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第3話 雨の中の侯爵
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翌朝、窓ガラスを叩く雨音で目が覚めた。昨日よりも冷え込んでいるのか、吐く息が白く見える。薄暗い空の下、灰銀色の屋根瓦が濡れて光っていた。
屋敷の大広間からは控えめな話し声が聞こえる。昨日までとは違う静けさが、この場所に流れていた。私はベッドから起き上がり、用意されていた厚手のショールを肩にかける。
鏡に映る自分の姿を見た瞬間、胸が締めつけられた。目の下に疲れが滲み、唇の色は薄い。かつて「理想の令嬢」と称された私の面影は、そこから遠かった。それでも、ただ泣いて終わるわけにはいかないと、鏡の中の自分に告げた。
ノックの音がして、扉の向こうから侍女の声がした。
「レティシア様、アレクシス様が応接室へお越しいただきたいとのことです。」
「……分かりました。」
侯爵の屋敷は重厚で、どの部屋もどこか冷たい印象を与える。それでも不思議と息苦しさはなかった。凍てついたような空気の奥に、確かな秩序と温もりが同居している。屋敷全体が彼そのもののようだと思った。
応接室の扉を開けると、アレクシスは窓辺に立っていた。長い指でカーテンをわずかに引き、外の雨を眺めている。その背中には静かな威圧感があった。
「おはようございます、侯爵様。」
「来たか。」
彼はゆっくりと振り返り、私に視線を向けた。その瞳は相変わらず氷のように冷たいのに、どこか優しい光が宿っている。私の顔を見ると、軽く眉を寄せた。
「眠れたか。」
「はい、少しだけ。……おかげさまで。」
「そうか。」
短い言葉の後、彼は手にしていた書類をテーブルに置いた。机の上には、王宮関係者や貴族の名が並んだ書簡の束。淡々とした仕草の中に、有無を言わせぬ気配が漂う。
「王都の噂は一夜にして広まったが、まだ沈静化はしていない。お前を陥れた連中は勢いづいている。」
「やはり……そうなのですね。」
「しかし、一つ面白い情報が入ってきた。」
彼は手元の紙を一枚取り上げた。鋭い視線がそこを滑る。
「先日の舞踏会で、殿下が新婚約者を公に庇う発言をした直後、クロード家の商会が王城の納品契約を独占した。偶然とは言い難い。」
「……つまり、彼らは政治的な取引のために……。」
「そうだ。お前との婚約を捨てたのも、その延長だ。」
怒りとも、悲しみともつかぬ感情が喉を詰まらせた。私が信じてきたものが、全て都合のために利用されていた。その現実は、何度聞いても苦しかった。
「私は殿下の理想に近づこうと努力してきました。愚かでしたね。」
「愚かではない。誠実だっただけだ。だが、誠実な者が笑われるのが王都の現実だ。」
アレクシスの言葉は冷たかったが、心地よいほど真実だった。彼の視線に嘘はない。
「復讐を望むか?」
唐突な問いに、私は息を呑んだ。その瞳は冗談ではなく、私の決意を測るように真剣だった。
「……望みます。けれど、同じように卑劣な手段ではなく、正しく罰したい。」
「その覚悟を忘れるな。」
彼は静かに頷き、立ち上がった。
「雨が止みそうだ。少し外を歩くといい。」
屋敷の裏庭に出ると、細かい雨がまだ降っていた。湿った風が頬を撫でる。庭の端には石造りの東屋があり、そこに彼の姿があった。いつの間にか、彼も外に出てきていたのだ。
「侯爵様も……。」
「この程度の雨で退くほど柔ではない。」
少しだけ、口調が和らいだ気がした。
東屋の屋根から滴る水の音を聞きながら、私はそっと口を開いた。
「侯爵様は、どうして“氷の男”と呼ばれているのですか?」
彼はわずかに目を細め、遠くを見つめた。
「興味本位の呼び名だ。感情を表に出さず、戦場でも一切動じなかったせいだろう。」
「本当に、感情がないのですか?」
「ないと思えば、敵は安心する。だから、そう振る舞ってきただけだ。」
淡々とした答えだったが、その言葉の底には長い孤独が潜んでいるように思えた。
しばらく二人で沈黙の時間を過ごした。庭の花が雨に打たれ、地面に落ちた花弁が小さく揺れる。
「……あなたは強い方ですね。」
「強い者などいない。弱さを隠す術を知っている者が、生き残っているだけだ。」
その一言が、不思議なほど胸に響いた。私は無意識に彼の横顔を見つめた。冷たい印象とは裏腹に、そこにあるのは深く静かな悲しみだった。
「レティシア。」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
「お前が望むなら、彼らを沈黙させてやる。だが――復讐は、時に自分をも壊す。」
「分かっています。それでも、私はこのままでは終われません。」
「ならば、共に動く。私は力を貸すが、歩むのはお前自身だ。」
風が吹き抜け、東屋の外の枝が揺れた。雨が止み、うっすらと光が差し始める。
「……ありがとう、アレクシス様。」
「礼は要らん。俺は合理的な判断をしているだけだ。」
彼はそう言って、わずかに口元を歪めた。だがその表情が、ほんの一瞬だけ柔らかく見えたのは気のせいだったのだろうか。
その後、屋敷に戻る途中で、彼は足を止めた。黒い外套の裾を翻し、空を見上げる。
「覚えておけ、レティシア。信じる者がいる限り、人は何度でも立ち上がれる。」
「……はい。」
その言葉が心の奥に沈み、静かに広がっていった。もう一度だけ、私も立ち上がろう。この嘲笑の舞踏会に、再び舞い戻るために。
アレクシスが手を差し伸べる。私はためらいながらも、その手を取った。指先に伝わる温かさが、雨上がりの空気と共に身体を包む。
冷たい雨の中で出会った氷の侯爵。その手の温もりが、確かに私の心の芯を溶かし始めていた。
(続く)
屋敷の大広間からは控えめな話し声が聞こえる。昨日までとは違う静けさが、この場所に流れていた。私はベッドから起き上がり、用意されていた厚手のショールを肩にかける。
鏡に映る自分の姿を見た瞬間、胸が締めつけられた。目の下に疲れが滲み、唇の色は薄い。かつて「理想の令嬢」と称された私の面影は、そこから遠かった。それでも、ただ泣いて終わるわけにはいかないと、鏡の中の自分に告げた。
ノックの音がして、扉の向こうから侍女の声がした。
「レティシア様、アレクシス様が応接室へお越しいただきたいとのことです。」
「……分かりました。」
侯爵の屋敷は重厚で、どの部屋もどこか冷たい印象を与える。それでも不思議と息苦しさはなかった。凍てついたような空気の奥に、確かな秩序と温もりが同居している。屋敷全体が彼そのもののようだと思った。
応接室の扉を開けると、アレクシスは窓辺に立っていた。長い指でカーテンをわずかに引き、外の雨を眺めている。その背中には静かな威圧感があった。
「おはようございます、侯爵様。」
「来たか。」
彼はゆっくりと振り返り、私に視線を向けた。その瞳は相変わらず氷のように冷たいのに、どこか優しい光が宿っている。私の顔を見ると、軽く眉を寄せた。
「眠れたか。」
「はい、少しだけ。……おかげさまで。」
「そうか。」
短い言葉の後、彼は手にしていた書類をテーブルに置いた。机の上には、王宮関係者や貴族の名が並んだ書簡の束。淡々とした仕草の中に、有無を言わせぬ気配が漂う。
「王都の噂は一夜にして広まったが、まだ沈静化はしていない。お前を陥れた連中は勢いづいている。」
「やはり……そうなのですね。」
「しかし、一つ面白い情報が入ってきた。」
彼は手元の紙を一枚取り上げた。鋭い視線がそこを滑る。
「先日の舞踏会で、殿下が新婚約者を公に庇う発言をした直後、クロード家の商会が王城の納品契約を独占した。偶然とは言い難い。」
「……つまり、彼らは政治的な取引のために……。」
「そうだ。お前との婚約を捨てたのも、その延長だ。」
怒りとも、悲しみともつかぬ感情が喉を詰まらせた。私が信じてきたものが、全て都合のために利用されていた。その現実は、何度聞いても苦しかった。
「私は殿下の理想に近づこうと努力してきました。愚かでしたね。」
「愚かではない。誠実だっただけだ。だが、誠実な者が笑われるのが王都の現実だ。」
アレクシスの言葉は冷たかったが、心地よいほど真実だった。彼の視線に嘘はない。
「復讐を望むか?」
唐突な問いに、私は息を呑んだ。その瞳は冗談ではなく、私の決意を測るように真剣だった。
「……望みます。けれど、同じように卑劣な手段ではなく、正しく罰したい。」
「その覚悟を忘れるな。」
彼は静かに頷き、立ち上がった。
「雨が止みそうだ。少し外を歩くといい。」
屋敷の裏庭に出ると、細かい雨がまだ降っていた。湿った風が頬を撫でる。庭の端には石造りの東屋があり、そこに彼の姿があった。いつの間にか、彼も外に出てきていたのだ。
「侯爵様も……。」
「この程度の雨で退くほど柔ではない。」
少しだけ、口調が和らいだ気がした。
東屋の屋根から滴る水の音を聞きながら、私はそっと口を開いた。
「侯爵様は、どうして“氷の男”と呼ばれているのですか?」
彼はわずかに目を細め、遠くを見つめた。
「興味本位の呼び名だ。感情を表に出さず、戦場でも一切動じなかったせいだろう。」
「本当に、感情がないのですか?」
「ないと思えば、敵は安心する。だから、そう振る舞ってきただけだ。」
淡々とした答えだったが、その言葉の底には長い孤独が潜んでいるように思えた。
しばらく二人で沈黙の時間を過ごした。庭の花が雨に打たれ、地面に落ちた花弁が小さく揺れる。
「……あなたは強い方ですね。」
「強い者などいない。弱さを隠す術を知っている者が、生き残っているだけだ。」
その一言が、不思議なほど胸に響いた。私は無意識に彼の横顔を見つめた。冷たい印象とは裏腹に、そこにあるのは深く静かな悲しみだった。
「レティシア。」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
「お前が望むなら、彼らを沈黙させてやる。だが――復讐は、時に自分をも壊す。」
「分かっています。それでも、私はこのままでは終われません。」
「ならば、共に動く。私は力を貸すが、歩むのはお前自身だ。」
風が吹き抜け、東屋の外の枝が揺れた。雨が止み、うっすらと光が差し始める。
「……ありがとう、アレクシス様。」
「礼は要らん。俺は合理的な判断をしているだけだ。」
彼はそう言って、わずかに口元を歪めた。だがその表情が、ほんの一瞬だけ柔らかく見えたのは気のせいだったのだろうか。
その後、屋敷に戻る途中で、彼は足を止めた。黒い外套の裾を翻し、空を見上げる。
「覚えておけ、レティシア。信じる者がいる限り、人は何度でも立ち上がれる。」
「……はい。」
その言葉が心の奥に沈み、静かに広がっていった。もう一度だけ、私も立ち上がろう。この嘲笑の舞踏会に、再び舞い戻るために。
アレクシスが手を差し伸べる。私はためらいながらも、その手を取った。指先に伝わる温かさが、雨上がりの空気と共に身体を包む。
冷たい雨の中で出会った氷の侯爵。その手の温もりが、確かに私の心の芯を溶かし始めていた。
(続く)
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