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50話 皇帝の利用価値

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「皇帝陛下にあらせられましては、ご機嫌麗しゅうございます」

 歴代皇帝の肖像画が壁を覆う玉座の間。我らに背を向け窓の外の夜空を見つめる悲しげな聖女皇帝は、諦念に満ちた小さな声で返事をした。

「ハンデラ・ルベンヘッテ、今度は私に何をさせたいのです」

 皇帝の周囲には侍従や騎士が控えているが、私に意見はもちろん、眉をひそめる者すらいない。

「ご安心くださりませ、たいしたことではございませぬ。ここに持参いたしましたこの詔書にご署名いただければ、すぐに退散いたします」

「……いったい何の詔書です」

「王国との開戦の詔書にございます」

 この言葉に、皇帝は頭でも殴られたかのごとき勢いで振り返った。

「開戦? それに私が署名すれば戦争が始まるのではありませんか」

「いかにも。そのための詔書でございますからな」

 皇帝がどのような態度に出ようが戦争は始まる。その程度の理屈はわかりそうなものだが、聖女皇帝は激しく首を振った。

「できません! 戦争などおぞましい!」

「戦争は外交手段の一つにございます。嫌悪されるのはご自由ですが、仮にも皇帝たる立場のお方が否定をされては困ります」

「何か、回避する手段はないのですか。隣国との殺し合いに民が巻き込まれる事態など」

「ございませんな、すでに万策尽きました。そもそもこの百年近くたまたま平穏が続きはしたものの、我が国とシャナンの間に戦争が起こるのは初めてではございません。戦いは勝てば良いのです。それを含めて政と言えるのですよ、皇帝陛下」

 私は詔書を手に前に進み出る。皇帝は助けを求めるような視線を周囲に向けるが、そんなことをする者などいるはずがない。

 いるはずがなかったのだが。

 いまのいままで何もなかった私と皇帝の間に、突然人影が二つ立ちはだかった。大柄な若い男と長い赤毛の女。男は一瞬こちらに鋭い視線を向けると、不意に皇帝の腕を取る。

「ご無礼つかまつります、陛下」

 その言葉を残して、男と女、そして皇帝の三人の姿は消え去った。

「ど……どういうことだ」

 その場に残った者たちはみな動揺してオロオロとするばかり、私の問いに対する答など返ってくるはずもない。胸の奥で屈辱が炎を上げる。

「衛士は何をしている! 武官を集めよ! 狼藉者ろうぜきものが現れたのだぞ、さっさと皇帝陛下をお探しせんか!」

 おのれ、おのれいったい何者なのだ。この私の計画を邪魔するなど、許さん。断じて許さんぞ!


◇ ◇ ◇


 いまのいままで玉座の間にあったはずの我が身は、突如見知らぬ部屋に立っていた。いったい何が起こったのか。

 呆気に取られている私の眼前に、見知った女の顔が進み出た。

「皇帝陛下!」

 それはコルストック伯爵カリアナ・レンバルト。何故こんなところに。いや、違う。ここでようやく私は一つ理解した。ここはコルストック伯の屋敷なのだと。私を優しく捕まえていた若い男は腕を放し、一歩退いて膝をついた。

「ご無礼をお許しください、皇帝陛下」

 この言葉にどう返答をしたものか。私はコルストック伯を見つめた。おそらく文字通り目を丸くしていたに違いない。

 カリアナ・レンバルトは笑顔でうなずく。

「彼の名前はタルドマン・バストーリア。王国の子爵家の子息です」

「その王国貴族の子息が、何故私を」

 まったくもって何も理屈がわからない私の視線を受けて、カリアナは部屋の中央を手で指し示した。立っているのはタルドマンよりもっと若い男。少年と言っていいだろう。その後ろに数人が膝をついている。

 少年は言った。

「お初にお目にかかる、皇帝陛下。朕はシャナン王国国王、ロンダリア・ガナホーム三世であります」

 私はまたカリアナに目をやった。わからない、まったく状況が飲み込めない。しかしカリアナは大丈夫と言いたげに微笑んだ。

「間違いございません。本物のロンダリア王です」

「つまり、つまりロンダリア王が私を窮地よりお救いくださった、と?」

 するとロンダリア王は困ったような笑みを浮かべて首を振る。

「それは正確な表現ではありません。朕も救われた立場なので」

 そして背後に控えていた黒髪の少年に声をかけた。

「タクミ・カワヤ、そなたから説明してもらえぬだろうか。朕は口が上手く回らぬ」

 これにタクミ・カワヤと呼ばれた少年は笑顔を上げた。

「はい、よろこんで。それでは皇帝陛下、ふつつかながら僕が仔細を説明させていただきます」

 まるで緊張感のない軽佻浮薄なものの言いよう。こんな気軽な口調を聞いたのはいつ以来だろうか。私は思わず微笑んでしまった。



 占い師を自称するタクミ・カワヤの説明で、何故いま私がここにいるのかについて、一応の納得は行った。ただどうやって私をこの伯爵屋敷まで運んだのか、その辺りは結局よくわからない。ロンダリア王によれば彼もよく理解していないのだと言う。だがこの事態は常ならぬことであり、大雑把な理解で構わぬのだろうと。

「今回、皇帝陛下をお助け申し上げたのには理由もあれば目的もあります」

 捉え方によれば大問題になりそうなことを、タクミ・カワヤは平然と口にする。

「それはつまり、私を利用する目的があるということでしょうか」

「はい、皇帝陛下には大変大きな利用価値がございます」

 あまりにも当然といった言い方には、いささか不愉快になる。

「何に利用するつもりなのです」

「皇帝陛下にはロンダリア王との間に、恒久平和条約を結んでいただきたいと考えています」

「恒久平和……つまり戦争をしない?」

「はい、要するに不戦協定です。正式に条約という形式に則る必要はありません、それは後々詰めればいい話であって、とにかくいまは皇帝陛下と国王陛下のお二人に、『戦争はしない』と明言さえしていただければ」

 私は呆気にとられた。ハンデラ・ルベンヘッテは万策尽きたと言っていたが、こんなにも簡単に戦争を回避する手段があったのだ。

 しかしロンダリア王は顔を曇らせている。

「果たしてそれだけで開戦を防げるだろうか」

 この疑問に、これまた平然とタクミ・カワヤは笑顔で答える。

「まさか。そこまで簡単な話じゃありません。お二人が何をおっしゃっても両国の開戦派は戦争に突き進もうとするでしょうし、そこにはそれに応じた手段を講じる必要があります。ただその際、不戦協定は僕らの行動を支える背骨になるんです」

 行動、とは何を差すのだろう。私の疑問は顔にでも出ていたのか、タクミ・カワヤはまるで私の心の中を読み取ったかのようにこう言った。

「皇帝陛下と国王陛下には、明日の朝から大活躍していただきます。今夜はとにかくゆっくりお休みください」
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