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「ご夕食をお持ちしました」
蚊の鳴くような、ななみの声。二つの漆塗りの箱膳に乗せられているのは、カレーライスと小鉢のサラダ。それだけ。
「え、これだけ?」
千香の言葉に悪意はなかったのかも知れない。だがななみは、怯えたように手を付いた。
「申し訳ございません。どうしても一人では手が回らなくて。明日はちゃんとやります」
いまにも声を上げて泣き出しそうだ。精神的に限界が来ているのだろう。そんな彼女を見ていて、僕はふと、ある事が気になった。
ひとついいかな。
僕の言葉に、ななみは恐る恐る顔を上げる。何と言って叱られるのだろう、そんな顔だった。僕は精一杯の作り笑顔を浮かべてこうたずねた。
ここの屋敷では、ゴミって毎日出してるの?
ななみは当惑している。何を問われているのか理解できない、という顔だ。仕方ないので補足した。
僕らの住んでるところでは、月曜日と木曜日が可燃ゴミを出す日なんだけど、ここは何曜日なのかな。
すると、ななみはようやく理解したように小さな声で答えた。
「可燃ゴミは、火曜日と金曜日です」
三太郎が死んだのは水曜日の午前一時頃、同じく水曜日の昼に僕らがここに到着して、夜に四界が死んだ。戸女が死んだのは木曜日の夜、そして今日が金曜日。
つまり、今日ゴミを出したんだね。
そうたずねると、ななみは「あっ」と口を開けた。慌てて立ち上がろうとするのを、僕は手で制する。
待つんだ。ゴミは出してないのか。
「はい……出そうと思って物置に入れたまま、忘れてました」
叱られると思ったのか、ななみは泣きそうな顔をしている。けれど僕が口にした言葉で、その顔が一気に明るく輝いた。
そのゴミが、君のお母さんを助けてくれるかも知れないよ。
「殺人事件の証拠だと」
数坂は若い制服警官の言葉に困惑を見せた。殺人事件の証拠が見つかるかも知れない、八乃野いずるがそう言い出したらしい。どうしましょうと警官は言うが、数坂たちは警護任務でここにいるのだ。捜索令状は出ていない。しかし振り返る数坂に、築根はこう告げた。
「我々には、この屋敷で証拠を探す権限はないが、我々以外が証拠を探すのをやめさせる権限もない。そう思わないか、探偵さん」
そう言って鍵を見つめる。探偵は、やれやれとため息をつきながら立ち上がった。
「いいですよ。ダシに使われましょう」
外はもう日も落ち、暗い。小さな門灯の照らす、玄関の南側にある勝手口。その入ってすぐ右手の物置の前に、八乃野いずると馬雲千香が立っている。少し離れた隣には、ななみの姿。
「何の冗談じゃな、いずるよ」
祈部豊楽が、静かに怒りをたたえて三和土に立つ。後ろには警官が、さらに隣には霜松市松と九南がいた。
「冗談ではないですよ。これから証拠を探すんです」
笑顔のいずるを、豊楽は切り裂くような視線で見つめた。
「何の証拠だ」
そこにやって来る、鍵と笹桑と刑事たち。そちらをチラリと見ていずるは言う。
「もちろん、ここで起こった一連の事件の、です」
「ふざけるな!」
怒髪天を衝く勢いの豊楽に、一同は皆たじろいだ。平然としているのは八乃野いずる一人だけ。
「警察でも探偵でもないただの子供に、何がわかると言うのか!」
「わかりますよ。だって、ただの子供にも解決できるレベルの事件ですから」
豊楽に向かってそう微笑むと、いずるは怯えるななみに声をかけた。
「じゃあ、出してください」
「は、はい」
ななみは震える手で物置の戸を開けた。すぐ足下に置かれたゴミ袋が二つ。豊楽は、ななみをにらみつける。
「何でそんな物がここにある」
「す、すみません、忙しくて出し忘れてました」
震え上がるななみを励ますように、いずるは笑顔を向けた。
「いいじゃないですか、そのおかげで事件が解決するんですから。さあ、中を調べてください」
ななみは涙目でうなずくと、ゴミ袋の中に手を突っ込んだ。築根は小さな声で鍵にたずねる。
「どう思う」
「何が見つかるか、知ってて探してる感じですね」
集まった周りの刑事や制服警官たちも、興味津々で様子を眺めている。彼らに聞こえるようにいずるは言う。
「たぶん、犯人はゴミの日をちゃんと知ってたんじゃないかと思うんです。だって、いつまでも証拠をこの家に置いておけませんし、かと言って、自分で外に持ち出そうとするより、誰かに処分してもらった方がリスクは小さいですから」
しかし。
「……ないです」
ななみは泣きそうな顔をいずるに向けた。目当ての物は見つからなかったようだ。だがこれは想定内だったのだろう、いずるは平然と二つ目のゴミ袋を指さす。
「なら、もう一つの袋ですね。探して下さい」
ななみは、二つ目のゴミ袋を開き、また中に手を突っ込んでかき回す。そして、すぐ。
「あっ」
その声と共に、ななみがゴミから持ち上げた物は、折り畳まれた和菓子屋の紙袋。その中に手を入れて取り出したのは、薄いベージュ色の軍手。いずるはごま塩頭の数坂を見つめた。
「この軍手をはめていたのは誰か、この軍手で誰の体に触れたのか、調べられますよね」
数坂は一瞬躊躇したが、結局うなずいた。
「百パーセントは保証できないがね」
手袋には皮膚組織の断片が残留している可能性がある。もしそれがあれば、DNA鑑定で使用者がわかるのだ。そしていずるは豊楽に視線を移す。
「警察に渡していいですよね、お館様」
「そんな軍手一つで、何の証拠になる」
ムッとした顔でにらむ豊楽に対し、いずるは苦笑した。
「一つじゃないかも知れませんよ。あと三つくらいは出るかも。まあ何にせよ、説明はみんなのいる場所でした方がいいでしょう。その方が面倒臭くなくていい。どこかに集まりませんか」
それを聞いて、鍵の表情が変わった。目を見開き、愕然としている。
「ああ……なるほど。そうか、そういう事か」
怒り狂いそうだ。祈部豊楽はその思いを顔に出さないよう、必死で堪えていた。
おのれ、おのれ、おのれ。
警察どもが居座らなければ、いずるを殺し、探偵を自殺に見せかけて殺すだけですべてが終わったものを。
いずれ警察には思い知らせてやる。だがその前に、まず目の前のピンチを乗り切らねばならない。
豊楽は先頭に立ち、早足で廊下を進んだ。
午後八時前、家中の者が「応接間」に集まった。一段高くなった場所に豊楽が着座し、つい昨日まで戸女が座っていた部屋の隅には十瑠がいる。広間の中央には八乃野いずると馬雲千香が正座し、周囲を九南や霜松市松、鍵と笹桑、そして刑事や警官たちが取り囲む。その向こう側には、ポツンと一人、ななみが座っていた。
「いったいどういう事だ、いずる。何で十瑠まで引っ張り出して来た」
憤懣やる方ないといった風な九南に、いずるは平然とこう返す。
「だって自分の行く末に関わる問題ですよ。仲間はずれは可哀想じゃないですか」
「そーだそーだ」
十瑠は拳を振り上げた。九南は苦虫を噛み潰したような顔である。
「もうええ、さっさと始めんか」
見下ろす視線の豊楽は、実際の体格よりも大きく見えた。
「残念じゃよ、いずる。いずれは十瑠の婿にでもと考えておったに」
これを聞いて頭に血を上らせたのは、馬雲千香。
「何ですって!」
「まあまあ、抑えて抑えて」
いずるは苦笑しながら千香をなだめた。そして豊楽に向き直る。
「でも、その可能性が消えたのは、僕にとってありがたい話ですよ。それじゃ始めますか。と言うか、結論から言いましょう」
いずるは九南を指さした。
「この屋敷では自殺なんて起こっていません。すべては殺人です。一連の事件の実行犯は、あなた、九南さんだ」
次に豊楽を指さす。
「そして計画を立てたのは、豊楽さんですね」
「馬鹿馬鹿しい。何の証拠がある」
「軍手以外の証拠なら、これから警察が見つけてくれますよ。だから僕は動機を挙げるだけです」
「動機などあるものか」
吐き捨てるように言う豊楽へ、いずるは冷たい微笑みを向けた。
「豊楽さんは、以前から苦々しく思っていました。自分の息子たちについてです。家の跡を継がせるのは九南さんがいるから大丈夫ですが、その足を引っ張る者が多すぎる。これは何とかしなければならない」
「憶測じゃな」
「そんなとき、新聞で奇妙な自殺が話題になった。タコ焼きピックで自分の首の後ろを突き刺したという事件です。これを知ったとき、豊楽さんは思いました。うちの馬鹿息子どもも自殺してくれないだろうかと」
「そんな事を思うはずがない」
「しかし豊楽さんは気付きました。このやり方なら、自殺でなくとも自殺扱いになるのではと。後は言うまでもないでしょう。豊楽さんは、九南さんに命じて三太郎さんと四界さんを殺し、それに気付いた戸女さんをも殺したんです」
「デタラメだ!」
怒鳴ったのは九南。豊楽もうなずいた。
「ただのこじつけじゃな。そんな屁理屈で殺人犯にされては、たまったものではないわ」
「屁理屈かどうかは、軍手を調べればわかりますよ」
その指摘は痛いところだったのだろう、豊楽も九南も押し黙ってしまった。沈黙の静寂、勝ち誇るいずるの顔。それをしばらく見つめていた築根は、隣で正座する探偵に目をやった。
「鍵、どう思う」
その声に、いずるは振り返る。見つめる鍵と視線が合った。
「……警察がこれでいいと思うのなら、それでいいんじゃないですか」
探偵のこの返答は予想外だったのか、いずるの眉が不審げに寄る。築根も驚いたのだろう、珍しく少し慌てた。
「おい鍵、こんなときにふざけるな」
「別にふざけてはいませんよ。ただ、ウンザリしてるだけです」
そして天井を見つめ、何かを探すように視線を動かすと、落胆したかのようにため息をついて、十瑠に視線を向けた。
「君は呪ったのかい」
「は?」
さしもの十瑠も呆気に取られている。意味がわからないのだ。いずるもキョトンとしているが、鍵は気にせず続ける。
「死神様は、この祈部の家に仇なす者に取り憑いて殺すんだよね。でも、祈部の家って何だろう。家長の豊楽さんを指すのか、それとも、まったく別のところにこの家の意思が存在しているのか。私は後者じゃないかと思うんだ。だからこの一連の事件は起きたのかも知れない。そしてそのトリガーになったのが、君なんじゃないかな」
「僕の主張を支持してくれるという事でしょうか」
やや呆れたような薄っぺらい笑顔を見せるいずるの言葉に、鍵は首を横に振る。
「じゃ、何が言いたいの」
怪訝な顔で馬雲千香が振り返っている。鍵は重苦しげに口を開き、答えた。
「事件の真相なんか、もうどうでもいいって事です」
「それはつまり」
数坂が瞠目した。
「事件の真相が見えてるって事か」
「おい首吊り屋、どうでもいいって、どういう事だ!」
原樹の大声を、鍵は無視した。ただ、暗い目で八乃野いずるを見つめている。いずるは見つめ返し、挑戦的に微笑んだ。
「へえ、わかってるなら教えて下さいよ。聞きたいですね、その事件の真相とやらを」
しかし、鍵は陰鬱につぶやく。
「嘘をつくんじゃない。こんな事件の真相なんか、聞きたい訳ないだろ」
いずるの表情は変わらない。なのに空気が冷たくなる。
「それでも聞きたいと言ったら?」
いずると千香が見つめる。豊楽と九南が見つめる。霜松市松が、ななみと十瑠が、そして笹桑と築根と原樹が、それ以外の警官の目が鍵を見つめた。探偵は一つため息をつくと、膝に置かれた手に目を落とした。
「出て来い」
周囲の不思議そうな顔。いまのはいったい誰に向けての言葉なのだろう。
「どうせ私では、上手くまとめられないと思っているんだろう。その通りだ。こんなクソッタレな真相なんか話したくもない。おまえが話せ」
「おい、鍵。どうした」
隣の心配げな築根を無視して、鍵はつぶやく。
「おまえが思い出せと書いた事を、私は思い出した。そして答を出した。なら、次はおまえの番だ。聞こえてるんだろう、ジョウ・クロード」
そのとき築根は見た。目の前の鍵蔵人が、一瞬で別人に変わるのを。顔かたちが変わった訳ではない。服装が変わった訳でもない。しかし目の鋭さが、口元に浮かぶ笑みが、身にまとう空気が、まったく別人のそれへと変化したのだ。鍵蔵人であって彼ではない人物は、足を崩し胡座をかいた。その視線が築根に向かう。
「まったく、珍しい事もあるもんだ」
「え?」
「自分の知り合いを俺に会わせるのは、嫌がると思ってたんだがね」
混乱して返事ができない築根に、鍵蔵人の顔をした謎の男はこう告げた。
「死神には、頭が二つある」
あまりにも唐突な言葉。築根はさらに困惑した。築根だけではない。おそらくはこの探偵以外の、部屋にいた全員が困惑していた。
「頭が二つ? どういう意味だ」
数坂の言葉に探偵は一つうなずく。
「結論を言えば、別々の理由、別々の目的のために、二組の犯人が同じ手口で人を殺した。ここで起きたのはそういう事件だ」
そしていまいましげに続けた。
「まず、さっきの八乃野いずるの話には一つ問題点がある。幾谷いつみが俺を襲った件が説明されていない」
ななみがビクリと反応したが、探偵はそちらを見ない。いずるは平然と答えた。
「いつみさんなら、何らかの理由で豊楽さんたちの殺人を知ったんでしょう。恩のある豊楽さんたちを殺人犯にはできない。だからそれを隠すために、探偵さんを殺そうとした。それによって、自分がすべての罪をかぶろうとしたんです」
「こじつけにしたって、強引に過ぎないか、それは」
「そうでしょうか。あのまま探偵さんが殺されてたら、警察もいつみさんが真犯人だと信じたかも知れない」
「だったら聞くが」
探偵は問う。
「その『何らかの理由』って何だ」
いずるの表情に僅かな動揺が見て取れた。探偵はさらに問う。
「つまり、幾谷いつみにあれこれ吹き込んで、けしかけた人間がいるって事だよな。誰だそれは」
いずるは口をつぐんでいる。焦れた築根が鍵に――鍵と同じ顔をした誰かに――問うた。
「誰なんだ、それは」
だがすぐには答えず、探偵は視線を移動させる。蒼白な顔でこちらを見つめる男に。
「……霜松さん、あんただよな」
「な、馬鹿な」
普段は無表情な霜松市松の顔に、似合わない感情的な動きがあった。
「何故、私がそんな事を」
「霜松先生、本当なんですか」
ななみが目を見開き立ち尽くしている。霜松市松は慌てて首を振った。
「違う! 私は断じてそんな事はしていない!」
しかし探偵は断言した。
「いいや、したんだよ。何故ならあんたが大枚はたいて私立探偵をここに呼んだのは、幾谷いつみに殺させるためだからだ」
「何じゃと」
豊楽が反応した。九南も唖然としている。霜松市松は震えるようにまた首を振った。
「そんな、そんな事をするはずがない。私に、いったい何のメリットがあると言うのか」
しかし抗う言葉に力はなく、みるみる憔悴して行く。その姿こそが何より雄弁な証拠と言えた。
探偵は一度大きく息をつくと、また天井に顔を向けた。
「とりあえず、ここしばらくの間に起きた事を、一つ目の頭の視点で時系列順に話そう。まず最初に」
そして探偵は馬雲千香を見つめた。次の言葉に、千香の両目は見開かれ、築根たちは身を乗り出す。
「祈部六道が殺された件からだ」
――どっちなんだ、わかってるんだろう
何故だろう、あのときの父さんの声を思い出す。
――わからないって言ったら?
母さんは、こうなる事がわかっていたのだろうか。
――殺してやる、おまえも、あいつらも
僕はいま砂上の楼閣に立っている。足下に大きな波が押し寄せていた。
蚊の鳴くような、ななみの声。二つの漆塗りの箱膳に乗せられているのは、カレーライスと小鉢のサラダ。それだけ。
「え、これだけ?」
千香の言葉に悪意はなかったのかも知れない。だがななみは、怯えたように手を付いた。
「申し訳ございません。どうしても一人では手が回らなくて。明日はちゃんとやります」
いまにも声を上げて泣き出しそうだ。精神的に限界が来ているのだろう。そんな彼女を見ていて、僕はふと、ある事が気になった。
ひとついいかな。
僕の言葉に、ななみは恐る恐る顔を上げる。何と言って叱られるのだろう、そんな顔だった。僕は精一杯の作り笑顔を浮かべてこうたずねた。
ここの屋敷では、ゴミって毎日出してるの?
ななみは当惑している。何を問われているのか理解できない、という顔だ。仕方ないので補足した。
僕らの住んでるところでは、月曜日と木曜日が可燃ゴミを出す日なんだけど、ここは何曜日なのかな。
すると、ななみはようやく理解したように小さな声で答えた。
「可燃ゴミは、火曜日と金曜日です」
三太郎が死んだのは水曜日の午前一時頃、同じく水曜日の昼に僕らがここに到着して、夜に四界が死んだ。戸女が死んだのは木曜日の夜、そして今日が金曜日。
つまり、今日ゴミを出したんだね。
そうたずねると、ななみは「あっ」と口を開けた。慌てて立ち上がろうとするのを、僕は手で制する。
待つんだ。ゴミは出してないのか。
「はい……出そうと思って物置に入れたまま、忘れてました」
叱られると思ったのか、ななみは泣きそうな顔をしている。けれど僕が口にした言葉で、その顔が一気に明るく輝いた。
そのゴミが、君のお母さんを助けてくれるかも知れないよ。
「殺人事件の証拠だと」
数坂は若い制服警官の言葉に困惑を見せた。殺人事件の証拠が見つかるかも知れない、八乃野いずるがそう言い出したらしい。どうしましょうと警官は言うが、数坂たちは警護任務でここにいるのだ。捜索令状は出ていない。しかし振り返る数坂に、築根はこう告げた。
「我々には、この屋敷で証拠を探す権限はないが、我々以外が証拠を探すのをやめさせる権限もない。そう思わないか、探偵さん」
そう言って鍵を見つめる。探偵は、やれやれとため息をつきながら立ち上がった。
「いいですよ。ダシに使われましょう」
外はもう日も落ち、暗い。小さな門灯の照らす、玄関の南側にある勝手口。その入ってすぐ右手の物置の前に、八乃野いずると馬雲千香が立っている。少し離れた隣には、ななみの姿。
「何の冗談じゃな、いずるよ」
祈部豊楽が、静かに怒りをたたえて三和土に立つ。後ろには警官が、さらに隣には霜松市松と九南がいた。
「冗談ではないですよ。これから証拠を探すんです」
笑顔のいずるを、豊楽は切り裂くような視線で見つめた。
「何の証拠だ」
そこにやって来る、鍵と笹桑と刑事たち。そちらをチラリと見ていずるは言う。
「もちろん、ここで起こった一連の事件の、です」
「ふざけるな!」
怒髪天を衝く勢いの豊楽に、一同は皆たじろいだ。平然としているのは八乃野いずる一人だけ。
「警察でも探偵でもないただの子供に、何がわかると言うのか!」
「わかりますよ。だって、ただの子供にも解決できるレベルの事件ですから」
豊楽に向かってそう微笑むと、いずるは怯えるななみに声をかけた。
「じゃあ、出してください」
「は、はい」
ななみは震える手で物置の戸を開けた。すぐ足下に置かれたゴミ袋が二つ。豊楽は、ななみをにらみつける。
「何でそんな物がここにある」
「す、すみません、忙しくて出し忘れてました」
震え上がるななみを励ますように、いずるは笑顔を向けた。
「いいじゃないですか、そのおかげで事件が解決するんですから。さあ、中を調べてください」
ななみは涙目でうなずくと、ゴミ袋の中に手を突っ込んだ。築根は小さな声で鍵にたずねる。
「どう思う」
「何が見つかるか、知ってて探してる感じですね」
集まった周りの刑事や制服警官たちも、興味津々で様子を眺めている。彼らに聞こえるようにいずるは言う。
「たぶん、犯人はゴミの日をちゃんと知ってたんじゃないかと思うんです。だって、いつまでも証拠をこの家に置いておけませんし、かと言って、自分で外に持ち出そうとするより、誰かに処分してもらった方がリスクは小さいですから」
しかし。
「……ないです」
ななみは泣きそうな顔をいずるに向けた。目当ての物は見つからなかったようだ。だがこれは想定内だったのだろう、いずるは平然と二つ目のゴミ袋を指さす。
「なら、もう一つの袋ですね。探して下さい」
ななみは、二つ目のゴミ袋を開き、また中に手を突っ込んでかき回す。そして、すぐ。
「あっ」
その声と共に、ななみがゴミから持ち上げた物は、折り畳まれた和菓子屋の紙袋。その中に手を入れて取り出したのは、薄いベージュ色の軍手。いずるはごま塩頭の数坂を見つめた。
「この軍手をはめていたのは誰か、この軍手で誰の体に触れたのか、調べられますよね」
数坂は一瞬躊躇したが、結局うなずいた。
「百パーセントは保証できないがね」
手袋には皮膚組織の断片が残留している可能性がある。もしそれがあれば、DNA鑑定で使用者がわかるのだ。そしていずるは豊楽に視線を移す。
「警察に渡していいですよね、お館様」
「そんな軍手一つで、何の証拠になる」
ムッとした顔でにらむ豊楽に対し、いずるは苦笑した。
「一つじゃないかも知れませんよ。あと三つくらいは出るかも。まあ何にせよ、説明はみんなのいる場所でした方がいいでしょう。その方が面倒臭くなくていい。どこかに集まりませんか」
それを聞いて、鍵の表情が変わった。目を見開き、愕然としている。
「ああ……なるほど。そうか、そういう事か」
怒り狂いそうだ。祈部豊楽はその思いを顔に出さないよう、必死で堪えていた。
おのれ、おのれ、おのれ。
警察どもが居座らなければ、いずるを殺し、探偵を自殺に見せかけて殺すだけですべてが終わったものを。
いずれ警察には思い知らせてやる。だがその前に、まず目の前のピンチを乗り切らねばならない。
豊楽は先頭に立ち、早足で廊下を進んだ。
午後八時前、家中の者が「応接間」に集まった。一段高くなった場所に豊楽が着座し、つい昨日まで戸女が座っていた部屋の隅には十瑠がいる。広間の中央には八乃野いずると馬雲千香が正座し、周囲を九南や霜松市松、鍵と笹桑、そして刑事や警官たちが取り囲む。その向こう側には、ポツンと一人、ななみが座っていた。
「いったいどういう事だ、いずる。何で十瑠まで引っ張り出して来た」
憤懣やる方ないといった風な九南に、いずるは平然とこう返す。
「だって自分の行く末に関わる問題ですよ。仲間はずれは可哀想じゃないですか」
「そーだそーだ」
十瑠は拳を振り上げた。九南は苦虫を噛み潰したような顔である。
「もうええ、さっさと始めんか」
見下ろす視線の豊楽は、実際の体格よりも大きく見えた。
「残念じゃよ、いずる。いずれは十瑠の婿にでもと考えておったに」
これを聞いて頭に血を上らせたのは、馬雲千香。
「何ですって!」
「まあまあ、抑えて抑えて」
いずるは苦笑しながら千香をなだめた。そして豊楽に向き直る。
「でも、その可能性が消えたのは、僕にとってありがたい話ですよ。それじゃ始めますか。と言うか、結論から言いましょう」
いずるは九南を指さした。
「この屋敷では自殺なんて起こっていません。すべては殺人です。一連の事件の実行犯は、あなた、九南さんだ」
次に豊楽を指さす。
「そして計画を立てたのは、豊楽さんですね」
「馬鹿馬鹿しい。何の証拠がある」
「軍手以外の証拠なら、これから警察が見つけてくれますよ。だから僕は動機を挙げるだけです」
「動機などあるものか」
吐き捨てるように言う豊楽へ、いずるは冷たい微笑みを向けた。
「豊楽さんは、以前から苦々しく思っていました。自分の息子たちについてです。家の跡を継がせるのは九南さんがいるから大丈夫ですが、その足を引っ張る者が多すぎる。これは何とかしなければならない」
「憶測じゃな」
「そんなとき、新聞で奇妙な自殺が話題になった。タコ焼きピックで自分の首の後ろを突き刺したという事件です。これを知ったとき、豊楽さんは思いました。うちの馬鹿息子どもも自殺してくれないだろうかと」
「そんな事を思うはずがない」
「しかし豊楽さんは気付きました。このやり方なら、自殺でなくとも自殺扱いになるのではと。後は言うまでもないでしょう。豊楽さんは、九南さんに命じて三太郎さんと四界さんを殺し、それに気付いた戸女さんをも殺したんです」
「デタラメだ!」
怒鳴ったのは九南。豊楽もうなずいた。
「ただのこじつけじゃな。そんな屁理屈で殺人犯にされては、たまったものではないわ」
「屁理屈かどうかは、軍手を調べればわかりますよ」
その指摘は痛いところだったのだろう、豊楽も九南も押し黙ってしまった。沈黙の静寂、勝ち誇るいずるの顔。それをしばらく見つめていた築根は、隣で正座する探偵に目をやった。
「鍵、どう思う」
その声に、いずるは振り返る。見つめる鍵と視線が合った。
「……警察がこれでいいと思うのなら、それでいいんじゃないですか」
探偵のこの返答は予想外だったのか、いずるの眉が不審げに寄る。築根も驚いたのだろう、珍しく少し慌てた。
「おい鍵、こんなときにふざけるな」
「別にふざけてはいませんよ。ただ、ウンザリしてるだけです」
そして天井を見つめ、何かを探すように視線を動かすと、落胆したかのようにため息をついて、十瑠に視線を向けた。
「君は呪ったのかい」
「は?」
さしもの十瑠も呆気に取られている。意味がわからないのだ。いずるもキョトンとしているが、鍵は気にせず続ける。
「死神様は、この祈部の家に仇なす者に取り憑いて殺すんだよね。でも、祈部の家って何だろう。家長の豊楽さんを指すのか、それとも、まったく別のところにこの家の意思が存在しているのか。私は後者じゃないかと思うんだ。だからこの一連の事件は起きたのかも知れない。そしてそのトリガーになったのが、君なんじゃないかな」
「僕の主張を支持してくれるという事でしょうか」
やや呆れたような薄っぺらい笑顔を見せるいずるの言葉に、鍵は首を横に振る。
「じゃ、何が言いたいの」
怪訝な顔で馬雲千香が振り返っている。鍵は重苦しげに口を開き、答えた。
「事件の真相なんか、もうどうでもいいって事です」
「それはつまり」
数坂が瞠目した。
「事件の真相が見えてるって事か」
「おい首吊り屋、どうでもいいって、どういう事だ!」
原樹の大声を、鍵は無視した。ただ、暗い目で八乃野いずるを見つめている。いずるは見つめ返し、挑戦的に微笑んだ。
「へえ、わかってるなら教えて下さいよ。聞きたいですね、その事件の真相とやらを」
しかし、鍵は陰鬱につぶやく。
「嘘をつくんじゃない。こんな事件の真相なんか、聞きたい訳ないだろ」
いずるの表情は変わらない。なのに空気が冷たくなる。
「それでも聞きたいと言ったら?」
いずると千香が見つめる。豊楽と九南が見つめる。霜松市松が、ななみと十瑠が、そして笹桑と築根と原樹が、それ以外の警官の目が鍵を見つめた。探偵は一つため息をつくと、膝に置かれた手に目を落とした。
「出て来い」
周囲の不思議そうな顔。いまのはいったい誰に向けての言葉なのだろう。
「どうせ私では、上手くまとめられないと思っているんだろう。その通りだ。こんなクソッタレな真相なんか話したくもない。おまえが話せ」
「おい、鍵。どうした」
隣の心配げな築根を無視して、鍵はつぶやく。
「おまえが思い出せと書いた事を、私は思い出した。そして答を出した。なら、次はおまえの番だ。聞こえてるんだろう、ジョウ・クロード」
そのとき築根は見た。目の前の鍵蔵人が、一瞬で別人に変わるのを。顔かたちが変わった訳ではない。服装が変わった訳でもない。しかし目の鋭さが、口元に浮かぶ笑みが、身にまとう空気が、まったく別人のそれへと変化したのだ。鍵蔵人であって彼ではない人物は、足を崩し胡座をかいた。その視線が築根に向かう。
「まったく、珍しい事もあるもんだ」
「え?」
「自分の知り合いを俺に会わせるのは、嫌がると思ってたんだがね」
混乱して返事ができない築根に、鍵蔵人の顔をした謎の男はこう告げた。
「死神には、頭が二つある」
あまりにも唐突な言葉。築根はさらに困惑した。築根だけではない。おそらくはこの探偵以外の、部屋にいた全員が困惑していた。
「頭が二つ? どういう意味だ」
数坂の言葉に探偵は一つうなずく。
「結論を言えば、別々の理由、別々の目的のために、二組の犯人が同じ手口で人を殺した。ここで起きたのはそういう事件だ」
そしていまいましげに続けた。
「まず、さっきの八乃野いずるの話には一つ問題点がある。幾谷いつみが俺を襲った件が説明されていない」
ななみがビクリと反応したが、探偵はそちらを見ない。いずるは平然と答えた。
「いつみさんなら、何らかの理由で豊楽さんたちの殺人を知ったんでしょう。恩のある豊楽さんたちを殺人犯にはできない。だからそれを隠すために、探偵さんを殺そうとした。それによって、自分がすべての罪をかぶろうとしたんです」
「こじつけにしたって、強引に過ぎないか、それは」
「そうでしょうか。あのまま探偵さんが殺されてたら、警察もいつみさんが真犯人だと信じたかも知れない」
「だったら聞くが」
探偵は問う。
「その『何らかの理由』って何だ」
いずるの表情に僅かな動揺が見て取れた。探偵はさらに問う。
「つまり、幾谷いつみにあれこれ吹き込んで、けしかけた人間がいるって事だよな。誰だそれは」
いずるは口をつぐんでいる。焦れた築根が鍵に――鍵と同じ顔をした誰かに――問うた。
「誰なんだ、それは」
だがすぐには答えず、探偵は視線を移動させる。蒼白な顔でこちらを見つめる男に。
「……霜松さん、あんただよな」
「な、馬鹿な」
普段は無表情な霜松市松の顔に、似合わない感情的な動きがあった。
「何故、私がそんな事を」
「霜松先生、本当なんですか」
ななみが目を見開き立ち尽くしている。霜松市松は慌てて首を振った。
「違う! 私は断じてそんな事はしていない!」
しかし探偵は断言した。
「いいや、したんだよ。何故ならあんたが大枚はたいて私立探偵をここに呼んだのは、幾谷いつみに殺させるためだからだ」
「何じゃと」
豊楽が反応した。九南も唖然としている。霜松市松は震えるようにまた首を振った。
「そんな、そんな事をするはずがない。私に、いったい何のメリットがあると言うのか」
しかし抗う言葉に力はなく、みるみる憔悴して行く。その姿こそが何より雄弁な証拠と言えた。
探偵は一度大きく息をつくと、また天井に顔を向けた。
「とりあえず、ここしばらくの間に起きた事を、一つ目の頭の視点で時系列順に話そう。まず最初に」
そして探偵は馬雲千香を見つめた。次の言葉に、千香の両目は見開かれ、築根たちは身を乗り出す。
「祈部六道が殺された件からだ」
――どっちなんだ、わかってるんだろう
何故だろう、あのときの父さんの声を思い出す。
――わからないって言ったら?
母さんは、こうなる事がわかっていたのだろうか。
――殺してやる、おまえも、あいつらも
僕はいま砂上の楼閣に立っている。足下に大きな波が押し寄せていた。
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