案山子の帝王

柚緒駆

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49 水神

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 辺の長さの比が三、四、五。三平方の定理を学ぶ際に例として出される直角三角形。奈良盆地を覆い東西に広がるエリア・ヤマトを上空から見れば、そんな形に見える。人口はわずか千二百万人。それをたった五百人のDの民が支配する、世界最小のエリア。

 イ=ルグ=ルに壊滅させられ、大陸に逃げ延びる事が出来なかった日本人の末裔たちが暮らすエリアには、木造建築が並ぶ。スラムと呼ぶほど酷くはない。こぢんまりとした、庵のような小規模住宅が身を寄せ合うように軒を連ねているのだ。高層ビル群は北西部に集中しており、それ以外の空は広々としていた。

 お世辞にも豊かと言えるエリアではないが、小さいなりに経済は安定し、治安も良い。経済発展という輪廻の輪から解脱したかのような静けさがあった。

 その静かな街に子供たちの笑い声が響く。走り抜けて行くいくつもの小さな影を見つめて、条角は微笑みを浮かべた。

 条角は師匠からもらった法名。身にまとうのはボロボロの墨染めの衣に、穴だらけの編み笠。どちらも師匠から受け継いだ物だ。もう二十年は使っている。新しい物を手に入れようにも金がない。いや、仮に金があっても、売っている店がない。取り扱う会社もない。エリア・ヤマトに宗教は存在しないからだ。

 これはエリア・ヤマトだけの話ではない。邪神イ=ルグ=ルの存在を前にして、人類を守ってくれたのは神仏ではなかった。あらゆる神仏は当然の如く無力であり、人々のために何一つしてくれなかったのだ。うち捨てられるのも無理はなかった。

 無論あらゆる宗教が消え去った訳ではない。科学への信奉がその代表である。かつての神仏の位置に、人々は科学を置いた。いまやDの民でなくとも、遺伝子工学的な処置による人体改造を否定的に考える者は居ない。『神の領域』などと口にするのは、一部の狂信的テロリストだけである。そしてそのテロリストの信奉するのはイ=ルグ=ルだ。どちらにせよ、既存宗教の出る幕など、もはやなかった。

 そんな時代に条角は、仏の道を説いていた。かつて仏教には山のような数の宗派があったが、条角には関係ない。いまは宗派などというものが成立する状況ではないし、師匠からも教わっていない。どのみち彼が居なくなれば、このエリア・ヤマトから仏教は完全に消え去るのである。どんな儀式をするだの、どの経文を読んでどれを読まないだの、何の意味も持たなかった。

 条角がいつものように経文を唱えながら道を歩いて行くと、傍らに空き地があった。神魔大戦から百年が経っても、まだ人の住まない空き地がポツンポツンとあちこちにある。寂しげではあるが、これもまた良い風景ではないか、と条角は思う。そしてまたいつものように通り過ぎようとしたとき。その目に何かが留まった。

 それは空き地の片隅にあった。近付いてみると、材木の切れ端を集めて作られた、不細工な形の、小さな小さな何か家のような物。その前に、誰かが野の花を摘んで供えている。

 言い知れぬ感情が湧き上がり、条角は胸が一杯になった。思わず手を合わせ、頭を下げる。自分の未熟さを痛感する。こんな時代、人はもう神仏の事など忘れてしまっている、どこかでそう諦めてはいなかったか。それは違うのだ。そうではない。その明確な証拠が、本物の神聖さがここにあるではないか。

「ありがとうな」

 幼い子供の声。ハッと条角が振り返ると、青い空色の着物を着た女の子がいた。歳の頃は五、六歳。お下げ髪で目のくりくりとした、太陽のように明るい笑顔。

「ワタイを拝んでくれるのは近所のチビどもだけでな、どうしようかと思ってたんだが、助かった」

 女の子はそう言うと、備えてあった小さな黄色い花を手につまんだ。

「これにワタイの魂を乗せる」

 そして条角に差し出す。

「運んでおくれ」

 条角は両手で花を受け取った。これは断れない、何故かそう思えてならなかった。

「君は……君はいったい」

 思わず口に出したその問いすらも恐れ多いと感じる。額を汗が伝っていた。

「ワタイは、さら」
「……さら?」

「そう、ワタイの名前は、さら。この地に眠る水の神だ」

 少女の笑顔が条角の脳に焼き付く。叫び出したいような感覚。だが条角の中で、それに逆らう感情があった。

「水の神。神様。そんな」
「そんな馬鹿な、か?」

 さらの笑顔は曇らない。

「おまえはイ=ルグ=ルは信じられても水の神は信じられんのか。それでは仏など信じられまい。未熟よな」

 それは条角の内なる核心を突いた。言葉が出てこない。さらは条角の手に触れる。

「心配するな。おまえにはワタイが見えている。それだけで希望がある」

 そのとき、風が吹いた。さらの姿は、まるで霧が晴れるかのように消えてなくなった。

「ワタイを連れて行け。あの男に渡すのだ」

 そんな言葉を残して。


 ダイアンとヘリオスの二人の捜査官は、夜明け前にグレート・オリンポスに到着し、ナイトウォーカーとジージョの二人を連行した。能力を使うと電流が流れる特殊な手錠をはめて。逃げないよう思念波で拘束していたナーガとナーギニーの双子は、卒倒する寸前だった。

 逮捕された二人は、エリア・レイクスに護送されるとダイアンは説明した。だがそこで一つ問題が生じた。

「オーシャン・ターンに率いられていたのが事実だとして、彼らはどうやってセキュリティを突破したのでしょう」

 ヘリオスの質問に、ジュピトルたちは答えられなかった。ネプトニスがセキュリティを解除した、とはどうしても言えなかったのだ。

「それについては、こちらで調査した上で世界政府に報告しよう」

 ウラノスの言葉に、ダイアンとヘリオスは顔を見合わせたものの、とりあえず納得した。するしかなかったというのが正直なところだろう。だがナイトウォーカーたちが供述すれば、すべては明るみに出る。この問題は尾を引くだろうな、とジュピトルは思った。


 まだ午前中のエリア・ヤマトの中心街。その一角に本屋がある。本屋と言ってもこの時代、置いてあるのは文書専門の検索システム端末だ。家庭の端末で調べるよりも詳細な情報を、すべての出版社、個人出版問わずに調べる事が可能。直接足を運ぶ面倒臭さはあるが、無駄なダウンロードをする必要がなくなるので、それなりに需要がある。

 その本屋で、店主に向かって手を合わせている男が居た。

「頼む! この通りだ。この本を売ってくれ」

 男の視線の先には、棚に置かれた一冊の分厚い紙の本。『非売品』の文字が書かれたポップが添えられている。店主は不快な顔で男を見下ろしていた。

「困るんですよね、お客さん。そんな無茶言われても」
「そこを何とか! 私もヤマトまで来るのは、年に一回くらいなんだ。こっちに親戚が住んでいてね」

「んな事は聞いてませんよ」
「そう言わずに。久しぶりにヤマトに来て、これを見つけてしまったら、とてもじゃないが諦めきれない。金は言い値で出す。だから売ってくれんかね」

「じゃ百万で」
「それは高すぎる」

「どっちなんだよ!」
「せめて五十万にならないか」

「ならねえよ! もう帰ってくれ!」

 本屋から追い出された六十がらみの男がトボトボと歩いていると、目の前に人影が立った。珍しい。いまどき仏教僧の格好をしている。コスプレか? そう思っていると、相手は手に小さな黄色い花を持って近付いてきた。その花を男に差し出す。男は何の疑問も持たずに受け取ってしまった。

 墨染めの衣を着た僧は、手を合わせて頭を下げると、静かに背を向けて歩き去った。

「……これ、どうすりゃいいんだ」

 手に持った花を見つめて、カンザブロー・ヒトコトは首をかしげた。


「もう、もう終わりだ、私は。あんたの口車に乗ったせいで!」

 まだ朝日の差し込まない暗い部屋でネプトニスが叫ぶ。顔を涙でグシャグシャにして。プルートスは窓際にもたれかかり、グラスを回して酒の香りを嗅ぎながら、鼻先で笑った。

「言った通りにしないからだ」
「した! あんたの言う通りにしただろ!」

「オレはこう言ったはずだぞ。『ジュピトルを殺せ』と。何故殺さなかった」
「それは……それは、私は連中の事を何も知らされていなかったし」

「おまえは引き金を引くだけで良かった。それで万事上手く行ったんだ。それを、この能なしの役立たずが」

 吐き捨てるような言葉に、ネプトニスの中で何かが弾けた。両手で長兄の首につかみかかる。

「プルートス!」

 だがプルートスはその姿勢のまま、弟の脇腹に右の拳を叩き込んだ。ネプトニスの息が止まり、悶絶して倒れ込む。その腹に、プルートスの爪先が鈍い音を立てて突き刺さる。さらに顔を踏みつける。

「面倒臭いが兄弟だ。弟の世話をするのは仕方ない」

 そう言ってため息をつくと、髪の毛を鷲づかみにしてネプトニスを無理矢理立たせ、窓の外、ベランダに連れ出す。

「二百九十六階だ。おまえの部屋より随分下だが、ここでも充分いい眺めだろう? オレはそこそこ気に入ってるんだ。何より、ベランダの手すりが高過ぎないのがいい」

 そして弟の髪を放すと、顔面に回し蹴りを放つ。

「じゃあな」

 ネプトニスの体は手すりを越え、愕然とした表情で、まだ暗い下界へと落ちて行った。
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