【R18/BL/完結】エンドライン/スタートライン

ちの

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第一部

エンドライン 9

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 その日は母から呼び出しがあり、俺は父親が絶対にいない曜日を狙って実家に帰った。「久しぶり」と簡単に声をかけられて中に入り、リビングのソファに座る。家具の配置も内装も全て変わってしまっている。床には子供の遊び道具がところどころに転がっている。俺が住んでいた頃とは全く違う雰囲気になっていた。俺の知らない家。俺の知らない家庭の家だ。
 母親の要件は進路についてのことだった。二年になると進路志望の確認が行われる。どこの大学を受けるつもりがあるかということを聞かれ、俺は適度に近くの大学の名前を何個か告げた。母親はそれを聞いて安心したようで、今の家から通える範囲の大学にしてほしいと言った。なぜそんな縛りを設けるのかは聞かなかった。出される条件はすべて飲むつもりだ。
 必要最低限の話だけして、俺は立ち上がった。母親は見送らない。父親の再婚相手と、父親の連れ子。俺たちはお互いに、まるで腫れ物に触るかのように接することしかできない。でもそれでいい。それのほうがお互いにも楽だ。
 玄関で靴を履いていると、外側からガチャリと鍵が開く音が聞こえた。黄色いリュックと黄色い帽子を被った少年が入ってくる。りょうは、弟は、今年でおそらく五歳になるはずだった。

 弟は見かけぬ人間がいたのに戸惑い、玄関の扉にしがみついて動かない。首を傾げて俺を見つめてきた。
 俺と涼は、ほとんどお互いを認識したことがない。俺が涼に会ったのは三歳になった時で、それから数えるほどしか声をかけたことがなかった。抱かせてもらえたこともない。
 父親は俺が涼の兄だとは教えていない。あの家にはと俺が写る写真は、もう一枚もない。
 立ち上がるとますます警戒心を強めて大きくてこぼれそうな瞳で俺を見上げてくる。俺は怯える涼の頭を、帽子越しに撫でてやった。迫ってくる手が恐ろしいのか瞬間ぎゅっと目を瞑る。すると突然大声で泣き出し、俺の手を振り払ったかと思うと、靴を履いたまま母親の元へ走って行ってしまった。
 俺は拒絶された手を見て失笑する。
 母親になにかを言われるのも面倒で、俺は実家を後にした。外はいつの間に雨が降っていた。
 俺は西川の弟を思い出していた。ここで「お兄ちゃん」と言われ迎え入れられる現実も起こり得えたが、父親はそれを許さなかった。「知らない人」というレッテルを貼られた俺には、自分から言い出す勇気も、理解されようと努力する気も失せてしまっている。
 そしてなにより、澱んだ膿のような感情を捨て切れずにいる俺には。
 弟を撫でることはできても慈しむことなど到底できはしない。








 傘など持ってこなかったため、俺はずぶ濡れになりながら帰り道を歩いていた。ブレザーやスラックスは水を吸い切ってしまい、どんどん身体が冷えていく。
 歩いていたのは土手道で、急な土砂降りのため茶色い川水は水位を上げながら強く下流へ流れている。
 のろのろと歩きながら、他愛のないことを考えていた。川の水の深さはどのくらいだろうとか、川の水はさも匂いがひどいだろうなとか、そんなくだらないことだったと思う。
 家から近いのもちょうどいいと思って、土手を下った。

『だめだ、もどって、』

 水位が来るギリギリの部分に足を入れそうとしたとき、後ろから腕を掴まれた。
 振り向くと制服を着て傘を差した長身の男がいた。
 どこかで見たことがある顔だった。







 二学年に上がってから、俺はよく昼休みを体育館二階の望遠席で過ごしていた。下のほうで練習にしそしむ球技部の音はするが、望遠席にはほぼ人はいない。一人になれてなおかつゆっくり仮眠を取れる場所だった。
 来年の受験に向けて塾の講義数も増えてきたが、たびたび仮病や用事を理由で休んでしまっていたため、課題と休日代替日という代償を受けるはめになってしまった。かつ西川は本人のテンションや勢いだけで俺の家に来る。野良犬の相手は大変だ。腰がいてぇ、と呟いたとき、眠気が襲ってきてこくりと意識を手放してしまった。昨日の夜も夕方から夜まで西川と行為にふけっていたのが原因だ。  
 
 肩を叩かれてはっとした。
 見上げると見知らぬ生徒が立っていた。着ているジャージの色で一年だとわかる。

『あ、起きました?』

『あれ、いま何時……』

『五限が終わったところです』

『……寝過ぎた』

 慌てても仕方がないと立ち上がろうとしたが、腰に思った力が入らなくてバランスを崩した。目の前の一年に向かって倒れ込みそうになって、両肩を支えられる。

『気をつけて』

『悪い』

『体調悪かったんですか?保健室行きますか?』

『必要ない。起こしてくれてありがとな』

 足を一回踏み込んで立てるのを確認してから、俺は離れそうとした。すると一年生は俺の襟元をがっと掴んできた。

『なん、』

『こういうの、隠したほうがいいと思います』

 とても背が高く体格も相当なのに、伏し目がちに視線を彷徨わせながら、俺の襟元のボタンを三つ、上から嵌めていく。最初なんのことを言っているのかわからなかったが、思い当たる節を思い出して急激に恥ずかしくなった。
 昨日の西川はいつもより興奮しており、更にしつこかった。何度もやめろと言ったが際どい部分に痕をつけまくっていた。
 かぁっと顔が赤くなったのがわかって、俺は一年を見てられなかった。







『あー思い出した、』

 俺はサイズがぶかぶかの洋服を着て毛布を上から被り、電気ヒーターの前で縮こまりながら目の前の一年と初めて会ったときのことを思い出した。

『染谷って言います』

 濡れた髪をタオルで拭きながら、染谷は俺の隣に座った。テーブルには温かいココアがあったが、どうにも飲む気になれなかった。

『聞いてもいいですか、』 

『なに、』

『あそこで、なにしようとしてました?』

『別に、』

『理由もなく川に足突っ込みますか?』

『……理由……理由は、』

 理由は子供の癇癪のような幼稚なものだった。大層な理由なんてない。
 認知されないガキのわがままだ。
 まだ五歳の弟を見て現実を知って、一瞬なにもかもどうでもよくなった。それだけ。

 俺は染谷に止められた。
 一度振り払おうとしたが染谷の力は強すぎて皮膚に指が食い込むかと思ったほどだ。観念して階段を上がった。びしょ濡れのまま道路のほうまで出たが、染谷は腕を離さなかった。俺はその時いろんなことがどうでもよかったので、引っ張られるまま歩いた。
 
『先輩の洋服ちゃんと乾かないかもしれません』

『いーよ、てかあんまり気にしなくていいよ』

『気にするなって言われても、』

『死のうとしたわけじゃねーよ、』  

 俺を家に招き入れたときから、染谷がずっと心配しているので肝心なところだけは教えてやった。

『死にたい、わけじゃない』
 
『でもあれはダメだ』

『ああ』

 わかってる。
 わかってるよ。

『失恋でもしましたか、』

 無防備な位置にキスマークを付けていたときのことを思い出されたのだろう。深刻な雰囲気を和らげるために出た質問があまりに子供っぽくて、俺はふっと息を吐き出した。

『相手どこだよ、』
 
『え、相手って……』

 染谷が心底不思議そうに聞いてきた。

『先輩の相手って、西川先輩でしょう、』

『……んなわけ、あるか』

 どきりと心臓がうるさく鳴った。
 赤の他人が見ても俺たちがただの友人ではないとわかるのかと焦りが生まれる。やっぱり西川との関係に深入りしすぎたのかもしれない。他人にまでそうやって誤解されるような関係なんて、もう潮時なのかもしれなかった。

『俺知ってます』

『なにを、』

『先輩は西川先輩が好きだってこと、』

『なんでそうなるんだ、俺たちはそんな関係じゃねーよ』

 染谷の言葉に、全力で反抗している自分がいた。
 俺と西川を端からしか見てないから言えることだ。簡単に抱いて抱かれる、お互いに必要なときだけしか繋がりをもたない薄い関係だ。恋人のような執着も愛情も束縛も台詞もない。俺も求めてない。二人で利用しあっているだけだ。面倒の少ない、楽な関係を。

 西川には、聞いたことはないけれど。
 西川だって、そうに決まってる。  
 そういう関係を始めたのはあいつのほうだ。

 だってそうでもしないと塞ぎきれない。俺の中の、どうしようもない矛盾の嵐は。
 望んでも、手に入れられる手段が、俺にはなんにもないのに。

『……どうしろって……いうんだ……』

 こんな自分はもう知りたくない。
 俺は膝を立ててそこに顔を埋める。
 染谷は黙ったままだった。
 しばらく沈黙と静寂が続いたあと、膝を抱える俺の手に熱が当たる。見ると染谷が手を繋いできた。それは驚くほど高い体温を持っており、繋がれた指に伝染するほど、熱かった。
 染谷は俺の隣に並んで座ったまま、左手だけを繋いでいる。

『……つらいときは、つらいって、苦しいって、言えばいいんですよ』

 染谷は俺の耳元でぽつりとそんなことを言う。
 たかが二回出会っただけなのに、なぜこんなわかったような口を聞いてくるのか理解できない。
 なんでこんな奴が俺の腕を掴んで掬い上げたのか。
 俺はぐっと目を閉じて染谷の指を握り返していた。

『なぁ、』

『……なんですか、』

『しばらく……このまま、……眠っていいか?』

『はい』

『このまま、離さないで、』

『はい』

 染谷の返事を聞いたとき、俺は声を押し殺して泣いた。
 嗚咽が漏れそうになるたび、染谷の手をつよく、つよく握り返した。




 濁流を見ていたあの時、メールが来たんだ。

『今後涼に一切話しかけるな。他人だと思え』
 
 父親とはもう何年も一言も話しもしないし、顔を合わせる機会もない。
 涼が生まれてから。

 なにをしても、なにをしようとしても、受け入れてもらえない。
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