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第8章 謬錯
ラストオーダー
しおりを挟むその三ッ星シェフがいるという有名料理店は都内の高級ホテルに付随していた。私は外出する時には、いつもテーラーで仕立ててもらった紳士服のスーツをぴしっと着こなして出かけるのだが、今日は特別良質なものを選んできた。
「1名様、こちらへどうぞ」
女性店員に案内されて、私は一番奥の真紅のテーブルの前に腰を下ろした。テーブルの真ん中には、ガラス製のキューブが置いてあり、その中で小さなキャンドルかま静かに灯をたたえていた。そしてキャンドルの近くには「RESERVEDののプレート。私は前からこの店で一度ディナーをしてみたいと思っていたが、遂にその私の願望が叶ったのである。私は既に嬉々としながらメニューを手に取っていた。どれも美味しそうな料理ばかりである。あまり一品のボリュームは多くないようだが、それが良い。様々な種の食材に触れることで、どの料理も優劣つけずにこだわり抜く、というこの店のポリシーの真偽が分かるだろうし、まるでそんな私の挑戦を買って出ているようにも思える。私の気分はもはや評論家だった。
私は近くに来た若い男性店員を呼び、注文を言った。しっかりと聞いているか店員の顔をちらちらと見ると、何だか彼はのっぺりとした表情で手元の紙に私の注文をメモしていた。私が1つ品名を言うと、「はい」と返してくるのだが、その声はいつも単調で、また上がり調子であったせいか、私の聴覚に障った。注文を確認する時も声が小さく、抑揚が貧しい彼の言い方に、私は珍しくも声を上げてしまった。
「ちょっと君、君はいくつだね?」
そこで彼がやっと顔を上げ、私をまじまじと見つめた。特に驚いた様子もなく、口をへの字に曲げて、こちらを目をそらさず注視してくるから、かなり感じの悪い印象である。ごうまんな感じも受ける。評価はF。最低ランクだ。
「君は客商売というもののイロハを全く心得ていないようだね。私は料理評論家でも、経営者でもないが、今の君が世間一般の他人様に対してどういう心象を与えるかと言うことは自信をもって注意できる。まず君は「食事」という概念をさっぱり理解できていないのではないかね? 食事は単なる「食す」という物理的行為だけでなく、その過程そして結果についても表す言葉なんだ。「食事」までの過程や、それに因んだ事柄が悪い心象を含んでしまった場合、もはやその「食事」自体が負の意味を持ったものになってしまうことがあるのだよ。そして君は、その「食事」に関わる場面に存在してしまっている訳なのだから、客の記憶を負の遺産にしないよう、責任を持って対応しなければならんのだ。わかったかね?」
彼は私がそこまで一気に話すのを顏色ひとつ変えずに聞いていたが、私の説教が理解できたようで、一礼すると、向こうに去っていった。しばらくして料理が運ばれてきた。私はその1品1品を、味わって食した。この店のランクは……B。料理は本当に申し分ない。が、店員の対応が。これだから、最近の若い者は。人ひとりが社会にどれだけ影響を与えるか、分かっていない。白ワインを飲んでいたら、さっきの男性店員がやって来て、
「あと5分でラストオーダーになるでしょう」
と言った。私はまたも彼を引き止めることになってしまった。
「君、今、何と言った? 『あと5分でラストオーダーになるでしょう』と言ったか?『なるでしょう』と。何という言葉だ。それではまるで、ラストオーダーなのかどうか、まだ決まっていないか、君が心得ていないようではないか。もしも心得ていないのなら、今すぐ店長に確認すべきだ。そしてもっとこの店について知り、精進するのだね。そうではなく、まだラストオーダーの時間が決まっていないのなら、いや、そんなことはあり得ない。何しろここは三ッ星レストランだ。そんなことはあり得ない。……もしかして、君らの世代は、日常的にそうい間違った言葉遣いをしているのかね? つまり、あと5分でラストオーダーなのは分かっているのに、「~でしょう」と言う言い方が通ってしまっているのかね? それならもっとあり得ない。最近「~させて頂く」を多用する者が多いが、そんな類いなら、直ちに直すべきだ。言葉は接客の道具だよ。正しく扱えないなら、大問題だ」
彼は今度は、とても不思議な顔をして、首をかしげた。ひどい。ランク外。この店はランク外決定だ。客のアドバイスも真面目に聞けないような店は、食べ物の味を不味くする。私は少し考えたが、この店を出ることを決断した。上着を羽織った。断腸の思いだった。
私が懐からウォレットを取り出し、中の万札をあらためながら会計へ向かっていた時だった。突如カウンターの方から、ゴジラかガメラの鳴き声がした。本当にそんな鳴き声だったのである。あの、「ガオー」とか「ギャー」とかいうような簡単な擬音語では表せない、金属がこすれる音と強風の立てる音を混ぜたような恐ろしい鳴き声である。因みにあの鳴き声は、コントラバスの音色をコンピューターで操作して作ったそうなのだが……そんなことはどうでも良い。私がカウンターを振り返ると、本当にそこにはゴジラかガメラのような怪獣がいた。ごつごつした深緑色の体と、いかつい目。見ると、その怪獣の前には、あの無礼な男性店員がいるではないか! 二者は同じくらいの背丈で、男性店員の方は真横に怪物がいるにも関わらず、黙々とコップを洗っている。私はさっきまで文句をつけていた彼に、目が釘づけになってしまった。怪獣は目を光らせたと思ったら、次には口から灼熱の炎を吐きだした。当然彼は火炎放射をまともに受けて、一気に火だるまになってしまった。私が息を止めて見ている間、彼はぼうぼうと燃えていて、燃えながら突っ立っていた。それから真っ黒に炭化して、突然ぼろっと崩れてしまった……。
怪獣はカウンターに隠れて男性店員の燃えかすをむさぼっていたが、ここまでの間に私以外の誰一人にも気づかれなかった。そして顔を上げると、空に消えていってしまった……。
そこで私は気がついた。確かに彼には、私の忠告が効いていたのかもしれない。そしてしっかりと私に接客してくれたのである。
「あと5分でラストオーダーになるでしょう」
彼の文法に、誤りはなかった。彼のこの言葉を聞いてからものの5分で、私はもう彼に何の注文もつけられなくなってしまった。彼の言う通り、5分後に――あの時点では彼の生死は分からなかったが――ラストオーダーになったのである。
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