殺されるんだろう」

「まあそれはそうだね」

 闇はしばし間を置いた。

「……私の名前は竜胆。知らないよね」
「竜胆……まさか、服部の娘じゃあるまいな」

 闇が息を呑んだ。

「何故そう思った」

 当たりか。とてつもないクジを引いてしまった。松蔵は歓喜の声を上げるところだった。

「俺は、俺は確かに盗賊だ。今はな。だが元は草だ。徳川の草だった」
「徳川の草だと」

「そうだ、まだ松平の頃からの草だ。おまえさんが生まれる前だ。若い頃はあちこちに潜った。和泉に潜ったのはもう十二年前だ」
「おまえがいる事を、私は聞かされていない」

「俺だって聞いちゃいない。そもそも俺につなぎを取るヤツが、ここ五年ほど誰もいない。俺は完全に忘れられたのさ」

 悔しげなその松蔵の顔は、竜胆には見えているのだろうか。またしばし間を置いて、竜胆はこうたずねた。

「おまえ、名前は。何処に済んでいる」
「久保村の松蔵だ」

「じゃ松蔵、もう一度徳川さまのために働いてみる気はないか」

 その言葉は松蔵に息を呑ませ、目を瞠らせた。

「もう一度……もう一度」

 うわごとのように繰り返す松蔵に、しかし竜胆はおあずけを食らわせるかの如く、言葉を翻した。

「嫌だと言うなら諦めるけど」
「い、いや待て、やらせてくれ、俺にもう一度働かせてくれ!」

 それは必死の懇願であった。

「俺はまだやれる。そりゃ若い頃と同じって訳には行かないが、今の俺でもやれる事は沢山あるはずだ。だから仕事をくれ。ちゃんとやってみせる」
「面白い」

 竜胆の声は、大笑いしそうな空気を醸し出していた。

「こういう面白いのが拾える。この乱世は楽しい事ばかりだ」

 そして竜胆はこう続けた。

「和泉に紅毛の伴天連がいるのは知っているか」

 聞いた事がある。松蔵はうなずいた。

「噂話では聞いている」
「その伴天連を殺せ。方法は何でも良い。連れが二人ほどいるが、これは無視しろ。おまえの手には負えない」

「わかった。やってみせる」
「年が明けたら、つなぎを取る。なるべく早めに仕留めてくれよ。期待している」

 闇の中の気配が消えた。松蔵は全身から力が抜けそうになるのを何とか堪えた。まだ気を抜く訳にはいかない。これから米を盗まねばならないのだから。
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