裏切られ婚約破棄したら、推し御曹司に一途に愛されて困ってます

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第2話 笑う元婚約者と、傾く心

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月曜の朝、東雲瑠衣はいつもより早く出社した。  
人の少ないオフィスは、冷暖房の音とキーボードの打鍵音が響くだけで妙に静かだ。気持ちを切り替えるため、タスクを片付けようと必死だった。  

けれど、指は動いても心だけが空回りしていた。  
画面の文字が霞んで、何度も消しては打ち直す。週末に婚約を破棄されたばかりなのだから仕方がない。それでも、仕事だけは乱したくなかった。  

「おはようございます、東雲さん」  

背後から穏やかな声がして、瑠衣は慌てて顔を上げた。  
年下の後輩、佐伯がコーヒーを手に立っていた。  

「顔色、悪いですよ?無理してませんか」  
「大丈夫、ありがとう。寝不足なだけ」  
「ほんとかなあ。東雲さん、最近ちょっと元気ないですよ」  

柔らかい笑みで心配してくれるが、そのやさしさが逆に胸に刺さる。  
“元気がない理由”の根源を、社内で軽々しく知られたくなかった。  

「ありがとう。でも平気。今日は集中したいの」  
「分かりました。何か手伝うことがあれば言ってくださいね」  

後輩がデスクへ戻るのを見送り、瑠衣は深呼吸した。  
そうだ、仕事だ。今はしがみつくように働くしかない。  

そのとき、フロアにざわめきが起こった。  
エレベーターの扉が開き、数人の上層部が現れた。その中心にいたのは――。  

「高坂さんだ!」  
「え、マジ?うち来るの久しぶりじゃない?」  

そう、元婚約者の高坂雅貴。  
取引先担当として、何度か共同プロジェクトをしていたが、まさか今日来るとは思わなかった。  

視線を逸らしたくても、自然にそちらを向いてしまう。  
彼はかつての恋人らしい笑みを浮かべながら挨拶し、堂々と歩いてきた。まるで何事もなかったかのように。  

「おはよう、東雲さん。久しぶりだね」  
「……おはようございます」  

社交的な声を保ちながら答えるのが精一杯だった。  
彼の香水の匂いが鼻をかすめ、胸の奥の何かがざわめいた。  

「別部署の件で打ち合わせがあるんだけど、ついでに君のところにも寄ろうと思って」  
「そうですか。お忙しいのにありがとうございます」  
「相変わらず、真面目だね」  

笑顔。  
あの“別の女性”を思い出させる笑み。  
彼は婚約破棄の翌日にこんな顔ができるのか。心底、驚いた。  

誰にも気づかれないように背筋を伸ばし、表情を保つ。  
けれど、隣のデスクで同僚がひそひそと会話するのが耳に入る。  

「高坂さん、やっぱりモテるよね。イケメンだし」  
「でも彼女いたんじゃなかったっけ?」  
「最近、別れたらしいよ」  

彼女という言葉に心が跳ねた。  
“別れた”――彼は新しい恋人ともう終わったのか。それともただの噂か。  
どちらでもいい。もう自分には関係ない。そう言い聞かせても、喉の奥が苦くなる。  

打ち合わせが始まり、彼は同じ会議室に座った。淡々とした説明をしながら、時折こちらに視線を投げてくる。そのたびに、瑠衣は資料に目を落とした。  

「――この部分、東雲さんの判断で修正してもらえる?君のセンスを信じてるから」  

「承知しました」  

それだけ答えて筆記用具を握りしめる。言葉の端々に混じる“君”という呼び方が、地味に響く。  
この人は、悪気があるのか。  
それとも、まだ自分が気持ちを引きずっているとでも思っているのだろうか。  

会議が終わり、皆が退室しても、二人だけが残った。  
空調の音だけが響くなか、沈黙が落ちる。  

「久しぶりに話せて嬉しいよ」  
「そうですか。私は、少し複雑です」  
「だろうね。でも俺たち、いい関係だっただろ。敵対する必要はない」  
「……婚約破棄した人にそれを言われても」  
「仕方なかったんだよ。お互いのためさ」  

その言葉に、唇を噛んだ。  
“お互いのため”――その一言で、どれだけ自分を正当化できるのか。  

「でもね、東雲。君もいつか分かると思う。俺が選んだのは正解だったって」  

冷静を装って立ち上がった。  
けれど心の奥で、何かが切れる音がした。  

「さようなら、高坂さん。お仕事で必要なこと以外は、もう話すことありません」  

きっぱりと言い切ると、彼は一瞬固まり、次に小さく笑った。  
「……強くなったな。前よりずっと綺麗だ」  

その言葉だけを残して去っていく背中を見送ると、力が抜けた。  
不思議と涙は出なかった。たぶんもう枯れたのだろう。  

 * * *  

昼休み。屋上に上がると、ひんやりとした風が肌に心地よかった。  
都会の喧騒が遠くに響く中、瑠衣はぼんやりと空を見上げた。  

「……忘れられるかな、ちゃんと」  

独り言のような呟きが溶けると、スマホが震えた。  
画面には「九条悠真」の文字。昨日出会った御曹司だ。  

『今日、お時間がありますか?少しお話したくて』  

文面を見て、一瞬戸惑う。会う理由は仕事の件だろう。だが、昨日の優しい眼差しを思い出すと胸が静かに波打つ。  

『大丈夫です。何時ごろ伺えば?』  
『18時にホテルロビーで。お迎えに上がります』  

丁寧な返信に、どことなく心が温かくなった。  
午前中の出来事のざらついた痛みが、少しだけ和らぐ。  

 * * *  

午後の業務を終えると、約束の時間にホテルロビーへ向かった。  
九条悠真は、黒のスーツ姿で立っていた。人混みの中でも目を引くほどの存在感。  
彼が一歩近づくたび、空気が落ち着くような、不思議な安心感があった。  

「こんばんは、東雲さん。お忙しいところありがとうございます」  
「いえ、こちらこそ」  
「少し歩きませんか。夜風がちょうどいいです」  

彼に並んで外に出ると、街の灯りがゆっくり輝き出していた。  
会話は仕事から始まったが、次第に彼の声が優しく変わっていく。  

「今日、会社で高坂さんと会いましたね」  
不意を突かれ、立ち止まる。  
「どうして……」  
「偶然、近くの会議室にいましたから。話している様子が見えたんです」  
「……見られてたんですね」  
「失礼。でも、あなたの顔に全部出ていました。悔しさも、決意も」  

彼の言葉が胸に落ちる。  
「強い人ですね、東雲さん」  
「強くなんてないです。強がってるだけ」  
「それでもいい。強がりでも、今のあなたは美しい」  

一瞬、心臓が止まった気がした。  
夕方の街を歩く二人。すれ違う人々の中、ふとビルのガラスに映った自分の顔が、ほんの少し晴れて見えた。  

「……ありがとうございます。でも、そんなふうに言われたの久しぶりです」  
「なら、これからは何度でも言います」  

彼の声があまりに静かで、逆に心に残った。  
その優しさが、危うく涙を呼びそうになる。  

「まだ会って二度目なのに、ずいぶん大胆ですね」  
「あのときから気になってましたから」  
「……大学のイベントの時?」  
「ええ。あなたが真剣に人を支えている姿が印象的でした。あれからずっと忘れられなくて」  

知らなかった。  
当時、そんなふうに見られていたなんて。  

彼がポケットから名刺を差し出す。  
「これ、今度の新プロジェクトの概要です。貴女を推薦しました」  

「私を、ですか?」  
「ええ。能力も人格も兼ね備えた人が必要なんです。――信頼しています」  

その言葉に息をのむ。  
誰かに“信頼している”と言われたのは、いつ以来だろう。  

「……ありがとうございます。期待を裏切らないように頑張ります」  
「無理はしないで。あなたには、もう少し自分を大切にしてほしい」  

夜風が頬を撫で、二人の影が並んで伸びていく。  

その瞬間、不思議と未来の景色が少しだけ光って見えた。  
もう過去の痛みに縛られたままではいられない。  

ゆっくりと息を吸い、彼の横顔を見上げる。  
月の明かりを受けた瞳が透明に輝いていた。  

(続く)
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