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第5話 壊れた夢の代わりに
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翌朝、山間の村を出発したとき、空は曇っていた。
厚い雲が太陽を覆い、冷たい風が頬を打つ。
まだ夜明けの気配が残る道を、私とヴィンセントは北へと向かって馬を進めていた。
「雲が重いな。」
彼が呟く。
「雪になるでしょうか。」
「このあたりなら、昼には降り始める。」
彼は手綱を引いて、馬の歩調をゆるめた。
「急がない方がいい。山を越える前に、嵐に出くわすと面倒だ。」
私たちは丘の上で馬を止め、少し休むことにした。
重なった雲の隙間からわずかに光が差し込み、遠くに王都の尖塔がうっすらと見えた。
あの場所へは、もう戻れないのだと思うと奇妙な静けさが胸を満たす。
「王都が見えるな。」
ヴィンセントが呟いた。
「……ええ。」
「未練は?」
「ありません。夢から覚めただけです。」
王太子との婚約も、華やかな夜会も、あのころの私は幸福だと信じていた。
けれど、あれは誰かが作った幻。もろく、冷たい硝子のような夢だった。
壊れた今になって、ようやく現実の色がわかる。
沈黙のなか、風だけが通り抜ける。
ヴィンセントはしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「俺にも、壊れた夢がある。」
彼の言葉に私は顔を上げた。
「……夢?」
「ああ。国を守るという名の幻想だ。俺は戦い、生き延び、そして捨てられた。」
「捨てられた?」
「かつて仕えた王に裏切られ、兵ごと見捨てられた。俺は生き残ったが、国も仲間ももうない。」
彼の瞳は曇った空よりも深い影を帯びていた。
戦場を歩いた男の静かな哀しみ――それは、私の失ったものとどこか似ていた。
「だから、おまえの気持ちはわかる。権力も立場も、人の忠誠も、すぐに裏切る。」
「……それでも、あなたは生きている。」
「皮肉なものだな。生きることだけは捨てられなかった。」
私は小さく笑った。
「同じですね。私も、生きることから逃げたくなかった。」
ヴィンセントがわずかに目を細める。
「君は強い。」
「強く見えるだけです。内側は、ずっと壊れたままです。」
「壊れたなら、作り直せばいい。」
「……作り直せますか?」
「一度壊した者にしか、次は作れない。」
その言葉は、鋭いのにやさしかった。
まるで凍った心にひとひらの火を落としたような感覚。
彼の視線をまっすぐに受け止めながら、私は深く息をついた。
「ありがとうございます。」
「礼を言うな。俺自身に言い聞かせている。」
***
昼過ぎ、風が次第に強まった。
細かな雪がちらつき、やがて視界を白く閉ざしていく。
嵐が迫っている。
「この先に山小屋がある。そこで夜を越そう。」
ヴィンセントの声に従い、私たちは雪をかき分けながら進んだ。
風は吹きすさび、頬が痛い。
それでも後ろを振り向くと、彼が私の肩を支えてくれていた。
「足を取られるな。もう少しだ。」
ようやく木造りの小屋が見えてきた。
扉を押して中へ入ると、冷気が衣服に染みついたまま体を震わせる。
ヴィンセントが火打石を打つ。乾燥した枝に火が移り、やがて暖炉に炎が広がった。
「着替えろ。濡れたままでは凍える。」
背を向けた彼に礼を言い、手早く服を替えた。
粗末な布の下着と毛布をまとい、火に手をかざすと、指先がじんわりと熱を取り戻した。
「……戦場でも、こんな夜がありましたか?」
「しょっちゅうだ。吹雪の音を聞きながら夜を越えた。だが、そのときは隣に誰もいなかった。」
「今は、いますね。」
静かな沈黙が生まれた。
彼は火を見つめたまま、何も答えなかった。けれどその沈黙は不快ではなく、穏やかだった。
「いつか……」私は火の粉を見つめながら口を開いた。
「いつかこの吹雪が止んだら、雪解けの中で新しい花を探したいです。」
「花?」
「はい。今は心の中が冬なので、春が来たら、自分で花を咲かせられるように。」
ヴィンセントは少しだけ笑った。
「君ならできる。雪の下で芽を出す花は、強い。」
「そのためには、もう少し時間が必要です。」
「いくらでも待てばいい。」
その言葉が心に沁みた。
長い間、誰かに“待てばいい”と言われたことがなかった。
早く答えを出せと迫られ、泣く暇も与えられずに生きてきた。
今、初めて息が楽になった気がした。
外では雪が激しくなり、風が扉を叩く音が響いた。
けれど暖炉の火が部屋を明るく照らし、吹雪の音を遠ざけている。
ヴィンセントが背中を壁に預けて言った。
「アリア。外で生きるには、名前を変えた方がいい。」
「名前を……?」
「侯爵家の名を持つ者を探している人間がまだいる。新しい名を使えば、見つからない。」
一瞬、ためらった。
でもすぐにうなずいた。
「そうですね。私にはもう“レイフォード”の名を名乗る資格も意味もありません。」
「なら、何がいい。」
「――“リア”。旅人らしい名前でしょう?」
「悪くない。」
彼の口元がわずかに上がった。暖かな笑みだった。
「あなたは?」
「俺か。名を変えても過去は消えん。だが……そうだな、ヴィンでも呼べばいい。」
「ヴィン。」
その名を口にした途端、距離が一気に縮まった気がした。
彼の表情がやわらかくなり、火の光に影が滲む。
「これで、俺たちはただの旅人だ。」
「ええ。壊れた夢を捨てた、旅人同士ですね。」
「その代わりに、新しい夢を持て。」
「――どんな夢を?」
「まだ知らなくていい。見つけるまで、歩けばいい。」
私はゆっくりと頷いた。
壊れた夢の代わりに、今、彼と並んで歩ける未来がある。
それで十分だと思えた。
火の音が規則的に響く中、眠気が少しずつ訪れる。
外の吹雪はまだ止みそうになかったが、不思議と怖くはなかった。
私は毛布を引き寄せ、目を閉じながら小さく呟いた。
「今度は、もう誰にも奪われない夢を見ます。」
その声を聞いていたのか、ヴィンが低く答えた。
「奪わせない。約束だ。」
その約束が、嵐の夜を照らす小さな灯になった。
暗闇の中、火の粉が柔らかな光を散らす。
その温もりの中で、私は久しぶりに安らかな眠りについた。
(続く)
厚い雲が太陽を覆い、冷たい風が頬を打つ。
まだ夜明けの気配が残る道を、私とヴィンセントは北へと向かって馬を進めていた。
「雲が重いな。」
彼が呟く。
「雪になるでしょうか。」
「このあたりなら、昼には降り始める。」
彼は手綱を引いて、馬の歩調をゆるめた。
「急がない方がいい。山を越える前に、嵐に出くわすと面倒だ。」
私たちは丘の上で馬を止め、少し休むことにした。
重なった雲の隙間からわずかに光が差し込み、遠くに王都の尖塔がうっすらと見えた。
あの場所へは、もう戻れないのだと思うと奇妙な静けさが胸を満たす。
「王都が見えるな。」
ヴィンセントが呟いた。
「……ええ。」
「未練は?」
「ありません。夢から覚めただけです。」
王太子との婚約も、華やかな夜会も、あのころの私は幸福だと信じていた。
けれど、あれは誰かが作った幻。もろく、冷たい硝子のような夢だった。
壊れた今になって、ようやく現実の色がわかる。
沈黙のなか、風だけが通り抜ける。
ヴィンセントはしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「俺にも、壊れた夢がある。」
彼の言葉に私は顔を上げた。
「……夢?」
「ああ。国を守るという名の幻想だ。俺は戦い、生き延び、そして捨てられた。」
「捨てられた?」
「かつて仕えた王に裏切られ、兵ごと見捨てられた。俺は生き残ったが、国も仲間ももうない。」
彼の瞳は曇った空よりも深い影を帯びていた。
戦場を歩いた男の静かな哀しみ――それは、私の失ったものとどこか似ていた。
「だから、おまえの気持ちはわかる。権力も立場も、人の忠誠も、すぐに裏切る。」
「……それでも、あなたは生きている。」
「皮肉なものだな。生きることだけは捨てられなかった。」
私は小さく笑った。
「同じですね。私も、生きることから逃げたくなかった。」
ヴィンセントがわずかに目を細める。
「君は強い。」
「強く見えるだけです。内側は、ずっと壊れたままです。」
「壊れたなら、作り直せばいい。」
「……作り直せますか?」
「一度壊した者にしか、次は作れない。」
その言葉は、鋭いのにやさしかった。
まるで凍った心にひとひらの火を落としたような感覚。
彼の視線をまっすぐに受け止めながら、私は深く息をついた。
「ありがとうございます。」
「礼を言うな。俺自身に言い聞かせている。」
***
昼過ぎ、風が次第に強まった。
細かな雪がちらつき、やがて視界を白く閉ざしていく。
嵐が迫っている。
「この先に山小屋がある。そこで夜を越そう。」
ヴィンセントの声に従い、私たちは雪をかき分けながら進んだ。
風は吹きすさび、頬が痛い。
それでも後ろを振り向くと、彼が私の肩を支えてくれていた。
「足を取られるな。もう少しだ。」
ようやく木造りの小屋が見えてきた。
扉を押して中へ入ると、冷気が衣服に染みついたまま体を震わせる。
ヴィンセントが火打石を打つ。乾燥した枝に火が移り、やがて暖炉に炎が広がった。
「着替えろ。濡れたままでは凍える。」
背を向けた彼に礼を言い、手早く服を替えた。
粗末な布の下着と毛布をまとい、火に手をかざすと、指先がじんわりと熱を取り戻した。
「……戦場でも、こんな夜がありましたか?」
「しょっちゅうだ。吹雪の音を聞きながら夜を越えた。だが、そのときは隣に誰もいなかった。」
「今は、いますね。」
静かな沈黙が生まれた。
彼は火を見つめたまま、何も答えなかった。けれどその沈黙は不快ではなく、穏やかだった。
「いつか……」私は火の粉を見つめながら口を開いた。
「いつかこの吹雪が止んだら、雪解けの中で新しい花を探したいです。」
「花?」
「はい。今は心の中が冬なので、春が来たら、自分で花を咲かせられるように。」
ヴィンセントは少しだけ笑った。
「君ならできる。雪の下で芽を出す花は、強い。」
「そのためには、もう少し時間が必要です。」
「いくらでも待てばいい。」
その言葉が心に沁みた。
長い間、誰かに“待てばいい”と言われたことがなかった。
早く答えを出せと迫られ、泣く暇も与えられずに生きてきた。
今、初めて息が楽になった気がした。
外では雪が激しくなり、風が扉を叩く音が響いた。
けれど暖炉の火が部屋を明るく照らし、吹雪の音を遠ざけている。
ヴィンセントが背中を壁に預けて言った。
「アリア。外で生きるには、名前を変えた方がいい。」
「名前を……?」
「侯爵家の名を持つ者を探している人間がまだいる。新しい名を使えば、見つからない。」
一瞬、ためらった。
でもすぐにうなずいた。
「そうですね。私にはもう“レイフォード”の名を名乗る資格も意味もありません。」
「なら、何がいい。」
「――“リア”。旅人らしい名前でしょう?」
「悪くない。」
彼の口元がわずかに上がった。暖かな笑みだった。
「あなたは?」
「俺か。名を変えても過去は消えん。だが……そうだな、ヴィンでも呼べばいい。」
「ヴィン。」
その名を口にした途端、距離が一気に縮まった気がした。
彼の表情がやわらかくなり、火の光に影が滲む。
「これで、俺たちはただの旅人だ。」
「ええ。壊れた夢を捨てた、旅人同士ですね。」
「その代わりに、新しい夢を持て。」
「――どんな夢を?」
「まだ知らなくていい。見つけるまで、歩けばいい。」
私はゆっくりと頷いた。
壊れた夢の代わりに、今、彼と並んで歩ける未来がある。
それで十分だと思えた。
火の音が規則的に響く中、眠気が少しずつ訪れる。
外の吹雪はまだ止みそうになかったが、不思議と怖くはなかった。
私は毛布を引き寄せ、目を閉じながら小さく呟いた。
「今度は、もう誰にも奪われない夢を見ます。」
その声を聞いていたのか、ヴィンが低く答えた。
「奪わせない。約束だ。」
その約束が、嵐の夜を照らす小さな灯になった。
暗闇の中、火の粉が柔らかな光を散らす。
その温もりの中で、私は久しぶりに安らかな眠りについた。
(続く)
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