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トリック
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ジローはカレーライスを犬のようにむさぼり食っている。そのあまりの勢いに、向かいの席の原樹は唖然としているが、いまさら気になどしても仕方ない。築根は原樹の隣で黙々とカレーを食べている。オレも自分の前に置かれたカレーをスプーンで口に運んだ。甘い。辛さより甘さが先に来る。これはあまり量は食えないな。非常食の方がまだ口に合う。ふと隣を見ると、ジローは顔を上げて虚空を見つめている。食い終わったらしい。オレは自分の皿とジローの皿を入れ替えた。
「食え」
するとまたスイッチが入ったかのように、ジローはカレーをむさぼり始めた。
「おやおや、仲良くお食事ですか」
背後から殻橋邦命の声が聞こえた。
「犯人も見つけられないというのに、お腹だけは空くのですね」
道士を二人引き連れ、わざわざ隣のテーブルに着く。原樹がいまにも殴りかかりそうな目でにらみつけているが、築根の手が捕まえているので立ち上がれない。
「あんたこそいいのか」
築根の言葉に、殻橋はチラリと視線をよこす。
「何の事です」
「自分が犯人を捕まえると豪語しといて、この有様じゃ情けなくないか」
道士二人が立ち上がる。空気がピンと張り詰める。しかしそれをほどくように、殻橋は鼻先で笑った。
「捜査をするのは、あなた方の仕事ですよ。そして集まった情報から事件の全容を解明し、すべてのトリックを紐解き、最後の王手をかけるのが私の仕事です」
「その『紐解く』は間違ってるぞ」
やれやれ、放っておけばいいのに、つい口を出しちまった。オレはアホなのか。
「紐解くってのは元々本を読むって意味だ。『調べる』とか『解き明かす』なんて意味はない。それは誤用が広まったものだ」
「おや、そうでしたか。それは失礼致しました。随分と日本語にお詳しいのですね」
殻橋はこちらを見ようともしない。
「それとな」オレは続けた。「少なくとも和馬と小梅の二人の事件に関しちゃ、トリックなんぞ存在していない。ない物を解き明かすのは無理だ」
そこで初めて殻橋は、不審げな顔をこちらに向けた。
「……トリックがない?」
「もちろん、トリックにもレベルがある。人をナイフで刺し殺した跡、シャワーで返り血を洗い流す事をトリックと言うのなら、そのレベルのトリックはあるさ。だがアンタのご立派な脳みそを、こねくり回さにゃならんような難解なトリックなんて物は、この二つの事件には一つもない。トリックがあるように見えるのは、アンタが何も見てないからだ」
食堂の空気が凍り付く音が聞こえた気がした。
「おい、五味」
築根が焦った顔で声をかけてくる。やめろと言いたいのだろうが、きっかけを作ったのはおまえだろうに。だいたい、吐いた唾は飲めない。
「ではおたずねします」
殻橋が蛇のような目でオレをにらみつけた。
「典前和馬さんの死体が発見されたとき、あの死体を壁に吊るした犯人はどこに居たのですか」
「エレベーターの中だろうな」
オレの即答に、殻橋は不満の表情を見せた。
「何故エレベーターに」
「あの事務所の出入り口とエレベーターは向かい合わせだ。事務所の中に誰もいなかったのなら、エレベーターに飛び込んだに決まってる」
「そんな直前まで現場に居たと言うのですか」
「和馬の死体が見つかるためには、あのデカイ絵を落とさなきゃならなかった。つまり絵が落ちた瞬間には、その絵の向こう側に犯人が居た事になる」
「それこそ、トリックを使って落としたのでは」
「そんな形跡は一切ない。たとえば重い物を持ち上げるには、普通テコを使うか、滑車を使うかだ。だが現場には長い棒も滑車もなかった。犯人が持ち去った可能性はゼロじゃないが、長い棒はエレベーターに入らないし、そもそも滑車は取り付ける場所もない。そんな無駄なことをする犯人とは思えないがね」
「では、どうやってあの絵を落としたのですか」
「手で持ち上げたに決まってるじゃねえか」
呆れた。唐橋の顔はそう語っている。オレは続けた。
「あの絵は木製パネルに直接描かれていた。キャンバスを貼ってないから多少は軽いだろうが、それでも絵具の重さを加えりゃ、三十キロや四十キロはあったろう。下手をすると五十キロあったかも知れない。一人じゃ持ち上がらなかったろうな。犯人はおそらく二人でカウンターの上に立って絵を持ち上げ、前に押し出して落としたんだ」
「それは証明できますか」
「警察の鑑識に調べさせりゃ、裏側に手袋の繊維くらいは見つかるだろ。カウンターに上った跡も見つかるかも知れない」
殻橋は一つ息を吐いた。
「そんな大胆な事をして、ロビーに居た者が誰も気付かなかったと」
「教祖様が大暴れしてたからな。多少の物音じゃ、気付かないのも無理はない」
「つまり、そのために教祖が暴れたと言いたいのですね」
「まあそういうこった」
ハンカチを口元に当て、不快そうに眉を寄せる。殻橋のそれが考えるときの癖なのか、それとも一種の強がりなのかはイマイチわからなかった。
「六階で殺された、小梅太助さんですが」
あの爺さん、太助って名前だったのか。
「彼の首に消防ホースが巻き付いていたのは、トリックではないのですか」
「いまが夏なら、オレもそう思ったかも知れん」
「季節に何の関係があると」
「小梅の爺さんは、おそらく腕で絞め殺されてる。裸絞めとかチョークスリーパーってヤツだ。半袖でそんな事をすれば、腕は引っ掻き傷だらけになるだろうし、そこから目をそらすには偽装が必要だ。だがいまは冬だろ。誰だって長袖を着てる。腕に傷跡は残らない。なら、ホースで絞め殺したように見える偽装工作なんぞ必要ない」
「なのにホースを巻いた。何故です」
「良く言えば、こっちの力量を測ったんじゃねえかな」
「悪く言えば」
「オレらを舐めてんだよ」
もし、オーラなんて物が存在して、それが見えたとしたら、殻橋の周囲はいま、どす黒い色に染まっていることだろう。そんな目だった。
「……本当にトリックなど、どこにもないのでしょうか」
「ないな。そもそもトリックなんて物は、見方を変えれば、そこで何かをしてたっていう証拠だ。殺人者は普通、証拠を残したがらない」
「トリックにはリスクがあると」
「メリットとデメリットは常に併存してる。メリットしか見えないヤツは、犯罪者に向いてねえよ」
そのときオレには、殻橋の目が笑って見えた。
「不思議ですね。あなたそこまでわかっているのに、何故犯人が見つからないんですか」
「見つからないんじゃない。見えてないんだ。犯人はそこに居るのに、オレにはソイツが犯人には見えてない。これはトリックなんかじゃない。単なる情報不足だ」
すると殻橋は、不意に立ち上がった。
「いまのは素晴らしいですね」
食堂に居た全員が息を呑んで見つめている。しかし殻橋は、そんな事に気付かないかのように、道士たちにこう命じた。
「夕食は部屋でいただく事にします。持って来てください」
そして足早に食堂を出て行こうとして、入り口の所で立ち止まった。
「ご意見、大変に参考になりました。ありがとうございます」
背中を向けながらそう言うと、今度は本当に食堂から出て行った。
「何だよ、気持ち悪いな」
そのとき、後ろから声がした。
「ああ良かった」
振り返ると、そこに居たのは夕月。白い三角巾を頭に乗せて、割烹着を着ている。食堂の手伝いをしているのか。
「何が良かったんだよ」
「だって、喧嘩でも始まるんじゃないかと思ったから」
「そんな一文の得にもならん事を頑張るつもりはないね」
すると原樹が腕を組んで言った。
「いやいや、ほとんど殴り合いみたいな会話だったぞ」
「どんな会話だよ」
イラッとくるのを抑える。ああ、頭使ったらタバコ吸いてえ。でももうちょっと我慢するか。余裕がないからな。
「どう、落ち着いた?」
気遣う築根の言葉に、夕月は首を振った。
「それはまだ。でも体を動かしてると、ちょっと元気が出ます」
「そう、無理はしないで」
「はい」
「なあ夕月」オレはたずねた。「一つ聞いていいか」
「はい。何ですか」
「死んだ小梅さんと、大松さん、あと竹中さんだっけか。この三人は仲が良かったのか」
「ええ、朝陽姉様が中学生の頃からの、古参の信者さんです。ずっと三人一緒でした」
「そうか」
オレはうなずき、皿を二枚重ね、スプーンを二つ乗せた。
「さて、そんじゃオレは戻る」
皿を厨房の食器返却口に持って行く。そして出口に向かいながらジローを呼んだ。
「ジロー行くぞ、立って歩け」
立ち上がるジローを、原樹は間の抜けた顔で見つめた。築根が慌てたように立ち上がる。
「おい、五味。どうした」
「別にどうもしてねえよ」
背中で答えながら食堂の出入り口に向かった。まあオレだって気を遣う事くらいある。いまの夕月の前で話す訳にも行かんだろう。
次に誰が殺される、なんて事は。
「食え」
するとまたスイッチが入ったかのように、ジローはカレーをむさぼり始めた。
「おやおや、仲良くお食事ですか」
背後から殻橋邦命の声が聞こえた。
「犯人も見つけられないというのに、お腹だけは空くのですね」
道士を二人引き連れ、わざわざ隣のテーブルに着く。原樹がいまにも殴りかかりそうな目でにらみつけているが、築根の手が捕まえているので立ち上がれない。
「あんたこそいいのか」
築根の言葉に、殻橋はチラリと視線をよこす。
「何の事です」
「自分が犯人を捕まえると豪語しといて、この有様じゃ情けなくないか」
道士二人が立ち上がる。空気がピンと張り詰める。しかしそれをほどくように、殻橋は鼻先で笑った。
「捜査をするのは、あなた方の仕事ですよ。そして集まった情報から事件の全容を解明し、すべてのトリックを紐解き、最後の王手をかけるのが私の仕事です」
「その『紐解く』は間違ってるぞ」
やれやれ、放っておけばいいのに、つい口を出しちまった。オレはアホなのか。
「紐解くってのは元々本を読むって意味だ。『調べる』とか『解き明かす』なんて意味はない。それは誤用が広まったものだ」
「おや、そうでしたか。それは失礼致しました。随分と日本語にお詳しいのですね」
殻橋はこちらを見ようともしない。
「それとな」オレは続けた。「少なくとも和馬と小梅の二人の事件に関しちゃ、トリックなんぞ存在していない。ない物を解き明かすのは無理だ」
そこで初めて殻橋は、不審げな顔をこちらに向けた。
「……トリックがない?」
「もちろん、トリックにもレベルがある。人をナイフで刺し殺した跡、シャワーで返り血を洗い流す事をトリックと言うのなら、そのレベルのトリックはあるさ。だがアンタのご立派な脳みそを、こねくり回さにゃならんような難解なトリックなんて物は、この二つの事件には一つもない。トリックがあるように見えるのは、アンタが何も見てないからだ」
食堂の空気が凍り付く音が聞こえた気がした。
「おい、五味」
築根が焦った顔で声をかけてくる。やめろと言いたいのだろうが、きっかけを作ったのはおまえだろうに。だいたい、吐いた唾は飲めない。
「ではおたずねします」
殻橋が蛇のような目でオレをにらみつけた。
「典前和馬さんの死体が発見されたとき、あの死体を壁に吊るした犯人はどこに居たのですか」
「エレベーターの中だろうな」
オレの即答に、殻橋は不満の表情を見せた。
「何故エレベーターに」
「あの事務所の出入り口とエレベーターは向かい合わせだ。事務所の中に誰もいなかったのなら、エレベーターに飛び込んだに決まってる」
「そんな直前まで現場に居たと言うのですか」
「和馬の死体が見つかるためには、あのデカイ絵を落とさなきゃならなかった。つまり絵が落ちた瞬間には、その絵の向こう側に犯人が居た事になる」
「それこそ、トリックを使って落としたのでは」
「そんな形跡は一切ない。たとえば重い物を持ち上げるには、普通テコを使うか、滑車を使うかだ。だが現場には長い棒も滑車もなかった。犯人が持ち去った可能性はゼロじゃないが、長い棒はエレベーターに入らないし、そもそも滑車は取り付ける場所もない。そんな無駄なことをする犯人とは思えないがね」
「では、どうやってあの絵を落としたのですか」
「手で持ち上げたに決まってるじゃねえか」
呆れた。唐橋の顔はそう語っている。オレは続けた。
「あの絵は木製パネルに直接描かれていた。キャンバスを貼ってないから多少は軽いだろうが、それでも絵具の重さを加えりゃ、三十キロや四十キロはあったろう。下手をすると五十キロあったかも知れない。一人じゃ持ち上がらなかったろうな。犯人はおそらく二人でカウンターの上に立って絵を持ち上げ、前に押し出して落としたんだ」
「それは証明できますか」
「警察の鑑識に調べさせりゃ、裏側に手袋の繊維くらいは見つかるだろ。カウンターに上った跡も見つかるかも知れない」
殻橋は一つ息を吐いた。
「そんな大胆な事をして、ロビーに居た者が誰も気付かなかったと」
「教祖様が大暴れしてたからな。多少の物音じゃ、気付かないのも無理はない」
「つまり、そのために教祖が暴れたと言いたいのですね」
「まあそういうこった」
ハンカチを口元に当て、不快そうに眉を寄せる。殻橋のそれが考えるときの癖なのか、それとも一種の強がりなのかはイマイチわからなかった。
「六階で殺された、小梅太助さんですが」
あの爺さん、太助って名前だったのか。
「彼の首に消防ホースが巻き付いていたのは、トリックではないのですか」
「いまが夏なら、オレもそう思ったかも知れん」
「季節に何の関係があると」
「小梅の爺さんは、おそらく腕で絞め殺されてる。裸絞めとかチョークスリーパーってヤツだ。半袖でそんな事をすれば、腕は引っ掻き傷だらけになるだろうし、そこから目をそらすには偽装が必要だ。だがいまは冬だろ。誰だって長袖を着てる。腕に傷跡は残らない。なら、ホースで絞め殺したように見える偽装工作なんぞ必要ない」
「なのにホースを巻いた。何故です」
「良く言えば、こっちの力量を測ったんじゃねえかな」
「悪く言えば」
「オレらを舐めてんだよ」
もし、オーラなんて物が存在して、それが見えたとしたら、殻橋の周囲はいま、どす黒い色に染まっていることだろう。そんな目だった。
「……本当にトリックなど、どこにもないのでしょうか」
「ないな。そもそもトリックなんて物は、見方を変えれば、そこで何かをしてたっていう証拠だ。殺人者は普通、証拠を残したがらない」
「トリックにはリスクがあると」
「メリットとデメリットは常に併存してる。メリットしか見えないヤツは、犯罪者に向いてねえよ」
そのときオレには、殻橋の目が笑って見えた。
「不思議ですね。あなたそこまでわかっているのに、何故犯人が見つからないんですか」
「見つからないんじゃない。見えてないんだ。犯人はそこに居るのに、オレにはソイツが犯人には見えてない。これはトリックなんかじゃない。単なる情報不足だ」
すると殻橋は、不意に立ち上がった。
「いまのは素晴らしいですね」
食堂に居た全員が息を呑んで見つめている。しかし殻橋は、そんな事に気付かないかのように、道士たちにこう命じた。
「夕食は部屋でいただく事にします。持って来てください」
そして足早に食堂を出て行こうとして、入り口の所で立ち止まった。
「ご意見、大変に参考になりました。ありがとうございます」
背中を向けながらそう言うと、今度は本当に食堂から出て行った。
「何だよ、気持ち悪いな」
そのとき、後ろから声がした。
「ああ良かった」
振り返ると、そこに居たのは夕月。白い三角巾を頭に乗せて、割烹着を着ている。食堂の手伝いをしているのか。
「何が良かったんだよ」
「だって、喧嘩でも始まるんじゃないかと思ったから」
「そんな一文の得にもならん事を頑張るつもりはないね」
すると原樹が腕を組んで言った。
「いやいや、ほとんど殴り合いみたいな会話だったぞ」
「どんな会話だよ」
イラッとくるのを抑える。ああ、頭使ったらタバコ吸いてえ。でももうちょっと我慢するか。余裕がないからな。
「どう、落ち着いた?」
気遣う築根の言葉に、夕月は首を振った。
「それはまだ。でも体を動かしてると、ちょっと元気が出ます」
「そう、無理はしないで」
「はい」
「なあ夕月」オレはたずねた。「一つ聞いていいか」
「はい。何ですか」
「死んだ小梅さんと、大松さん、あと竹中さんだっけか。この三人は仲が良かったのか」
「ええ、朝陽姉様が中学生の頃からの、古参の信者さんです。ずっと三人一緒でした」
「そうか」
オレはうなずき、皿を二枚重ね、スプーンを二つ乗せた。
「さて、そんじゃオレは戻る」
皿を厨房の食器返却口に持って行く。そして出口に向かいながらジローを呼んだ。
「ジロー行くぞ、立って歩け」
立ち上がるジローを、原樹は間の抜けた顔で見つめた。築根が慌てたように立ち上がる。
「おい、五味。どうした」
「別にどうもしてねえよ」
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