裏切られ婚約破棄したら、推し御曹司に一途に愛されて困ってます

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第3話 涙より先に落ちたプライド

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翌朝、目覚ましのベルが鳴っても、東雲瑠衣はしばらく動けなかった。  
まぶたの裏に、昨夜の九条悠真の言葉が何度も蘇る。  
――あなたには、もう少し自分を大切にしてほしい。  
その一言が、心の奥に深く残っていた。  

布団から出てカーテンを開けると、冬の朝の白い光が部屋を包んだ。  
気持ちまで透き通るような寒気。けれど、どこか少しだけ前を向ける気がした。  

出社してデスクに座ると、すぐにメールの通知が入った。  
差出人は、九条ホールディングスの企画部。件名には「新規プロジェクトに関する打診」とある。  
昨夜話していた件が、もう正式に動き出しているようだった。  

内容を読むと、こちらの会社との共同開発案件らしい。プロジェクト担当者として瑠衣の名前が指名され、初回打ち合わせは翌週予定されていた。  
その仕事は、社内でも重要案件だ。普通なら部長レベルが対応するのに、自分の名前があることが信じられない。  

「……こんな大役、ほんとに任せてもらっていいのかな」  

震える手でパソコンを閉じたとき、後輩の佐伯が声をかけてきた。  
「東雲さん、顔がぱっと明るいですね。いいことありました?」  
「うん、もしかしたら。でも、どうだろう。まだ信じられない感じ」  
「なんだろう、それ。恋ですか?」  
「ちがうわよ」思わず笑った。  

恋なんて、もう二度としない。そう決めたはずだった。  
でも、九条との会話を思い返すと、胸の奥が温かくなるのを感じてしまう。  
自分でも戸惑うけれど、その感情を完全に否定できなかった。  

昼休み、社食から戻ると、デスクに社内メッセージが届いていた。  
差出人は――高坂雅貴。  
「話がある。五分でいい。会議室で待ってる」  

読むだけで嫌な汗が流れた。  
どうして今さら。もう終わったはずなのに。  
けれど一応、同じ会社の取引案件がある以上、無視はできない。  

覚悟を決めて会議室へ向かうと、彼は窓の外を見ていた。  
振り返ったときの笑顔が、嫌なくらい昔と変わらない。  

「来てくれたんだ。ありがとう」  
「急ぎの案件でしたか?」  
「まあ、そんなところかな」  

彼は椅子を勧め、ゆっくりと座った。  
「昨日、ちょっと言い過ぎたかもしれないと思って」  
「……」  
「でも俺は、今でもお前が嫌いじゃないよ。だから、できれば敵みたいな関係にはなりたくない」  

その言葉に、瑠衣は静かに息を吐いた。  
嫌いじゃない。それはまるで上から目線の慰めだった。  

「そういう言い方、とても無責任だと思います」  
「そうかな?」  
「私、あの日ちゃんと終わらせました。戻る気もありません」  

はっきり答えると、彼の表情が曇った。  
「……変わったな。前はもっと俺の言うこと素直に聞いてたのに」  
「そういう自分に戻りたくないから、変わりました」  

一瞬の沈黙のあと、高坂は冷えた笑みを浮かべた。  
「じゃあ聞くけど、九条悠真とはどういう関係?」  

思わず唇を噛む。社内で噂になったのだろうか。  
昨日、並んで歩いていた姿を誰かに見られていたのかもしれない。  

「ただの取引先です。仕事の話をしていただけです」  
「へえ。御曹司と“仕事の話”ね。あいつ、女の匂いが嫌いって有名なのに」  

挑発めいた声に、怒りが込み上げた。  
「あなたに、そんなこと言う資格ありません」  
「……強気になったな」  
「そう見えるなら、それで結構です」  

言い捨てて立ち上がると、彼が腕を掴んだ。  
冷たい指先が皮膚に食い込む。  
「なあ、東雲。俺、お前が他の男に取られるのは面白くない」  
「離してください」  
「もしかして本気であいつに惹かれてる?」  
「いい加減にして」  

その瞬間、ドアが開いた。  
「失礼します」  

低く、よく通る声。  
そこに立っていたのは――九条悠真だった。  
淡いグレーのコートを羽織り、冷ややかな視線を高坂に向けている。  

「……九条さん?」瑠衣が声を震わせる。  
「偶然でした。部長とお話があって来たら、ドアの向こうから声が聞こえたので」  

悠真は一歩前に出て、静かに言った。  
「高坂さん、人を掴むときは気をつけたほうがいいですよ。相手が誰であっても、見苦しい」  

高坂の顔から笑みが消える。  
「……あなたには関係ない」  
「関係あります。彼女は私の仕事のパートナーですから」  

淡々とした口調。  
それでもその一言には、圧倒的な力が宿っていた。  
高坂が何か言い返そうとしたが、瑠衣が先に口を開く。  

「九条さん、ありがとうございます。でも、大丈夫です」  
「いえ。あなたが怖い思いをしていないか、それが気になって」  

その優しい声に、胸が熱くなる。  
彼は視線を高坂から外し、穏やかに瑠衣を見つめた。  
「――失礼します。打ち合わせ、社外で軽くしませんか?」  
「はい……」  

会議室を出る瞬間、高坂の低い舌打ちが聞こえた。  
けれどもう振り返らない。もう、二度と。  

 * * *  

ホテル近くのカフェ。  
落ち着いた店内で、瑠衣は温かいミルクティーを手にしていた。  
九条は向かいでコーヒーを飲みながら、いつもより少し険しい表情をしている。  

「すみません。仕事中に呼び出してしまって」  
「謝る必要はありません。悪いのはあの人です」  
「でも、私、情けなくて……何もできなかった」  

彼は少し首を振った。  
「できていましたよ。逃げなかった。ちゃんと拒絶した。それで十分です」  

瑠衣の心が静かに熱を帯びていく。  
冷たい言葉で押し潰されるたび、どこかで自分を守る術を覚えてきた。  
でも、正面から誰かに“それでいい”と言われたのは初めてだった。  

「東雲さん」  
「はい」  
「もう過去の誰かに傷つけられる必要はありません。今、あなたが見るべきは、前だけです」  

言葉が心に染み渡る。  
涙が出そうになるけれど、ぎりぎりでこらえた。  

「ありがとうございます。……本当に、救われました」  
「救うなんて大げさですよ。私はただ、あなたに笑っていてほしいだけです」  

その言葉に、胸の中の何かが解けた。  
泣くより先に、恥ずかしくなるほど素直に笑ってしまう。  

「笑ってくれましたね」  
彼の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。  
「やっぱり、その顔のほうがずっといい」  

その瞬間、店の隅で流れるピアノの音が、やけに優しく響いた。  
何かが少しずつ動き出している。  
それが恋なのか、まだ分からない。  
けれど、自分の中で確かに何かが変わり始めていた。  

「じゃあ、来週の打ち合わせ、楽しみにしています」  
「はい。必ず、いい仕事にします」  
「ええ、信じています」  

カフェを出ると、夕暮れが街を包んでいた。  
冬空に灯る街灯の光が、まるで新しい道を示しているように感じた。  

そうだ、もう泣くだけの女ではいたくない。  
涙より先に、落としたプライドを拾い上げよう。  

夜風を吸い込み、瑠衣は前を見た。  
その先にある未来が、ほんの少しだけ光を持って見えた。  

(続く)
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