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最終章 天正十二年一月一日
四十八 怒濤とイナズマ
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遠い地鳴りはいつしか明確な足音となり、小瀬の惣堂の中に響き渡った。百姓たちは身を寄せ合い、恐怖に耐えている。その緊迫感が頂点に達しようとしたとき、百姓の子供の一人が気付いた。
「お父う、何か燃えてる」
言われてみると、確かに何やら焦げ臭い。やがて目が痛くなってきた。煙が入ってきている。そして誰かが声を上げた。
「上!」
屋根の内側に、赤いものがちらついている。もはや間違いはない。惣堂が燃えているのだ。百姓たちは扉に走り寄った。力を合わせて押し開けようとする。しかし開かない。パニック寸前の百姓たちの後ろから、忠善が静かに前に出た。
「下がっておれ」
背中の刀の柄に手をかけたかと思った瞬間、それは真っ直ぐ縦に振り下ろされた。固い破断音。扉の右側の蝶番が砕けた。
「今だ、押せ!」
忠善のかけ声と共に、再び百姓たちは扉を押す。木の折れ、割れる音。扉は向こう側に倒れた。飛び出す百姓たち。忠善は宣教師を振り返った。
「司祭さま、お急ぎを」
しかし宣教師は、杉乃助の荷物を探っている。
「何をしているのですか」
「酒ガ残ッテイタラ、モッタイナイデショウ」
「それどころではありません」
忠善は宣教師を小脇に抱え上げると、火の回った惣堂から飛び出した。しかし。
そこは人の海。怒濤の如く押し寄せる一揆勢。立ち止まる余地などない。荒れ狂う人の波は忠善を翻弄し、その手から宣教師をもぎ取った。
「司祭さま!」
「ちゅーぜん」
それは、ほんの瞬き一つか二つの間の出来事。走り過ぎて行く、数え切れない人の流れにぶつかり突き飛ばされながら、何とか宣教師が立ち上がったとき。
その胸から刃が生えた。
背中から胸を貫いたのは、反りのない忍び刀。絶句する忠善をあざ笑うかのように、崩れ落ちる宣教師の背後に立つ影。それは。
「杉乃助、貴様!」
杉乃助はしかし、ギラギラと光る目でニヤリと笑った。
「悪いな、俺は松蔵ってんだ」
迸る銀光。忠善は長刀を振り下ろした。巻き込まれた一揆衆が二人、胴を斜めに切断される。しかし松蔵には僅かに届かない。逃げ延びた。松蔵の顔にその思いが表われた瞬間、忠善は二歩踏み込み、切っ先はレの字を書くように跳ね上がった。一揆衆をまた一人巻き込み、上半身を斬り飛ばしながら、長刀の先端は松蔵の左の顎から右のこめかみに走り抜けた。
僅かに傷が浅かったのか、松蔵は即死しなかった。顔面から血を吹き出しながらのたうち回るその姿は、周囲の一揆衆に一瞬の動揺をもたらし、その隙に忠善は宣教師を抱えて走り去った。
岸和田城の兵は、城門から吐き出されるかの如き激しさで飛び出し、素早く市中を駆け抜けた。その勢いのまま岸和田の町から南側に少し進み、広く陣形を形作る。一揆勢に岸和田の町を焼かせる訳にはいかない。その手前に最終防衛ラインを引くのだ。
中村一氏は、この戦いの総大将である。ならば岸和田城に残って采配を振っても良かったのだが、そんな事のできる性格ではない。自ら馬を駆り、七十騎の与力衆と共に岸和田城を出た。そしていざ岸和田市中を駆け抜けようとしたとき。一氏の耳に鉦を叩く音が聞こえた。
ちっきちん、ちっきちん、ちっきちん、ちっきちん。
「なんまいだーぶ、なんまいだーぶ、なんまいだーぶ」
高野聖の如き詠唱が、板葺きの屋根の上から聞こえてくる。しかし、その声は一氏のよく知っているものだった。
「雪!」
屋根を見上げた一氏の目が丸くなる。着物が薄汚れ、髪が乱れてはいたが、そこにいたのは間違いなく雪姫。
「姫さま」
「雪姫さまだ」
一氏の動揺は瞬く間に与力衆にも広がった。
「何をしている、早く雪姫さまをお助けしろ!」
河毛源次郎の指示に、与力たちはみな雪姫の元に集まった。一氏も呆然と見上げている。その首筋に、何か冷たいものを感じた。一氏は思わず振り返る。
一瞬の青い火花と破裂音。同時に猿の如き何かが、弾け飛ぶように落ちた。そして地上で跳ねると、それは刀を構えた、髪の長い娘の姿になった。
「おのれ、何奴」
佐藤次郎左衛門が一氏と娘の間に割って入る。しかし娘は次郎左衛門を見ていない。一氏の事も見ていない。町の入り口の方をにらみつけている。そこに立っていたのは、黒いコートを纏った人影。ナギサである。
「この状況で遠距離トラップなど、正気の沙汰ではないと言えるね」
ピクシーは怒っているようだった。
「でも成功したじゃない。で、バッテリーは」
「五パーセントを切っている。もはや万事休すと言えるね」
しかしナギサに後悔はない。恐怖もない。どちらかと言えば、清々しい気分である。変な感じ。ナギサの顔に、思わず笑みがこぼれた。
「やっぱり殺しておくんだったよ」
服部竜胆の声が震えている。
「後悔は先に立たないもんだって決まってるからね」
対峙するナギサの声には余裕がある。
「ホント、まったくだ。でも」
竜胆はニッと歯を見せた。
「せっかくだから、後悔のお裾分けだ」
そして屋根の上を振り仰ぐ。
「雪」
何人かの与力がすでに屋根に上っている。その真ん中で雪姫は、呆然とした顔で、だがしっかりとした動きで、懐から護り刀を取り出した。白い鞘に包まれた護り刀を。与力たちは息を呑む。竜胆の口が動いた。
し、ね。
雪姫は素早く護り刀を抜くと、一瞬の躊躇も見せずにその刃を自らの喉に突き立て……なかった。さすがにそれは無理だった。いかに強力な催眠でも、生存本能を凌駕するような強制はできないのだ。雪姫の両目から涙が流れる。屋根に上がった与力たちが雪姫に飛びつき、護り刀を取り上げた。竜胆は小さく舌打ちすると、岸和田城を見上げた。
「情けない……こんな小さな城ひとつ落とせないとはね」
「もう諦めな。あんたの目的は何一つ叶わない」
ナギサの言葉に、竜胆はうなずくようにうなだれた。佐藤次郎左衛門の隣には、河毛源次郎が刀を抜き構えている。周囲は与力たちに囲まれて、もう逃げる場所もない。その中で、服部竜胆はこう声を上げた。
「ざーんねーんでした」
「お父う、何か燃えてる」
言われてみると、確かに何やら焦げ臭い。やがて目が痛くなってきた。煙が入ってきている。そして誰かが声を上げた。
「上!」
屋根の内側に、赤いものがちらついている。もはや間違いはない。惣堂が燃えているのだ。百姓たちは扉に走り寄った。力を合わせて押し開けようとする。しかし開かない。パニック寸前の百姓たちの後ろから、忠善が静かに前に出た。
「下がっておれ」
背中の刀の柄に手をかけたかと思った瞬間、それは真っ直ぐ縦に振り下ろされた。固い破断音。扉の右側の蝶番が砕けた。
「今だ、押せ!」
忠善のかけ声と共に、再び百姓たちは扉を押す。木の折れ、割れる音。扉は向こう側に倒れた。飛び出す百姓たち。忠善は宣教師を振り返った。
「司祭さま、お急ぎを」
しかし宣教師は、杉乃助の荷物を探っている。
「何をしているのですか」
「酒ガ残ッテイタラ、モッタイナイデショウ」
「それどころではありません」
忠善は宣教師を小脇に抱え上げると、火の回った惣堂から飛び出した。しかし。
そこは人の海。怒濤の如く押し寄せる一揆勢。立ち止まる余地などない。荒れ狂う人の波は忠善を翻弄し、その手から宣教師をもぎ取った。
「司祭さま!」
「ちゅーぜん」
それは、ほんの瞬き一つか二つの間の出来事。走り過ぎて行く、数え切れない人の流れにぶつかり突き飛ばされながら、何とか宣教師が立ち上がったとき。
その胸から刃が生えた。
背中から胸を貫いたのは、反りのない忍び刀。絶句する忠善をあざ笑うかのように、崩れ落ちる宣教師の背後に立つ影。それは。
「杉乃助、貴様!」
杉乃助はしかし、ギラギラと光る目でニヤリと笑った。
「悪いな、俺は松蔵ってんだ」
迸る銀光。忠善は長刀を振り下ろした。巻き込まれた一揆衆が二人、胴を斜めに切断される。しかし松蔵には僅かに届かない。逃げ延びた。松蔵の顔にその思いが表われた瞬間、忠善は二歩踏み込み、切っ先はレの字を書くように跳ね上がった。一揆衆をまた一人巻き込み、上半身を斬り飛ばしながら、長刀の先端は松蔵の左の顎から右のこめかみに走り抜けた。
僅かに傷が浅かったのか、松蔵は即死しなかった。顔面から血を吹き出しながらのたうち回るその姿は、周囲の一揆衆に一瞬の動揺をもたらし、その隙に忠善は宣教師を抱えて走り去った。
岸和田城の兵は、城門から吐き出されるかの如き激しさで飛び出し、素早く市中を駆け抜けた。その勢いのまま岸和田の町から南側に少し進み、広く陣形を形作る。一揆勢に岸和田の町を焼かせる訳にはいかない。その手前に最終防衛ラインを引くのだ。
中村一氏は、この戦いの総大将である。ならば岸和田城に残って采配を振っても良かったのだが、そんな事のできる性格ではない。自ら馬を駆り、七十騎の与力衆と共に岸和田城を出た。そしていざ岸和田市中を駆け抜けようとしたとき。一氏の耳に鉦を叩く音が聞こえた。
ちっきちん、ちっきちん、ちっきちん、ちっきちん。
「なんまいだーぶ、なんまいだーぶ、なんまいだーぶ」
高野聖の如き詠唱が、板葺きの屋根の上から聞こえてくる。しかし、その声は一氏のよく知っているものだった。
「雪!」
屋根を見上げた一氏の目が丸くなる。着物が薄汚れ、髪が乱れてはいたが、そこにいたのは間違いなく雪姫。
「姫さま」
「雪姫さまだ」
一氏の動揺は瞬く間に与力衆にも広がった。
「何をしている、早く雪姫さまをお助けしろ!」
河毛源次郎の指示に、与力たちはみな雪姫の元に集まった。一氏も呆然と見上げている。その首筋に、何か冷たいものを感じた。一氏は思わず振り返る。
一瞬の青い火花と破裂音。同時に猿の如き何かが、弾け飛ぶように落ちた。そして地上で跳ねると、それは刀を構えた、髪の長い娘の姿になった。
「おのれ、何奴」
佐藤次郎左衛門が一氏と娘の間に割って入る。しかし娘は次郎左衛門を見ていない。一氏の事も見ていない。町の入り口の方をにらみつけている。そこに立っていたのは、黒いコートを纏った人影。ナギサである。
「この状況で遠距離トラップなど、正気の沙汰ではないと言えるね」
ピクシーは怒っているようだった。
「でも成功したじゃない。で、バッテリーは」
「五パーセントを切っている。もはや万事休すと言えるね」
しかしナギサに後悔はない。恐怖もない。どちらかと言えば、清々しい気分である。変な感じ。ナギサの顔に、思わず笑みがこぼれた。
「やっぱり殺しておくんだったよ」
服部竜胆の声が震えている。
「後悔は先に立たないもんだって決まってるからね」
対峙するナギサの声には余裕がある。
「ホント、まったくだ。でも」
竜胆はニッと歯を見せた。
「せっかくだから、後悔のお裾分けだ」
そして屋根の上を振り仰ぐ。
「雪」
何人かの与力がすでに屋根に上っている。その真ん中で雪姫は、呆然とした顔で、だがしっかりとした動きで、懐から護り刀を取り出した。白い鞘に包まれた護り刀を。与力たちは息を呑む。竜胆の口が動いた。
し、ね。
雪姫は素早く護り刀を抜くと、一瞬の躊躇も見せずにその刃を自らの喉に突き立て……なかった。さすがにそれは無理だった。いかに強力な催眠でも、生存本能を凌駕するような強制はできないのだ。雪姫の両目から涙が流れる。屋根に上がった与力たちが雪姫に飛びつき、護り刀を取り上げた。竜胆は小さく舌打ちすると、岸和田城を見上げた。
「情けない……こんな小さな城ひとつ落とせないとはね」
「もう諦めな。あんたの目的は何一つ叶わない」
ナギサの言葉に、竜胆はうなずくようにうなだれた。佐藤次郎左衛門の隣には、河毛源次郎が刀を抜き構えている。周囲は与力たちに囲まれて、もう逃げる場所もない。その中で、服部竜胆はこう声を上げた。
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