一寸先は闇

北瓜 彪

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第8章 ドッキリカメラ?

みかんちゃんのほほえみ

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テーマ「みかん」をリクエストしてくれた母に




「あー、かわいー」
 
 頭上から娘の黄色声が降ってきて、ダイゴは両目をぐっと持ち上げた。途端に陽光が顔面に直射して、先日のめまいの記憶が現れる。
 年だな、俺も。
 自宅の和室でふらついた時には危うく収納棚の角に頭をぶつけるところだった。3歳の娘を肩車しながら道中みちなかで倒れるわけにはいかない。
 都会にしては木々の多い門前横丁のはずれの道。春先ならそこらじゅう桜が満開だっただろうが、少し時季を逸してしまった。小川を挟んで対岸では下町の露店が長々と並び、緑茶の薫りがあたりを満たしている。明日の日曜日まで開催されているお祭りの踊りだけを見に行くために来てみたが、人が多すぎてほとんど何も見えなかった。せめて何かおみやげをと、名物べっこう飴の袋詰めを娘のヨリコに買ってやった。
「何がかわいいんだ、ん?」
 ダイゴが優しく問いかけると、ヨリコは右腕を上げて前の方を指さした。肩の上に乗っかっていても、その動きはすぐに分かる。
「あのみかんちゃん。みかんちゃんがこっちむいてわらってるの!」
 ヨリコの元気な声に誘われるようにそちらを見ると、新緑の並木の中に1本だけ、この暖かい季節には不似合いな裸の枯れ木が立っていた。はじめダイゴはヨリコが何を指して言っているのかさっぱり分からなかった。
「ほらみかんちゃん!みかんちゃんがわらってるう。ヒャヒャ」
「みかんちゃん?」
 聞き返しながら目を凝らすと、確かにその木の1本の枝の先に、つややかな繁みが付いていた。それは緑の漆を塗ったように少し作り物めいて見えたが、一方でとても活々していた。そしてその中に1つ、オレンジ色の丸い果実が成っていた。みかんの木だと分かれば、葉の色が周りと違うのは自然なことだった。
「ヨリコ、あのみかん、小さくてかわいいな」
「ううん、あのみかんのおかおがかわいいの!」
 ダイゴはヨリコの答えに笑って返した。みかんに顔があるだなんて、子供の発想は豊かだ。みかんの表面にある凹凸が、まだ幼い子供にはそう見えるのだろう。妻が毎晩絵本を読み聞かせていることも関係しているのかもしれない。
 並木道を縫って、緑茶色の風が吹く。ほほえみながらみかんに目を移したダイゴは、そこで自分の頬が強張るのを感じた。
 そのみかんには、確かに顔があった。
 上半球には細い切れ込みが左右に1つずつ、左側の1つは左上から右下に、右側の1つは右上から左下に短い曲線を描いていた。それぞれの曲線の下は紅を差したようにピンクがかった部分があり、下半球には新しい傷口に見える赤い突起が狭い裾野をにじませていた。
 みかんに、目と頬と唇がある。
 まぎれもなくみかんの上に、小さな笑顔がほころんでいた。
「見間違いだ」
 ダイゴは声に出して言ってみた。
「みまちがいじゃないもん、ほんとにわらってるんだもん」
 すかさずヨリコが舌っ足らずの文句を言う。
 ダイゴの首には玉のような汗が噴き出ていた。あれが見間違いじゃないもんか。みかんに顔が付いてるだなんて、いよいよ俺の老化は決定的だ。そう考えて、ダイゴは束の間引きつった笑い顔を作った。
 するとそれに呼応するように、みかんの唇が曲がり始めた。両の引き目もやわらかに下がり、開いた唇の間に白い歯列が覗いた。それはヨリコの口の中の乳歯とどこか似ているところがあった。
 ダイゴは胸の奥に吐き気を感じ、頭ごと目を逸らした。
 「ねえあのみかんちゃんとってー」
 ヨリコのねだる声が今までより前の方からする。頭を動かしたことで、首に寄っかかっていたヨリコがバランスを崩したのではないか。直後にそう思い当たりダイゴの胸が一気に冷えた。ヨリコの声がしてからダイゴが頭を上げるまで1秒もかからなかった。それからダイゴは大きく安堵した。
 気を取り直して、ダイゴはみかんに目を据えた。相変わらずみかんはこちらに笑みを浮かべていたが、何しろ木に成っているのだ。遠目に見ていれば見間違えることもあるだろう。
 ダイゴはその場でヨリコを地面に降ろすと、
「よおうし、父さんがみかんちゃん取ってきてあげよう」
 と意気込んだ。
 俺は地元では有名なわんぱく少年だったんだ。木のぼりぐらい、なんてことない。
 ダイゴはあたりに誰もいないことを確かめると、みかんの枯れ木に飛びついた。そのままするする登ってゆき、あっという間にみかんのある枝の根元までたどり着いた。
 ダイゴはにわかに感動していた。老化だなんだと不安になっていたが、そんなこと全然なかったのだ。最後に登ったのは中学の入学式の後だったはずだが、身体からだは全く衰えてない。
「パパとってー」
 地上では待ちきれない様子のヨリコが、両手でワンピースの裾を引き下げながらピョンピョン飛び跳ねていた。
 待ってろよ。今父さんが取ってきてやるからな。父さんのカッコいいところ見せちゃうからな。
 ダイゴはニカッと笑って枝先に向き直った。
 みかんはそこで、芸妓のように生々しい笑みを作っていた。
 そう言えば、先々週のことだった。後輩のワカバヤシくんのプレゼン資料をチェックしてあげてた時に細かい文字が読めなくなったことに気づいたんじゃなかったか。いやこの前の日曜だって新聞が読みづらくて苦労したような、いやもっと前に一度新聞の「まちがいさがしコーナー」をやるのを諦めたこともあったなそうだそうだそれでその後ナントカルーペのCMのお問い合わせ番号こっそりメモしたようないやあれは今週の火曜が祝日で休みだった日のことか……。
 ダイゴは必死に目の前の光景の理由を探していた。なぜこんな真近にいながら、まだみかんの顔が消えないのだろうか。むしろ顔はみかんの近くに来たことでもっとはっきり見えるようにさえ感じられた。
 ああ次の眼科の定期検診はいつだっただろうかそろそろ本気で老眼鏡を薦められるかもしれないいや今だってコンタクトなんだがそうだ老眼鏡ならぬ老眼コンタクトってのはあるんだろうかふふふふふふふふふふふふ
 ふふふふふふふふふふふふ……。
 ふふふふふふ、ふふふふふふ。
 ダイゴは我に返った。無駄な思考で気を紛らわしながら腕を伸ばした先で、みかんは唇を震わせながら笑っていた。
 ふふふふふふ、ふふふふふふ。
 ダイゴの腕が恐怖で震える。けいれんするかのように震える。俺ももう年なのかふふふふふ。
 ふふふふふふふふふふふふ、ふふふふふふるえるふふふふふ。
 ふるえるふるえるふるえるふるえるふふふふふ、ダイゴの腕が震えるふふふふ、みかんの笑顔がしとやかにふるえる。
「ア……アグ…アグ、アグ、アグ、アグ」
 ダイゴの顎は怖さで固まり、みかんに伸ばした指先が勝手に丸まっていった。頬骨が外れそうになりながら、口の中から悲鳴ともつかない声が漏れる。
「ア、アグ、アグ」
 よだれが落ちた。長く落ちた。肘が外側に張り、手のひらから力が抜けていく。全身が空宙に枝と固定されている。
「ア、アアアッ……アグーッ!」

 硬直したダイゴの身体が横転して、そのまま枝から浮かび上がった。

 プチッ。

 それから一瞬遅れてみかんの実がヘタごと切り離される。

 漫画のような轟音と共にダイゴが頭から地面に激突するまで、ものの1秒もかからなかった。
 道の上で大の字のまま動かなくなったダイゴの横を、みかんがコロコロコロコロと通り過ぎていく。みかんの芸妓は摺り足で、素知らぬ顔で駆けてゆく。
「みかんちゃーん」
 ヨリコが無邪気に叫んだ。逃げてゆく逃げてゆくみかんの後を、ヨリコが歩幅の小さな全速力で追いかける。
「みかんちゃんまってー」
 尾を引くあどけない黄色声が、ヨリコのワンピースの裾から後ろへ後ろへと風を吹く。川辺の一本道に緑茶の風の尾が吹き渡る。
「まってー」
 チャポン、とみかんは川に落ち、ヘタだけが水面みなもで浮き沈む。
 どんぶらこっこ、どんぶらこっこ。ヘタがどんどん遠ざかる。
「まってー」
 ヨリコは走りながらざばん川の中へ降り、きらめく水面の中に確かなオレンジ色を探した。しゃばあヨリコの足が水の抵抗を受けながらしゃばあ駆ける。しかし川のカーテンは日光を反射しちらついて、ヨリコはみかんを見つける前に自分の両足がどこかに沈むのを感じた。
「あッ…」
 ヨリコは突然水中に消え、しかしそれに気づく者はいなかった。あまりにすばやいことで、またヨリコはもう水面に顔を出さなかったのだ。もしかしたら黒い頭が数度見えたかもしれないが、それも川のきらめきが隠してしまった。

 ポチャ…………。
 川からみかんの実が笑顔を上げた。その実にどこからか吹いてきた緑茶の匂いの風が当たる。そのみかんは、いや、その実に笑顔などはなかった。
 ただつやのある眩しい蜜柑の実が、陽光に照らされて下町の小川をどんぶらこっこと流れていった。

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