一寸先は闇2

北瓜 彪

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第8章 謬錯

臨機応変

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 けたたましい目覚まし時計の音にたたき起こされ、わたしははっと飛び起きた。文字盤を見てびっくり。これは3回目のスヌーズ機能の音だったのだ。起きる時間をもう15分も過ぎていた。わたしは急いで用意をし、家を飛び出した。しかしわたしは次の瞬間、驚いて足がもつれて危うく転びそうになってしまった。なんと目の前では、道路上に数多くの口紅が散在しているという信じられない事態が起こっていたのだ。口紅は市販の物よりもはるかに大きくて、ポールのようだった。それらが道の上に紅の部分をむき出しにして、直立していたのだ。紅の色はそれぞれ違っていて、見渡す限りでも鮮烈な朱から、臙脂、さくら色、ビビットピンク、薄桃色と多種多様。また口紅の配置は不規則で、ただ人為的に置かれたのだろうということは予想がついた。こんな日に何故、こんないたずらをされたのだろう。わたしは自分の運の悪さを呪った。
 会社へ行くまでは、それはもう迷路のアトラクションを体験しているかのようで、大変だった。道中にある幾多もの口紅を避けながら進んで行かなければならない。中には狭い歩道なのに障害物が集中しているような場所もあった。けれども、それにも関わらず周りの人たちはさも当然のように歩いている。迷惑そうな顔をする人が一人くらいいてもいいはずだ。車道はもっと大変そうで、普段の半分以下のスピードで車が移動していた。文句の一つぐらい、出てもよいはずだ。

 やっとわたしがオフィスに着いた時には、やはりまだ出勤している人は多くなかった。それから人が集まり始め、仲の良いミキコが出勤してきた。
「あれっ? マナ、今日早いわね。」
こちらから口紅のことについて話しかけようとして、逆に話しかけられたが、考えてみれば、ミキコの言う通りである。わたしは今朝、寝坊をしたのだ。
「あ、たしかにそうだね。わたし今朝遅かったのに……。ところでさ、朝、何か変なのいっぱいなかった?」
ミキコは少し考えこんだが、すぐに笑顔で答えた。
「ううん、別に。いつも通りだったけど?」
わたしは思わずミキコの顔を見つめながら目をぎょっと見開いてしまった。そんなばかな。
「ねえ、今日、何かいつもと違わなかった? 何でわたしより来るの遅かったんだと思う?」
わたしは「口紅が邪魔だったから」という答えを引き出そうとしたが、ミキコはまま少し考えた後、再び笑いながら言った。
「知らなあい。ま、たまたまじゃない。マナより遅くなることって、特別珍しいことでもないじゃない。いくらマナでも、みんなより早く来ることはあるよ」
聞かなきゃよかった、そう思った。ミキコに馬鹿にされた気分がした。

 「つまり、路上にそんな大きな口紅が林立していたってこと?」
昼食の時、わたしはミキコに話をしてみたが、詳細を聞いても、彼女は至って平静を保っていた。
「ねえ、あんた本当に気づかなかったの?」
わたしは半ば訴えかけるように言ってみたが、対応は変わらなかった。
「うーん、あったかなあ……」
そして少し間を置いて、ミキコが驚くべきことを口にした。
「でもさあ、それで何か困ることって、あるのかな。いや、そりゃあ、道が通りづらいってことかも知れないけれど、でも、そういうことって、今に始まった話じゃないっていうか、わたしたちが気づいていないだけで、実際はそういう、何ていうか、どうしてあるのか分からなくても、何かこう、大事な役目果たしているっていうか、そういうのって、多分、そこら中にあると思うんだよね」
ミキコはわたしよりも仕事が出来る。もしかしたら、ミキコの言っていることは正しいのかもしれない。そう、あれだって、単に道路で気を付けをしているのではなくて、わたしたちの気づいていないところで、実はすごい役に立っているのだろう。今はとりあえず、そう思うことにした。

 仕事を終えて、わたしは一人帰路につく。あたりは真っ暗だ。でも、いつもはもう少し明るかったのではないだろうか。違和感の正体はすぐに分かった。街灯がことごとく消えていたのだ。今の季節なら、5時頃にはもう既に点灯していていいはずなのだが。全く、こういう時に市民の役に立たないとは、真の不便である。わたしは今日のミキコの言葉を思い出した。
「でも、そういうことって、今に始まった話じゃない」
「大事な役目果たしているっていうか、そういうのって、多分、そこら中にあると思うんだよね」
わたしの周りの風景や、世の中の仕組みというものは、わたしが生まれた時には、もう既に完成していたらはずだ。わたしがそれらをどう思おうと、そこにあったものはそれであるし、ここにあったものはこれであることに変わりない。恐らく皆、それを受け入れて、臨機応変に生活しているのだろう。そして、いずれはわたしもそうしていくにちがいない。道に口紅が林立していたって、動揺してはならない。何故なら、わたしも「皆」のうちの1人だから。

 ある日の休日、わたしは久しぶりにレストランで時間を潰すことにした。口紅の柱は相変わらず幅を利かせていて、人々も相変わらずそれを黙認している。わたしはナポリタンスパゲッティをほお張りながら、外の様子を眺めていた。こうして見ると、口紅の立ち並ぶ街も結構芸術的である。また、それらをものともせずに交差点を横切っていく人、人、人が全然ぶつかり合わないのも芸術的である。正直わたしはそろそろ、このままでも良いかな、と思い始めていた。確かに、最初のうちは不便だった。家から会社まで片道行くだけでも以前の倍程度の時間がかかった。だけど、そんなことにくじけていてどうする。もしどこかに、わたしと同様に口紅のことを気づいている人がいたとして、それですごく不都合な思いをしている人がいたらその人には悪いが、はっきり言って、この程度のことで毎日の外出に支障をきたしていたら、やっていけないよ。じゃあ、あんた、もしいつも使っている電車がダイヤ改正したらどうすんの。世の中っつうのはね、あんたに合わせて動いてないわけよ。あんたの周りもわたしの周りも、そういう、時にわがままで、時に不都合な歯車のもとに成り立ってんのよ——
 その時わたしは、向こう側の歩道に、熱心に演説をしている人物を見つけた。近くにはその人の顔が大きく写った真っ赤な紙が貼られた選挙カーらしきものが停車していた。今は選挙など一つも予定されていないのに、何の演説だろう。わたしは耳をすましてみた。
「皆さん、皆さんはそれでも人間でしょうか!
 というと語弊がありますが、どうですか、見て下さいこの有様! 道中に、こんなにたくさん口紅があるのを、皆さんはね、どうお考えなんでしょうかね。どう見たって、これはおかしい! わたしゃね、そう思いますよ。何で、何のためにこんなのが必要なんでしょうか! これはね皆さん、現代アートの展覧会ですかと、わたくしはこう問い質したい。誰のどんな許可を得て、街中にこんなものを放置しているのかと! いやどう見たって、これ異質なのはもう、火を見るより明らかじゃないですか!……」
演説を聞いている人など、誰もいない。寂しいねえ、とわたしは少しだけ演説者に同情した。この無関心。
 無関心? わたしはこの時、ある考えが頭をよぎったのを感じた。無関心。全てはこの一語に尽きるのではないか。わたしの中に今まであった、一種の安心感のようなものが、音を立てて崩れ落ちていった。そうだったのだ。みんな、この状況を受け入れているのではない。黙認しているのではない。無関心なだけだったのだ。ある日突然、道の上で大きな口紅が沢山直立していても、夜、街灯が消えていて、普段より少し暗くても、誰も何も感じていない。それが陰ながら大事な役目を果たしていようが、ただ路上で気を付けをしていようが、関係ないのだ。最近は、人と人とのつながりが希薄になってきている。人同士で無関心ならば、その辺に、気づいた時には設置されているような標識やら設備やらオブジェに目がいかないのも無理ない、ということなのかもしれない。そしてそれらは、あまり人目に付かないようにあるものだ。前にテレビで、「駅前に低いポールが2、3本立っていることがあり、これらはそれを避けようと人が駅の出入口から遠ざかることを促し、出入口から出てくる人との接触を防ぐ目的で置かれている」と紹介していたのを見たことがある。こういう物たちは、今や人の生活にすっかりとけこんで、むしろ今度は人間の方がそこになじんでいるのかもしれない。何だかわたしは急に恐ろしくなって、店をとび出し、演説をしている人に話しかけたくなった。でも、わたしの右手からスパゲッティをからめたままのフォークが落ち、白い皿に当たった。「カチン」と乾いた音がして、それもすぐにレストランの喧騒にかき消された。
           



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