裏切られ婚約破棄したら、推し御曹司に一途に愛されて困ってます

exdonuts

文字の大きさ
1 / 8

第1話 終わりの始まり:婚約破棄の朝

しおりを挟む

東雲瑠衣は、白いカップの中で冷めていくコーヒーを見つめていた。  
香り高い豆を丁寧に挽いて淹れたはずなのに、もう味も香りも感じない。ただ、胸の奥が空っぽで、何も入らない。  

「……来ない、か」  

午前十時。待ち合わせは十分前だった。  
場所は都内でも有名な高級ホテルのラウンジ。休日の午前、穏やかな陽射しの差し込む中、瑠衣は自分でも不自然なほど落ち着いて座っていた。  

彼――高坂雅貴。  
大学時代からの付き合いで、社会人になってから正式に婚約した。優秀な成績で大手商社に勤め、周囲には「完璧な二人」と言われてきた。  
そう、自分もそう思っていた。ほんの一週間前までは。  

彼の様子がおかしいと気づいたのは数日前だ。電話が減り、連絡も短くなり、会っても視線を逸らすようになった。仕事が忙しいだけだと信じたかったが、女の勘は残酷に鋭い。  
そして――昨日。偶然入ったカフェで、彼が別の女性と笑い合っているのを見た。柔らかい表情。あんな顔、もうずいぶん前に自分には見せてくれなかった。  

「おまたせ」  

低い声が背後からかかり、瑠衣は顔を上げた。雅貴が立っていた。  
整った顔。高価なスーツ。完璧な外見。でも、その瞳には微塵も温度がなかった。  

「遅かったね」  
「悪い。少し打ち合わせが伸びて」  
「うん……」  

ぎこちなく笑って見せるも、彼は座るや否や深いため息をついた。嫌な予感はしていた。けれど、こうもあからさまな態度で向き合われると、胸の奥がひやりと冷えた。  

「……すまない。単刀直入に言う」  

彼の口から出たのは、わずか十秒の言葉だった。

「婚約、破棄したい」  

その瞬間、時間が止まったように感じた。  
誰かが冗談を言っているのかと思った。でも、彼は冗談を言うタイプではない。テーブル越しに向けられた顔は、どこまでも真剣だった。  

「どうして」  
「……他に好きな人ができた」  

あまりにも定番すぎて、笑えてきた。  
泣くより先に、瑠衣は震える指でカップを持ち上げ、少しだけ口をつけた。  
冷め切った苦味が舌を刺す。まるで今の自分みたいだ。  

「ねえ、わたし、何かした?」  
「そういう問題じゃない。悪いけど、もう気持ちは戻らない」  
「じゃあ……その人と結婚するつもり?」  
「彼女のほうが俺に似合ってる。お前も、分かってるだろ」  

“似合ってる”。その言葉が胸に突き刺さった。  
彼の言う“彼女”が誰なのか、分かっていた。自分の後輩で、社内でも評判の美人だ。  
地味な服を好み、仕事ばかりしてきた瑠衣とは正反対。確かに、絵面としてはそちらの方が映えるだろう。  

「……そう。分かった。もう、いいよ」  
「すまない。本当に悪いと思ってる。でも、俺にも人生があるから」  
「……うん。じゃあ、幸せに」  

その笑顔だけはどうしても崩したくなかった。  
彼が立ち上がり、ほんの少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだろう。  

 * * *  

ホテルを出ると、外の風が強かった。  
スマホの画面には、彼との思い出写真が溢れている。指が勝手に動いて、削除マークを押すたび、小さくチクッと胸が痛んだ。  

「……終わったんだね」  

ぼんやりと信号が青に変わるのを見て、ただ歩き出した。  
気づけば街はもう昼休みで、人々の笑い声や車の音が遠くに響いている。  
自分だけが止まっているような気がした。  

午後、会社に出ようにも気力がなく、瑠衣は近くの公園のベンチに腰を下ろした。  
すると、背後から小さな声が聞こえた。  

「東雲さん……ですか?」  

驚いて振り返ると、スーツ姿の男性が立っていた。  
陽の光を受けた髪が少しだけ金色に見える。背が高く、整った顔立ちに一瞬息を呑む。どこかで見たことがあるような――。  

「覚えてませんか。九条です。昔、音楽イベントでご一緒しました」  

九条。  
その名前を聞いた瞬間、心がかすかに震えた。  
大学二年の時、音楽関連のボランティアイベントで出会った青年。人前では滅多に笑わないくせに、舞台裏では優しく声をかけてくれた人だ。  
それが、財閥系九条グループの御曹司だと知ったのは、ずっと後のことだった。  

「あ……覚えてます。あの時の……」  
「良かった。ずっとお礼を言いそびれて」と、彼――九条悠真は微笑んだ。  
「お礼?」  
「僕が失敗しかけたとき、貴女が台本を代わりに探してくれたでしょう。あれがなかったら、きっと台無しになってた」  

そんなこと、すっかり忘れていた。  
瑠衣は曖昧に首を振る。  

「たいしたことしてませんよ」  
「いや、僕にとっては大事なことでした。……体調、大丈夫ですか?」  
「え?」  
「顔色、悪いです」  

図星だった。  
「大丈夫です」と言い張るも、彼の視線に嘘がつけず、目を逸らす。  

悠真は少しだけため息をつき、近くのカフェを指差した。  
「少し座りませんか。打ち合わせまで時間があるので」  

断る理由もなく、瑠衣はそのまま彼について行った。  

 * * *  

静かなカフェの窓際。  
瑠衣は紅茶を前に、ようやく落ち着いた呼吸を取り戻していた。  

「婚約者との関係が……終わったんですね」  

言葉を失う。話してもいないのに、なぜ分かるのだろう。視線を向けると、悠真は苦笑していた。  

「失礼。顔に全部出ていました」  
「……恥ずかしいですね」  
「むしろ誠実だと思います。誰かを本気で想ってた証でしょう」  

彼の声音には、どこか温かさがあった。  
不思議と泣けてこない。むしろ心の底に積もっていた氷が、少しずつ溶けていく感覚がした。  

「九条さんは、今もあのグループに?」  
「ええ。本社で経営戦略を。だけど、最近は現場に出ることが多くなりました」  
「すごいですね……」  
「すごくなんてありません。ただ、忙しすぎて、まともに人と話すのが久しぶりです」  

言いながら、彼の表情がわずかに柔らかくなる。  
心を開く人なんだ、と直感した。  

「……東雲さん。」  
「はい?」  
「もし差し支えなければ、今後少しお仕事をお願いしたいことがあるんです」  

「お仕事……ですか?」  
「御社と取引のある部署がありまして。プロジェクト立ち上げの調整役として、あなたのような方が必要だった」  

あまりに突然の話に戸惑う。  
だが、九条財閥といえば、夢のような仕事だ。思わず姿勢を正した。  

「ただ、それだけじゃなくて」と、彼は少し声を落とした。  
「……個人的にも、あなたに興味があります」  

心臓が跳ねた。  
冗談でも軽薄な口調でもない。真正面からそう言う彼の目には、まっすぐな光があった。  

「俺は、不器用です。でも、あなたみたいに頑張る人を見ると、守りたくなる」  

何も言えないまま、瑠衣は紅茶の表面を見つめ続けた。  
守ってほしいなんて、思っていない。けれど、誰かにそう言われたのは初めてだった。  

「……ありがとう。でも、私、今日、全部失ったばかりで……」  
「だからこそ、これから取り戻せばいい」  

彼の言葉は不思議と胸に残った。  
冷めていたはずの紅茶が、なぜか温かく感じた。  

外では夕暮れが迫っていた。  
窓の外の光がオレンジに変わり、街を染めていく。  

あの日、婚約者に言われた「釣り合わない」という言葉が、ふと頭をよぎった。  
けれど、その隣で穏やかに微笑む九条悠真を見て、瑠衣は小さく息を吸った。  

――もう終わりじゃないのかもしれない。  

新しい風が、胸の奥をそっと撫でていくようだった。  

(続く)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたが「いらない」と言った私ですが、溺愛される妻になりました

有賀冬馬
恋愛
「君みたいな女は、俺の隣にいる価値がない!」冷酷な元婚約者に突き放され、すべてを失った私。 けれど、旅の途中で出会った辺境伯エリオット様は、私の凍った心をゆっくりと溶かしてくれた。 彼の領地で、私は初めて「必要とされる」喜びを知り、やがて彼の妻として迎えられる。 一方、王都では元婚約者の不実が暴かれ、彼の破滅への道が始まる。 かつて私を軽んじた彼が、今、私に助けを求めてくるけれど、もう私の目に映るのはあなたじゃない。

地味な私を捨てた元婚約者にざまぁ返し!私の才能に惚れたハイスペ社長にスカウトされ溺愛されてます

久遠翠
恋愛
「君は、可愛げがない。いつも数字しか見ていないじゃないか」 大手商社に勤める地味なOL・相沢美月は、エリートの婚約者・高遠彰から突然婚約破棄を告げられる。 彼の心変わりと社内での孤立に傷つき、退職を選んだ美月。 しかし、彼らは知らなかった。彼女には、IT業界で“K”という名で知られる伝説的なデータアナリストという、もう一つの顔があったことを。 失意の中、足を運んだ交流会で美月が出会ったのは、急成長中のIT企業「ホライゾン・テクノロジーズ」の若き社長・一条蓮。 彼女が何気なく口にした市場分析の鋭さに衝撃を受けた蓮は、すぐさま彼女を破格の条件でスカウトする。 「君のその目で、俺と未来を見てほしい」──。 蓮の情熱に心を動かされ、新たな一歩を踏み出した美月は、その才能を遺憾なく発揮していく。 地味なOLから、誰もが注目するキャリアウーマンへ。 そして、仕事のパートナーである蓮の、真っ直ぐで誠実な愛情に、凍てついていた心は次第に溶かされていく。 これは、才能というガラスの靴を見出された、一人の女性のシンデレラストーリー。 数字の奥に隠された真実を見抜く彼女が、本当の愛と幸せを掴むまでの、最高にドラマチックな逆転ラブストーリー。

腹黒外科医に唆された件~恋人(仮)のはずが迫られています~

有木珠乃
恋愛
両親を亡くし、二人だけの姉妹になった一ノ瀬栞と琴美。 ある日、栞は轢き逃げ事故に遭い、姉の琴美が務める病院に入院することになる。 そこで初めて知る、琴美の婚約者の存在。 彼らの逢引きを確保するために利用される栞と外科医の岡。 「二人で自由にならないか?」を囁かれて……。

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました

cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。 そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。 双子の妹、澪に縁談を押し付ける。 両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。 「はじめまして」 そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。 なんてカッコイイ人なの……。 戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。 「澪、キミを探していたんだ」 「キミ以外はいらない」

「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!

野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。  私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。  そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

退屈扱いされた私が、公爵様の教えで社交界を塗り替えるまで

有賀冬馬
恋愛
「お前は僕の隣に立つには足りない」――そう言い放たれた夜から、私の世界は壊れた。 辺境で侍女として働き始めた私は、公爵の教えで身だしなみも心も整えていく。 公爵は決して甘やかさない。だが、その公正さが私を変える力になった。 元婚約者の偽りは次々に暴かれ、私はもう泣かない。最後に私が選んだのは、自分を守ってくれた静かな人。

処理中です...