お嬢様、お食べなさい

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第8話 カツサンド

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 地下鉄銀座線上野広小路駅から徒歩二分。
 都道四五三号線を曲がり、自動車一台分しか通れない狭い小路を進めば、『井泉 本店』が建っている。
 
 つまり、ロールスロイスが入るには、少々厳しいところである。
 
「お嬢様、ここから歩いて行きましょう」
 
「アル……ク? アルク? ナンデスノソレ?」
 
「近隣の方のご迷惑になるといけませんので」
 
「わ、私に庶民と同じ道を歩けと言うの!?」
 
 兆老に自動車から引っ張り出され、向晴は渋々と歩道を歩く。
 都道四五三号線の周辺には十階を超える建物も多少は見られるが、銀座と比べればどうしても大衆向けの建物が多い。
 向晴は、カラオケやドラッグストアに珍しい物を見るような視線を向けたが、それだけだ。
 総評として、自分が歩くべきでない場所を歩いているという結論だ。
 
「ここを左に曲がりますね」
 
「…‥ここを?」
 
 路地に入れば、向晴の表情はどんどん曇っていった。
 建物と建物の間から不審者が飛び出してきて、今にも襲われるのではないかと思い、向晴は兆老のタキシードの裾を掴む。
 危機が迫った時、向晴にとって最も頼れる相手が兆老だ。
 
「そろそろですね」
 
 のび田の言葉に顔を上げ、向晴の目に飛び込んできたのは電信柱に貼られた『井泉 本店』の広告。
 
「なにこれ?」
 
 さらに歩くこと数十秒。
 現れたのは、店の表面が木で覆われた和の建物。
 店の前には大きな鉢植えが何個も置かれ、鉢植えから高い木が伸びている。
 木々は上に伸びて井泉の玄関を緑で染めるだけでは飽き足らず、笹のようにしなって曲がり、店の前の路地に緑のトンネルを作っている。
 
 向晴は緑のトンネルを見上げながら、店の正面へと回る。
 扉は、障子を思い出す三×五の小さなガラスと木の淵でできた和。
 扉の上には雨よけの屋根がつき、雨よけの屋根は瓦製でごちらも和。
 扉には頭をなぞる程度の小さな白い暖簾がかかり、店を訪れた客を迎える。
 
「では、入りましょう」
 
 営業中の札を確認し、のび田が扉を開ける。
 最初に飛び込んできたのは四角形の調理場と、調理場の中で忙しそうに動き回る白い割烹着の料理人たち。
 そして、調理場を囲むように設置されたカウンター。
 一枚版の檜を使用した、歴史と頑丈さのあるカウンターである。
 カウンターには既に客が座り、提供された料理をおいしそうに頬張っていた。
 
 漂うカツの香りに、向晴のお腹がグウッと鳴る。
 
「いらっしゃいませ」
 
 のび田たちが入ってきたことに気づいた店員が近づいてくる。
 接客の担当なのだろう、調理場の中にいた料理人とは違い、赤紫のかっぽう着に身を包んでいる。
 
「三人です」
 
「お座敷でもいいですか?」
 
「はい」
 
「では、こちらへどうぞ」
 
 のび田たちは、店員の後に続いて店内を歩く。
 タイルの床を歩き、木製の階段へと。
 
「階段、急なのでお気を付けください」
 
 店員は、足を置く幅の狭い急勾配の階段も、慣れたものと言わんばかりにスタスタ上っていく。
 兆老もまた、子供時代に同様の階段を上っていた経験があり、スタスタ上っていく。
 苦戦しているのは、のび田と向晴だ。
 のび田は、伸縮性の乏しいタキシードに脚の動きを邪魔されていた。
 身長に足を上げては下ろし、不自由さを感じながら上っていく。
 とはいえ、パンツスタイルであれば、足元は見える。
 
 最も大変なのは向晴だ。
 足元をすっぽりと隠した赤のロングスカートは、同時に足を置くべき階段をもすっぽりと隠す。
 
「お嬢様、手をお貸ししましょうか?」
 
「大丈夫です! 高貴な者は、どんな悪路であっても一人で歩くのです!」
 
「いや、ここただの階段」
 
 井泉の店舗は、昭和五年に上野の地に根を下ろした。
 故に、今でも店内には昭和初期の面影を残す。
 
 昭和の建物は現代から比べると階段は急勾配だ。
 その理由は定かではないが、一説には日本の狭い土地へ住居を建てる工夫と言われている。
 狭いからこそ、階段と言う移動部分を極力狭くし、人が過ごすための面積を広くしたなどとも言われている。
 
「こちらのお座敷でお願いします」
 
 井泉には、二種類の座敷がある。
 かつて『雪』、『お染』と呼ばれていた一階の座敷。
 中庭が見える、小部屋である。
 そして、当時下谷芸者衆が踊っていた二階の座敷。
 窓を開ければ、木の葉の緑が顔を覗かせる。
 
 案内された座敷には、畳の上に机がいくつも置かれており、机の周りには座布団が四枚敷かれていた。
 のび田と兆老が並んで座り、向かい側に向晴が座る。
 のび田は、机に置かれたメニューを手に取り、向晴から見て正面になるよう机の上に置いた。
 
「カツサンドを、ここで食べるのですか?」
 
 向晴は置かれたメニューに視線を落とし、右から順に読んでいく。
 定食もの。
 丼もの。
 サンドウィッチ。
 サンドウィッチの一つとして書かれた『かつサンド』という言葉を見つけて、向晴は人差し指を置く。
 
「いえ。今日は快晴ですし、せっかくなのでカツサンドは外でいただこうかと」
 
 のび太は、窓から快晴空を見上げる。
 
「じゃあ、ここでは何を食べるのですか?」
 
「ヒレかつ定食です」
 
「……かつサンドとヒレかつ定食を食べるの?」
 
「はい」
 
 向晴は自分のお腹をちらりと見て、のび田に抗議の視線を向ける。
 
「私、そんなに大食いだと思われてる? 心外なんだけど」
 
「はい。毎食カツカレーを三杯食べる方を、大食いと言わず何というのでしょう」
 
「きゃー!?」
 
「ちなみに体重も執事長が把握されてますので、お嬢様が体重を気にされているのも知っています。任せてください。夜のトレーニングの準備も万全です」
 
「ぎゃー!?」
 
「すみませーん、ヒレかつ定食を三つお願いします」
 
 
 
 おしぼりとお茶が置かれた机を前に、向晴はそわそわと到着を待つ。
 先程抗議はしたものの、向晴にとって美味しい物を食べることは一つの楽しみとなっていた。
 ちらちらと座敷の出入り口を見ては、はやく料理が来ないかとそわそわしている。
 
 それを見たのび田が噴き出し、向晴が睨む。
 料理に興味がなかった向晴が料理を楽しみにしているなど、見方によっては滑稽だろう。
 
「……なんですか?」
 
「いえ、何でも」
 
「嘘おっしゃい。何か言いたげじゃない。いいわよ、聞いてあげるわ!」
 
「では、上野のカツの歴史をお話ししましょう」
 
「そんな流れでしたっけ!?」
 
 のび田はお茶を一杯啜り、窓から外を見た。
 上野の空気が窓から入り、座敷の空気と入れ替わっていく。
 
「先日の銀座スイス本店で、西洋料理のコートレットから洋食のカツレツが生まれて、洋食のカツレツから和食の豚カツが生まれたことはお話ししましたね」
 
「ええ、覚えていますわ」
 
「その豚カツ発祥の地が、この上野なのです。だから上野では、豚カツのお店が多く、激戦区なのです」
 
「ま、まさか、このお店が、豚カツの発しょ」
 
「いえ、違います」
 
「この流れで違うんですの!?」
 
「はい、違います。井泉は昭和五年、そんな激戦区上野に豚カツのお店を出しました。そして、他の豚カツ屋とは一線を画する『お箸できれるやわらかいとんかつ』を考案し、豚カツの名店として君臨しました」
 
「お箸で切れる? つまり、とっても柔らかいってことですか?」
 
「その通りです。お嬢様にはかつサンドを食べる前に、その元となった『お箸できれるやわらかいとんかつ』を是非味わっていただきたいのです」
 
「ふ、ふーん。そう言うことでしたら、召し上がって差し上げますわ」
 
 話していると、時間が経つのはあっという間だ。
 店員が畳の上を静かに歩き、机の前にまでやってくる。
 
「お待たせしました」
 
 机の上に並ぶのは、ライスの入ったお茶碗に、味噌汁の入ったお椀に、惣菜の入った小鉢。
 そしてメインは、平皿に乗ったヒレカツとキャベツの千切り。
 
 漂ってくる豚の香りに、向晴はゴクリと唾を飲んだ。
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