22 / 25
第二部
スタートライン 8
しおりを挟む
もうすぐ来ると言っていた西川の弟は、それから三十分後に到着した。「本当にすみません」と頭をさげて苦笑いする幸希は、俺たちが着ていたのと同じ制服を着ていた。高校に上がってからは初めて顔を合わせる。背が少し伸びて、とても大人びた雰囲気になっていた。
「過労なんて、信じられない」
眠る西川の横に持参した荷物を置いて腰掛ける。西川の体調が悪いのは、無理な飲酒によるものだと決めつけていた。付き合って一度も病気をしたところを見たことがなかったせいでもある。ここのところバイトの頻度が増しているとは思っていたが、そこまで無理をしていたとはちっとも気がつかなかった。
あの肩がぶつかった時の違和感は気のせいではなかったのだ。体が衰弱している証拠だったんだ。
医者の診断は過労。働きすぎや睡眠不足による疲労の蓄積とストレスで貧血と発熱しているのだそうだ。一日点滴を打って様子を見るという。倒れる時に頭を打っていたので、明日検査をするらしい。だいたいは熱が下がれば長くても二、三日で退院できるとのことだった。
「時枝さん、お腹空いてないですか?」
幸希はそう言って鞄からコンビニで買ったらしいおにぎりとペットボトルを取り出した。
そういえば昼前からなにも食べていない。素直に受け取り礼を述べた。染谷までかり出して作った粥をことを思い出す。染谷が運んできたそれを西川の部屋に置いてから、俺は染谷を送るために家を出た。西川が染谷がいる前では食べたくないと言ったからだ。西川はちゃんと食べたのだろうか。手作りじゃないと嫌だと抜かしておいて、残していたら殴り飛ばしてやろうと思った。
「兄ちゃん……今までもバイトしてましたけど、無理して体壊すなんてこと一度もなかったんですよ。だからびっくりしちゃって、丈夫なだけが取り柄なのに」
「そうだね、俺も驚いた。注意してやれなくて悪い」
本音だった。幸希が慌てて「時枝さんは全然悪くないです」と言ってくれたが、俺はそうは思わなかった。
西川はなにも言わなかった。俺もなにも聞かなかった。その結果だ。たぶんこの先も、同じことを繰り返す。
「時枝さんには母も僕も感謝してます。あんなに勉強嫌いだった兄ちゃんが、大学行くために勉強したのも絶対時枝さんが原因だし。学費も奨学金と自分でどうにかするって……一人暮らしするって言ったときは、彼女と同棲でもするのかって少し心配だったんですけど、」
「確かにそんなイメージだな」
俺がいなかったらそうだったに違いない。即座に相槌を打った俺の顔を見て幸希は笑った。
「そうなんですよ、それが心配で、……でも時枝さんって知って安心したんです。ひさびさに会えて嬉しいです。あのときの参考書も借りっぱなしだからいいかげん返さないと、」
「返さなくていいよ、もう俺には必要ない」
純粋に向けられる信頼が苦しい。西川の家族にとって、俺は付き合いの良い真面目な友達だと思われている。
一緒に暮らすようになったきっかけは単純な俺のわがままだ。そばにいたかった。できるなら一番近くに。抑えきれない俺の、どうにもできない気持ち。
幸希も、俺が西川と体の関係まである情人だと知ったら軽蔑するに決まっている。好意を寄せてくれている今とは、まったくの逆の感情を持つだろう。そして不安になるはずだ。世間一般みんなそうだ。常識的に考えれば男なんて。
ましてや、俺、なんて。
「もう終電なくなっちゃうので、帰りましょう。あとはメールしてあります。母も明日来るんで、」
幸希が立ち上がって鞄を持ち直した。俺はかろうじてああと返事をした。
「よく寝てますね。心配したのに。起きろこのばか兄」
幸希はふざけて西川の額をたたいてみたが、なんの反応もなかった。寝息だけがすーすー聞こえ、西川は目を覚ましてはくれなかった。
俺たちは病院を後にし、幸希とは駅まで母校の他愛ない話をした。気になって中学時代のことをちらと聞いたが、勉強に追いつけないという悩みは、二年になってからは解消したそうだ。学級委員長までやったと、自慢げに話す少年が眩しかった。
今度家に遊びに行っていいかと問われた時は、遠慮がちに「いいよ」と答えるのが精一杯だった。幸希は嬉しそうに帰っていった。
自分の置かれた立場を考えると気がひける。西川の家族だから余計に考えてしまうんだろう。
家に着くとリビングに直行しソファに突っ伏した。なにも考えたくなかった。考えるとすべてが同じ結論に至ってしまう。俺が女だったらことはもっと簡単だった。
そう思う時点で、もうこの恋は終わりだった。
「過労なんて、信じられない」
眠る西川の横に持参した荷物を置いて腰掛ける。西川の体調が悪いのは、無理な飲酒によるものだと決めつけていた。付き合って一度も病気をしたところを見たことがなかったせいでもある。ここのところバイトの頻度が増しているとは思っていたが、そこまで無理をしていたとはちっとも気がつかなかった。
あの肩がぶつかった時の違和感は気のせいではなかったのだ。体が衰弱している証拠だったんだ。
医者の診断は過労。働きすぎや睡眠不足による疲労の蓄積とストレスで貧血と発熱しているのだそうだ。一日点滴を打って様子を見るという。倒れる時に頭を打っていたので、明日検査をするらしい。だいたいは熱が下がれば長くても二、三日で退院できるとのことだった。
「時枝さん、お腹空いてないですか?」
幸希はそう言って鞄からコンビニで買ったらしいおにぎりとペットボトルを取り出した。
そういえば昼前からなにも食べていない。素直に受け取り礼を述べた。染谷までかり出して作った粥をことを思い出す。染谷が運んできたそれを西川の部屋に置いてから、俺は染谷を送るために家を出た。西川が染谷がいる前では食べたくないと言ったからだ。西川はちゃんと食べたのだろうか。手作りじゃないと嫌だと抜かしておいて、残していたら殴り飛ばしてやろうと思った。
「兄ちゃん……今までもバイトしてましたけど、無理して体壊すなんてこと一度もなかったんですよ。だからびっくりしちゃって、丈夫なだけが取り柄なのに」
「そうだね、俺も驚いた。注意してやれなくて悪い」
本音だった。幸希が慌てて「時枝さんは全然悪くないです」と言ってくれたが、俺はそうは思わなかった。
西川はなにも言わなかった。俺もなにも聞かなかった。その結果だ。たぶんこの先も、同じことを繰り返す。
「時枝さんには母も僕も感謝してます。あんなに勉強嫌いだった兄ちゃんが、大学行くために勉強したのも絶対時枝さんが原因だし。学費も奨学金と自分でどうにかするって……一人暮らしするって言ったときは、彼女と同棲でもするのかって少し心配だったんですけど、」
「確かにそんなイメージだな」
俺がいなかったらそうだったに違いない。即座に相槌を打った俺の顔を見て幸希は笑った。
「そうなんですよ、それが心配で、……でも時枝さんって知って安心したんです。ひさびさに会えて嬉しいです。あのときの参考書も借りっぱなしだからいいかげん返さないと、」
「返さなくていいよ、もう俺には必要ない」
純粋に向けられる信頼が苦しい。西川の家族にとって、俺は付き合いの良い真面目な友達だと思われている。
一緒に暮らすようになったきっかけは単純な俺のわがままだ。そばにいたかった。できるなら一番近くに。抑えきれない俺の、どうにもできない気持ち。
幸希も、俺が西川と体の関係まである情人だと知ったら軽蔑するに決まっている。好意を寄せてくれている今とは、まったくの逆の感情を持つだろう。そして不安になるはずだ。世間一般みんなそうだ。常識的に考えれば男なんて。
ましてや、俺、なんて。
「もう終電なくなっちゃうので、帰りましょう。あとはメールしてあります。母も明日来るんで、」
幸希が立ち上がって鞄を持ち直した。俺はかろうじてああと返事をした。
「よく寝てますね。心配したのに。起きろこのばか兄」
幸希はふざけて西川の額をたたいてみたが、なんの反応もなかった。寝息だけがすーすー聞こえ、西川は目を覚ましてはくれなかった。
俺たちは病院を後にし、幸希とは駅まで母校の他愛ない話をした。気になって中学時代のことをちらと聞いたが、勉強に追いつけないという悩みは、二年になってからは解消したそうだ。学級委員長までやったと、自慢げに話す少年が眩しかった。
今度家に遊びに行っていいかと問われた時は、遠慮がちに「いいよ」と答えるのが精一杯だった。幸希は嬉しそうに帰っていった。
自分の置かれた立場を考えると気がひける。西川の家族だから余計に考えてしまうんだろう。
家に着くとリビングに直行しソファに突っ伏した。なにも考えたくなかった。考えるとすべてが同じ結論に至ってしまう。俺が女だったらことはもっと簡単だった。
そう思う時点で、もうこの恋は終わりだった。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
学校一のイケメンとひとつ屋根の下
おもちDX
BL
高校二年生の瑞は、母親の再婚で連れ子の同級生と家族になるらしい。顔合わせの時、そこにいたのはボソボソと喋る陰気な男の子。しかしよくよく名前を聞いてみれば、学校一のイケメンと名高い逢坂だった!
学校との激しいギャップに驚きつつも距離を縮めようとする瑞だが、逢坂からの印象は最悪なようで……?
キラキライケメンなのに家ではジメジメ!?なギャップ男子 × 地味グループ所属の能天気な男の子
立場の全く違う二人が家族となり、やがて特別な感情が芽生えるラブストーリー。
全年齢
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
有能課長のあり得ない秘密
みなみ ゆうき
BL
地方の支社から本社の有能課長のプロジェクトチームに配属された男は、ある日ミーティングルームで課長のとんでもない姿を目撃してしまう。
しかもそれを見てしまったことが課長にバレて、何故か男のほうが弱味を握られたかのようにいいなりになるはめに……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる