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第1話 裏切りの婚約破棄
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王都アストリアは、今宵も宴の光に包まれていた。
金と銀のシャンデリアが煌めき、流れる音楽は甘く華やかに人々を酔わせる。だが、その中心で笑顔を浮かべる令嬢の頬は、白磁のように冷たく凍りついていた。
伯爵家の令嬢、リリシア・フェインズ。
本日開かれているのは、彼女と王国第二王子アルベルトの婚約を正式に祝う夜会だった――少なくとも、表向きは。
「リリシア嬢。貴女との婚約を、ここに破棄する。」
会場の中心で響いた声は冷徹に澄み渡り、瞬く間に音楽が止まった。
楽士の手が震え、貴族たちのざわめきが起こる中、リリシアは理解できなかった。
何を言われたのか、一瞬、音が遠のいた。
「……今、なんと?」
「だから言った。お前との婚約は無効だ。私は、真実の愛を見つけたのだ。」
アルベルトは誇らしげに言い放ち、隣に立つ少女――侯爵令嬢セレナの手を握った。
華やかなドレスに包まれた少女は、小さく肩をすくめ、媚びるように微笑む。
「アルベルト様、そんな……みんなの前で……」
「いいんだ、セレナ。愛を偽ることなど、正しき王子のすることではない。」
リリシアの心臓がずしんと沈む音が、胸の奥で響いた。
控室での不安が現実になった瞬間だった。
近頃、彼の態度がよそよそしいとは思っていた。だが、まさか公衆の面前でこれほど残酷に突き放されるとは。
周囲の貴族たちが息を呑む。誰かがうっすらと笑っているのが見えた。
「伯爵令嬢のくせに分不相応だったのよ」「第二王子さまは、ずっとセレナ様と仲が良かったのよね」
そんな陰口が、リリシアの耳に痛いほど突き刺さった。
「……理由をお聞かせください、アルベルト殿下。」
震える声で、それでも彼女は礼儀を崩さずに言う。
青い瞳が、ひどく静かに彼を見つめていた。
その瞳の揺らぎに、アルベルトは一瞬だけ居心地悪そうに視線をそらす。
「理由?簡単なことだ。お前は冷たい。民を思う心が欠けている。貴族として、女性として、私は……失望した。」
冷たい言葉が、ゆっくりと突き刺さるように響く。
それがどれほど他人事のように聞こえるのか、彼は気づいていないのだろう。
「……そうですか。」
リリシアは一歩下がると、深く礼をした。
その姿には、余計な言い訳も、涙もない。
だが、その胸の奥では、形容しがたい痛みが渦を巻いていた。
父母の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「誇り高くありなさい、リリシア」
それがいつも父が口にした言葉だ。
誇りとは、誰かのために折れることなく自分を貫くこと。
その教えが、いま初めて彼女に重みをもって迫ってくる。
「殿下。では、これまでのご縁に感謝を。本日限りで、私はフェインズ家の娘としての務めを果たします。」
一礼して、彼女は踵を返した。
その姿勢には、崩れ落ちるような弱さは一片もない。だが、背を向けた瞬間、ぐっと胸を押さえる。
痛みが喉の奥から滲み出るように、息が詰まった。
「リリシア嬢、お待ちなさい!」
セレナが芝居がかった声で呼び止めた。
振り返ったリリシアに、彼女は同情を装った笑みを浮かべる。
「婚約破棄なんて、きっと辛いでしょうけど……愛のない結婚は可哀相ですもの。お互い幸せになりましょうね?」
「ええ。どうぞお幸せに。」
それ以上、言葉は不要だった。
アルベルトが何か言いかけたが、リリシアはもう彼を見なかった。再び一礼して、堂々と退場する。
赤い絨毯を踏みしめ、扉の向こうの闇へと消えていくその背中は、どこか神々しかった。
夜会はざわめきに包まれたまま終わりを迎えた。
そして翌日、リリシア・フェインズは正式に王都を追放された。
形式上は「伯爵家の不祥事による謹慎」――だが、その実態は、ただの口実だった。
馬車の車輪が乾いた雪を踏みしめる音が、凍てついた街に虚しく響く。
荷物はわずか。メイドも誰もついてはこなかった。
皆、アルベルトの権勢を恐れたのだ。仕方がない。誰も恨めない。
王都を出ると、視界を覆う雪原が広がった。
空はどこまでも灰色で、風は頬を切り裂くほど冷たい。
だが、リリシアはその中でようやく深く息をついた。
「……これでいいの。」
呟きは、雪に溶けるように消える。
冷たい空気が肺を満たし、リリシアの眼差しには微かな光が戻る。
誇りは奪われていない。権力を失っても、自分を見失うわけではない。
けれど、旅は想像以上に過酷だった。
辺境都市ルグナまでの道のりは遠く、馬車の御者も五日目には引き返してしまった。
「ここまでで勘弁してください……」
そう言って彼は逃げるように帰ってしまい、リリシアは吹雪の峠に一人取り残された。
積み上がる雪、遮る風、焦げたような寒気。
命の灯がゆっくりと消えかけていく。
手足の感覚が遠のく中、リリシアは小さく笑んだ。
「婚約破棄の次は、凍死……?私の人生も、滑稽ね。」
そのときだった――空を裂くような一声が響く。
「……竜、の鳴き声?」
首を上げると、銀の雲を切り裂いて巨大な影が降りてきた。
雪煙が舞い、風が一気に吹き飛ばされる。
氷のような鱗、蒼く光る瞳。伝説でしか聞かない“辺境の竜”が、目の前に降り立ったのだ。
リリシアは息を呑む。その背に人影が見える。
黒い外套を纏い、長い剣を背に負った男が、竜の首筋から軽やかに飛び降りた。
彼はリリシアを見下ろし、無言のまま歩み寄る。
雪の上に落ちる足音が、ひどく静かに響いた。
「……生きているのか。」
その声は低く、荒れた風のようだった。
甘さの欠片もないが、なぜか心の奥に暖かさを残す。
「あなた……は?」
「辺境防備軍、竜騎士隊の隊長、カイル・ヴァーレンだ。」
名乗ると同時に、彼はリリシアの腕を取った。
冷たさに硬直していた指先を包み込み、短く息をつく。
「……冷えすぎだ。長くは持たん。」
彼女を抱き上げる動作は、ためらいがなかった。
竜が再び翼を広げる。
リリシアの視界がふっと遠のく。
最後に見たのは、彼の真っ直ぐな瞳と、竜の蒼い光――。
「待って、貴方は……」
その言葉は風に消え、意識の端で微かな温もりだけを覚えた。
(続く)
金と銀のシャンデリアが煌めき、流れる音楽は甘く華やかに人々を酔わせる。だが、その中心で笑顔を浮かべる令嬢の頬は、白磁のように冷たく凍りついていた。
伯爵家の令嬢、リリシア・フェインズ。
本日開かれているのは、彼女と王国第二王子アルベルトの婚約を正式に祝う夜会だった――少なくとも、表向きは。
「リリシア嬢。貴女との婚約を、ここに破棄する。」
会場の中心で響いた声は冷徹に澄み渡り、瞬く間に音楽が止まった。
楽士の手が震え、貴族たちのざわめきが起こる中、リリシアは理解できなかった。
何を言われたのか、一瞬、音が遠のいた。
「……今、なんと?」
「だから言った。お前との婚約は無効だ。私は、真実の愛を見つけたのだ。」
アルベルトは誇らしげに言い放ち、隣に立つ少女――侯爵令嬢セレナの手を握った。
華やかなドレスに包まれた少女は、小さく肩をすくめ、媚びるように微笑む。
「アルベルト様、そんな……みんなの前で……」
「いいんだ、セレナ。愛を偽ることなど、正しき王子のすることではない。」
リリシアの心臓がずしんと沈む音が、胸の奥で響いた。
控室での不安が現実になった瞬間だった。
近頃、彼の態度がよそよそしいとは思っていた。だが、まさか公衆の面前でこれほど残酷に突き放されるとは。
周囲の貴族たちが息を呑む。誰かがうっすらと笑っているのが見えた。
「伯爵令嬢のくせに分不相応だったのよ」「第二王子さまは、ずっとセレナ様と仲が良かったのよね」
そんな陰口が、リリシアの耳に痛いほど突き刺さった。
「……理由をお聞かせください、アルベルト殿下。」
震える声で、それでも彼女は礼儀を崩さずに言う。
青い瞳が、ひどく静かに彼を見つめていた。
その瞳の揺らぎに、アルベルトは一瞬だけ居心地悪そうに視線をそらす。
「理由?簡単なことだ。お前は冷たい。民を思う心が欠けている。貴族として、女性として、私は……失望した。」
冷たい言葉が、ゆっくりと突き刺さるように響く。
それがどれほど他人事のように聞こえるのか、彼は気づいていないのだろう。
「……そうですか。」
リリシアは一歩下がると、深く礼をした。
その姿には、余計な言い訳も、涙もない。
だが、その胸の奥では、形容しがたい痛みが渦を巻いていた。
父母の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「誇り高くありなさい、リリシア」
それがいつも父が口にした言葉だ。
誇りとは、誰かのために折れることなく自分を貫くこと。
その教えが、いま初めて彼女に重みをもって迫ってくる。
「殿下。では、これまでのご縁に感謝を。本日限りで、私はフェインズ家の娘としての務めを果たします。」
一礼して、彼女は踵を返した。
その姿勢には、崩れ落ちるような弱さは一片もない。だが、背を向けた瞬間、ぐっと胸を押さえる。
痛みが喉の奥から滲み出るように、息が詰まった。
「リリシア嬢、お待ちなさい!」
セレナが芝居がかった声で呼び止めた。
振り返ったリリシアに、彼女は同情を装った笑みを浮かべる。
「婚約破棄なんて、きっと辛いでしょうけど……愛のない結婚は可哀相ですもの。お互い幸せになりましょうね?」
「ええ。どうぞお幸せに。」
それ以上、言葉は不要だった。
アルベルトが何か言いかけたが、リリシアはもう彼を見なかった。再び一礼して、堂々と退場する。
赤い絨毯を踏みしめ、扉の向こうの闇へと消えていくその背中は、どこか神々しかった。
夜会はざわめきに包まれたまま終わりを迎えた。
そして翌日、リリシア・フェインズは正式に王都を追放された。
形式上は「伯爵家の不祥事による謹慎」――だが、その実態は、ただの口実だった。
馬車の車輪が乾いた雪を踏みしめる音が、凍てついた街に虚しく響く。
荷物はわずか。メイドも誰もついてはこなかった。
皆、アルベルトの権勢を恐れたのだ。仕方がない。誰も恨めない。
王都を出ると、視界を覆う雪原が広がった。
空はどこまでも灰色で、風は頬を切り裂くほど冷たい。
だが、リリシアはその中でようやく深く息をついた。
「……これでいいの。」
呟きは、雪に溶けるように消える。
冷たい空気が肺を満たし、リリシアの眼差しには微かな光が戻る。
誇りは奪われていない。権力を失っても、自分を見失うわけではない。
けれど、旅は想像以上に過酷だった。
辺境都市ルグナまでの道のりは遠く、馬車の御者も五日目には引き返してしまった。
「ここまでで勘弁してください……」
そう言って彼は逃げるように帰ってしまい、リリシアは吹雪の峠に一人取り残された。
積み上がる雪、遮る風、焦げたような寒気。
命の灯がゆっくりと消えかけていく。
手足の感覚が遠のく中、リリシアは小さく笑んだ。
「婚約破棄の次は、凍死……?私の人生も、滑稽ね。」
そのときだった――空を裂くような一声が響く。
「……竜、の鳴き声?」
首を上げると、銀の雲を切り裂いて巨大な影が降りてきた。
雪煙が舞い、風が一気に吹き飛ばされる。
氷のような鱗、蒼く光る瞳。伝説でしか聞かない“辺境の竜”が、目の前に降り立ったのだ。
リリシアは息を呑む。その背に人影が見える。
黒い外套を纏い、長い剣を背に負った男が、竜の首筋から軽やかに飛び降りた。
彼はリリシアを見下ろし、無言のまま歩み寄る。
雪の上に落ちる足音が、ひどく静かに響いた。
「……生きているのか。」
その声は低く、荒れた風のようだった。
甘さの欠片もないが、なぜか心の奥に暖かさを残す。
「あなた……は?」
「辺境防備軍、竜騎士隊の隊長、カイル・ヴァーレンだ。」
名乗ると同時に、彼はリリシアの腕を取った。
冷たさに硬直していた指先を包み込み、短く息をつく。
「……冷えすぎだ。長くは持たん。」
彼女を抱き上げる動作は、ためらいがなかった。
竜が再び翼を広げる。
リリシアの視界がふっと遠のく。
最後に見たのは、彼の真っ直ぐな瞳と、竜の蒼い光――。
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