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第9話 カツサンド
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向晴は箸を手に取って、ヒレカツを見つめた。
一般的な豚カツには、ロース肉が使われることが多い。
ロース肉とは背中の筋肉であり、脂身の多い部位である。
脂身の多さから、柔らかくジューシーな味わいが楽しめる。
対し、ヒレ肉とは大腰筋、つまりロースよりも体の中心に近い筋肉であり、脂身の少ない部位である。
脂身の少なさから、あっさりとした味わいが楽しめる。
どちらにも共通しているのは、柔らかいということだろう。
豚カツの切断面は、キメ細やか肉の面が輝いていた。
向晴はヒレカツに箸を伸ばし、挟み込むように箸を閉じた。
箸は、クレーンゲームのキャッチャーのようにヒレカツを掴み、そのままヒレカツの中に沈み込んだ。
「!?」
てっきり箸が掴んでくれるだろうという予想を外した向晴は、驚いて箸をヒレカツから離す。
そして、ヒレカツの箸が触れただろう場所を覗き込むと、へこみ、切れているのが確認できた。
お箸できれるやわらかいとんかつ。
向晴はその言葉の意味を噛みしめ、改めて箸を伸ばす。
先程より力を弱めて、箸でヒレカツを挟み込む。
まるでマシュマロを掴んだような沈み込んだ感覚が手を包み、向晴はヒレカツを持ち上げる。
白く輝くカツに、カツを守るように包み込むキツネ色の衣。
目の前にあるのは豚カツと言う、重さを感じる料理であるはずが、向晴の目にはまるで風で舞い上がりそうな羽にさえ見えた。
「で、では。いただきます」
向晴は小さく口を開け、ヒレカツを口の中へと運び込む。
「ん、んー!!」
向晴によって噛みしめられたヒレカツは、その体を二つ四つへと分けていく。
切断面から閉じ込められていた旨味が流れ出て、旨味の矢が舌に乱射される。
「柔らかい! なんで? どうして?」
向晴は両頬を抑えて、思わずのび田に視線を向ける。
「秘訣は、油の配合です」
「油?」
「はい。井泉の創業した昭和五年は、現代のように柔らかくて質のいい豚肉が手に入らない時代でした。そのため、当時の豚カツは今より硬く、お箸で食べやすい料理とは到底言えませんでした。そこで、井泉の初代である石坂一雄氏は、秘伝の仕込み技と油の配合によって、『箸できれるやわらかいとんかつ』を生み出したのです」
「より人々が食べやすいような工夫がされた、ということね」
向晴は、ヒレカツをさらに一切れ掴んで、口の中へと運び込む。
柔らかくきめ細やかなヒレ肉を作るという現代の技術に、カツを柔らかくするという伝統の技術が融合するヒレカツ。
向晴は何度も何度も咀嚼し、その融合の味を堪能する。
「はあ。これが、日本の料理技術」
「『箸できれる』には、食べやすさ以外にも思いが込められていると言われています」
恍惚の表情を浮かべる向晴に、のび田は言う。
「思い?」
「はい。豚カツは、洋食から生まれた和食と言う、和と洋の混じった料理です。だからこそ初代は、豚カツをお箸で綺麗に食べられる料理にしたいと、豚カツは和食であると主張したかったのかもしれません」
「……私、料理が洋食か和食かなんて、気にしたこともありませんでしたわ」
「三大珍味しか食べてなかったですもんね」
「だまらっしゃい!」
向晴は、改めてプレートに乗ったヒレカツを見つめる。
「さあ、お嬢様。伝統の味を、最後まで堪能してください」
のび田は、テーブルに置かれた井泉特製ソースを手に取り、向晴のプレートへと垂らした。
きつね色の衣は、より濃厚な色へと染まっていく。
ごくり、と唾を飲んだ向晴は、姿を変えたヒレカツを、本能の赴くままにほおばった。
「ああああああああああん!!」
向晴の魂は、すぽんと体から抜け、空へと浮かびあがった。
屋根をすり抜け、上野の町を見下ろしながら、空へ空へと浮かび上がる。
浮かびあがった魂は、雲を突き抜け、突き抜けた雲の上にごろりと寝そべる。
雲はクッションのようにふかふかとしており、向晴の魂は日向ぼっこでもするように仰向けで空を見上げる。
向晴は右手を動かし、雲を掬う。
雲は簡単に切れて、向晴の手の中で小さなふわふわの塊となって座る。
向晴は小さな雲を、両手でや優しく握りしめ、その感触を味わう。
人間の思いが乗った、やわらかい感触を。
向晴の舌からも手からも、そして背からも伝わってくる、何よりも柔らかく何よりも優しい感触。
「この食べ心地、世界一の高反発マットレス!!」
「お嬢様?」
「……はっ!?」
気が付けば、向晴はのび田と兆老の膝を敷布団にして、ごろりと横になっていた。
向晴は井泉の天井を見上げた後、自分がどこに寝っ転がっているかを確認するため、体を起こす。
そして、のび田と目が合った。
向晴は視線を下に向けると、ようやく自分の寝ころんでいた場所が、のび田の膝の上だと気が付いた。
「いやあああ!?」
向晴はのび田の頬を思いっきり引っぱたいて、急いで自分の席へと戻った。
「お嬢様、さすがに理不尽です!?」
のび田は赤くはれた頬を押さえながら、向晴に抗議する。
恥ずかしさで一杯の向晴だったが、非が自分にあることを認めてはいたので、恥ずかしさを押し殺して口を開く。
「……ご……めんなさい」
「許しません!」
「ええ!?」
「本当に反省をしているなら、もう一度ぼくの膝に座ってください!」
「叩いて正解だったわ! このド変態!」
言い合う向晴とのび田の隣で、兆老はヒレカツ定食を優雅に食べていた。
抱き枕を抱えながら。
体も、口の中も、ふわふわとした柔らかさに包まれた至上の食事を堪能していた。
「……リアクションとは、誰にも反応してもらえないと悲しい物ですね」
話は変わるが、井泉は元々、セイセンと名付けられていた。
しかし、いつの間にかイセンと呼ばれるようになり、そのまま定着して現代に至る。
時代と共に変わった変化。
初代が築いた井泉は、二代目に引き継がれてデパート進出を果たし、暖簾分けを開始した。
これもまた、時代と共に変わった変化。
井泉は『お箸できれるやわらかいとんかつ』を出し続ける。
伝統の味を守りながら、店の形を時代に合わせて変えながら。
今までも。
そして、これからも。
一般的な豚カツには、ロース肉が使われることが多い。
ロース肉とは背中の筋肉であり、脂身の多い部位である。
脂身の多さから、柔らかくジューシーな味わいが楽しめる。
対し、ヒレ肉とは大腰筋、つまりロースよりも体の中心に近い筋肉であり、脂身の少ない部位である。
脂身の少なさから、あっさりとした味わいが楽しめる。
どちらにも共通しているのは、柔らかいということだろう。
豚カツの切断面は、キメ細やか肉の面が輝いていた。
向晴はヒレカツに箸を伸ばし、挟み込むように箸を閉じた。
箸は、クレーンゲームのキャッチャーのようにヒレカツを掴み、そのままヒレカツの中に沈み込んだ。
「!?」
てっきり箸が掴んでくれるだろうという予想を外した向晴は、驚いて箸をヒレカツから離す。
そして、ヒレカツの箸が触れただろう場所を覗き込むと、へこみ、切れているのが確認できた。
お箸できれるやわらかいとんかつ。
向晴はその言葉の意味を噛みしめ、改めて箸を伸ばす。
先程より力を弱めて、箸でヒレカツを挟み込む。
まるでマシュマロを掴んだような沈み込んだ感覚が手を包み、向晴はヒレカツを持ち上げる。
白く輝くカツに、カツを守るように包み込むキツネ色の衣。
目の前にあるのは豚カツと言う、重さを感じる料理であるはずが、向晴の目にはまるで風で舞い上がりそうな羽にさえ見えた。
「で、では。いただきます」
向晴は小さく口を開け、ヒレカツを口の中へと運び込む。
「ん、んー!!」
向晴によって噛みしめられたヒレカツは、その体を二つ四つへと分けていく。
切断面から閉じ込められていた旨味が流れ出て、旨味の矢が舌に乱射される。
「柔らかい! なんで? どうして?」
向晴は両頬を抑えて、思わずのび田に視線を向ける。
「秘訣は、油の配合です」
「油?」
「はい。井泉の創業した昭和五年は、現代のように柔らかくて質のいい豚肉が手に入らない時代でした。そのため、当時の豚カツは今より硬く、お箸で食べやすい料理とは到底言えませんでした。そこで、井泉の初代である石坂一雄氏は、秘伝の仕込み技と油の配合によって、『箸できれるやわらかいとんかつ』を生み出したのです」
「より人々が食べやすいような工夫がされた、ということね」
向晴は、ヒレカツをさらに一切れ掴んで、口の中へと運び込む。
柔らかくきめ細やかなヒレ肉を作るという現代の技術に、カツを柔らかくするという伝統の技術が融合するヒレカツ。
向晴は何度も何度も咀嚼し、その融合の味を堪能する。
「はあ。これが、日本の料理技術」
「『箸できれる』には、食べやすさ以外にも思いが込められていると言われています」
恍惚の表情を浮かべる向晴に、のび田は言う。
「思い?」
「はい。豚カツは、洋食から生まれた和食と言う、和と洋の混じった料理です。だからこそ初代は、豚カツをお箸で綺麗に食べられる料理にしたいと、豚カツは和食であると主張したかったのかもしれません」
「……私、料理が洋食か和食かなんて、気にしたこともありませんでしたわ」
「三大珍味しか食べてなかったですもんね」
「だまらっしゃい!」
向晴は、改めてプレートに乗ったヒレカツを見つめる。
「さあ、お嬢様。伝統の味を、最後まで堪能してください」
のび田は、テーブルに置かれた井泉特製ソースを手に取り、向晴のプレートへと垂らした。
きつね色の衣は、より濃厚な色へと染まっていく。
ごくり、と唾を飲んだ向晴は、姿を変えたヒレカツを、本能の赴くままにほおばった。
「ああああああああああん!!」
向晴の魂は、すぽんと体から抜け、空へと浮かびあがった。
屋根をすり抜け、上野の町を見下ろしながら、空へ空へと浮かび上がる。
浮かびあがった魂は、雲を突き抜け、突き抜けた雲の上にごろりと寝そべる。
雲はクッションのようにふかふかとしており、向晴の魂は日向ぼっこでもするように仰向けで空を見上げる。
向晴は右手を動かし、雲を掬う。
雲は簡単に切れて、向晴の手の中で小さなふわふわの塊となって座る。
向晴は小さな雲を、両手でや優しく握りしめ、その感触を味わう。
人間の思いが乗った、やわらかい感触を。
向晴の舌からも手からも、そして背からも伝わってくる、何よりも柔らかく何よりも優しい感触。
「この食べ心地、世界一の高反発マットレス!!」
「お嬢様?」
「……はっ!?」
気が付けば、向晴はのび田と兆老の膝を敷布団にして、ごろりと横になっていた。
向晴は井泉の天井を見上げた後、自分がどこに寝っ転がっているかを確認するため、体を起こす。
そして、のび田と目が合った。
向晴は視線を下に向けると、ようやく自分の寝ころんでいた場所が、のび田の膝の上だと気が付いた。
「いやあああ!?」
向晴はのび田の頬を思いっきり引っぱたいて、急いで自分の席へと戻った。
「お嬢様、さすがに理不尽です!?」
のび田は赤くはれた頬を押さえながら、向晴に抗議する。
恥ずかしさで一杯の向晴だったが、非が自分にあることを認めてはいたので、恥ずかしさを押し殺して口を開く。
「……ご……めんなさい」
「許しません!」
「ええ!?」
「本当に反省をしているなら、もう一度ぼくの膝に座ってください!」
「叩いて正解だったわ! このド変態!」
言い合う向晴とのび田の隣で、兆老はヒレカツ定食を優雅に食べていた。
抱き枕を抱えながら。
体も、口の中も、ふわふわとした柔らかさに包まれた至上の食事を堪能していた。
「……リアクションとは、誰にも反応してもらえないと悲しい物ですね」
話は変わるが、井泉は元々、セイセンと名付けられていた。
しかし、いつの間にかイセンと呼ばれるようになり、そのまま定着して現代に至る。
時代と共に変わった変化。
初代が築いた井泉は、二代目に引き継がれてデパート進出を果たし、暖簾分けを開始した。
これもまた、時代と共に変わった変化。
井泉は『お箸できれるやわらかいとんかつ』を出し続ける。
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今までも。
そして、これからも。
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