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3章 疑惑の夜会編

1 皇子の側近は自分に呆れる

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「人工池の工事は順調に進んでいる。何個か新しい問題点は出て来ているが…まぁ、修正可能な範囲だろう。」

執務室の椅子にドカっと腰掛けたリードは手元の資料を片手で捲りながら、簡潔に告げた。

ボーランド地区から戻り、数週間経つ。
リードやコーエンが不在の間に溜まった仕事に追われている間に、セリーナは聖女として皇室の講師陣の元、勉学に励んでいた。

元々伯爵令嬢として基礎的なマナーや知識を持ち合わせているセリーナには、これまで触れる機会のなかった行政に関する知識について学んでいる。

それはリードがこれから聖女として国政を助けるのであれば、知識も必要だろうと手配した講師陣であるが、本来は皇太子妃となる令嬢を指導するために集められた講師陣であり、セリーナが取り組んでいるそれこそが、皇太子妃の為の学習内容だとはセリーナ自身は全く知らされて居なかった。

そして、セリーナが度々リードやコーエンに人工池の様子について尋ねるものだから、この報告会はすっかり定期開催になっていた。

「問題点が…その、皆さんのやる気が下がったりはしていませんか?」

ソファー席に座るセリーナはリードと同じ資料を両手で大切そうに捲りながら心配そうに声を上げた。

「問題ない。村長が思いの外、上手く皆のやる気をコントロールしている。彼とは長い付き合いだが、ここまで人の心を掴むのが上手いとは思って居なかった。」

「そうなんです!村長さんが皆さんをまとめているなら安心ですね。」

コーエンは、リードの返答に、まるで自分が褒められたかの様に嬉しそうに微笑むセリーナを眺めていた。

また…そんな無防備な笑顔を…。

コーエンは数日前にボーランド地区で彼女の見せた笑顔を思い出していた。

村人からの感謝に顔を綻ばせたセリーナは、夕日に照らされてオレンジの髪が更に鮮やかに輝き、見る者を充分に魅了するものであった。

実際にその破壊力を1番身近で感じ取ったアルフという青年は、一瞬で彼女の虜になっていた。

コーエンはその時の様子を思い出すと、油断した事に舌打ちをしたくなった。

村人の青年…?
それは別にいい。
元々セリーナ嬢とは違う世界の人間だから。
精々、セリーナ嬢を聖女と崇めるくらいだろう。
いや…それも少しイヤではあるが…。

それよりも…。

「報告する事は以上だ。」

微笑むセリーナから、視線を外し、資料を睨み付けたまま答えるリードに、苦々しい気持ちが湧き上がる。

コーエンはしっかりと覚えていた。

あの時微笑んだセリーナとそれを見て顔を赤らめた青年に、誰よりも不機嫌さを滲ませたのは、自分ではなく、この皇太子だった事を。

今回のボーランド地区での一件で、リードの中でのセリーナの評価が上がっている事は知っている。
それは「使える奴」という意味で…だと、リード本人は理解しているだろう。

でも、長年連れ添ったコーエンには、それ以外の「何か」がリードの中で芽生えている事を敏感に感じていた。

まぁ、その「何か」にリード本人は全く気付いていないと言う事までも、コーエンには手に取るようにわかっていた。

「他に何か…お手伝い出来る事はありますか?」

コーエンは前のめりにリードに尋ねるセリーナに頬が緩むのを感じる。

前回、ボーランド地区で村人達から感謝されたのが嬉しかったのだろう。
張り切っている様子が可愛いと思うなんて…重症だな。

「…ない。そう言えば、来週から王宮で貴賓国を招いての宴がある事は知っているか?」

そして、この必要以上に冷たい態度を決め込む乳母兄弟もある意味で重症かもしれない。

「はい。1週間ほど続く大きな宴だとティナが教えてくれました。」

「お前も聖女として参加してもらう。準備しておけ。」

「え!?私もですか?そんな急に…。」

手に持っていた資料を勢い余ってグシャリと握り潰してしまう程おどろいた様子のセリーナに、コーエンは再び笑みを深めてから、2人の話に割って入る事にした。

「大丈夫ですよ、セリーナ嬢。大方の準備はこちらで致します。それに、宴の中盤では隣国からの貴賓としてクラリス様もご帰国の予定なのですよ。」

「え?クラリスが!?」

パッと笑顔を向けられれば、太陽を直視してしまったかのような眩しさを覚える。

「えぇ、詳しくはお部屋でご説明しますね。」

これ以上、彼女の笑顔をこの執務室で披露する必要は無いだろう。

セリーナの退出を促す様にエスコートを申し出れば、リードがこちらをチラリと睨んだ。

「部屋まで送るのか?」

「えぇ、宴の話もございますし…急ぎの仕事は全て片付いておりますので、ご安心を。」

コーエンがいつも通りの笑顔で返せば、リードも不機嫌さを隠さない態度をで短く返答をした。

「勝手にしろ。」

そんなリードの様子に、無自覚でこの状態とは…つくづく重症だな…とコーエンは苦笑いを浮かべながら、執務室を後にした。

リード殿下が勝手に拗らせているうちに、こちらは先に進ませて頂きますよ。

「あの…コーエン様、お忙しいのでは?」

セリーナ嬢がそう言って心配そうにこちらを見上げてくる。

「大丈夫ですよ。もう仕事は片付いてますから。」

「でも、リード殿下も何かお怒りのご様子でしたよ…?」

心配気な表情は可愛らしいですが、そんな表情で他の男の名前を口にするなんて、いただけません。

「大丈夫。今の私にはセリーナ嬢の事以上に優先すべき事などありませんから。」

わざと耳元に顔を寄せ、小声で囁けば、彼女はボンっと音がしそうな程に顔を赤らめてた。

…自分で仕掛けた癖に、その反応が可愛らし過ぎるとは…。

コーエンは自身の重症具合に呆れながら、真っ赤になり、黙り込んでしまったセリーナを部屋までエスコートするのだった。
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