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第4話 誓いの夜明け
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空が淡く染まり始めたころ、私は荷袋を肩にかけて馬に跨がった。
夜露の冷たさが、眠気を追い払う。
ヴィンセントはすでに支度を終え、黒衣の上に旅装束を重ねていた。
「出るぞ。」
短い言葉にうなずき、馬の腹を軽く蹴った。
森の小道に朝の光が差し込み、枝葉の間を黄金色の筋が走る。鳥の声が響き、足元では霜がきらめいた。
こんな美しい景色を、私は幼いころから見ていたはずなのに、今日ほど鮮やかに感じたことはなかった。
恐怖も不安も消えはしないけれど、確かにこの朝は自由の匂いがした。
「国境まではあと二日ほどだ。」
ヴィンセントの低い声が風に溶ける。
「追手は……」
「まだ動いてはいないだろう。だが、油断はするな。」
「わかっています。」
彼の横顔は朝日に照らされ、薄く金の光を帯びている。
その表情には焦りも怒りもない。すべてを見通したような静けさがあった。
私はほんの少しだけ、その落ち着きに救われる。
「君はこれからどうするつもりだ。」
「この国を出たら……どこかで働きます。裁縫も多少はできますし。」
「働くか。貴族だった娘が?」
「ええ。人生をやり直すなら、それぐらいしないと。」
笑って言ったつもりだったが、思ったより声が震えた。
ヴィンセントは視線を前に向けたまま、ぽつりと言った。
「なら、その誓いを夜明けのうちに立てろ。」
「誓い、ですか?」
「ああ。夜と朝の境で立てた誓いは、裏切られない。」
意味がわからなかったけれど、その声音には何かを信じさせる力があった。
私は馬を止め、曇った息を吐いた。
東の空に太陽が顔を出し、霧の向こうが一瞬、光で満ちる。
「私は……もう誰かに依存しない。泣かないし、誰の言葉にも惑わされない。」
自分の声が冷たい空気に吸い込まれていく。
「私自身の手で、生きていきます。」
ヴィンセントはその言葉を黙って聞いていた。
しばらく沈黙が続いたあと、彼はゆっくりと片膝を地についた。
「ならば、俺もひとつ。――必ず、君を無事に国境まで送り届ける。それをこの男の誓いとする。」
その瞬間、朝の光が二人を包んだ。
凍える風の中で、私は彼の真っ直ぐな瞳に見入った。
言葉は少ないけれど、誰よりも誠実な約束に聞こえた。
***
昼を過ぎ、私たちは険しい崖道を登っていた。
道は狭く、馬が通るにはやっとの幅。
風が強く、下を見れば霧に閉ざされた深い谷が続いている。
「気を抜くな。ここを越えれば峠下の村だ。」
「……落ちそうで怖いです。」
「怖いと思っているうちは落ちない。」
淡々とした声。だけど、妙に説得力があった。
途中、岩陰からウサギが跳ね出た。
私が驚いて手綱を緩めると、馬がぐらりと体勢を崩した。
落ちる――そう思った瞬間、強い腕が私の腰を後ろから引き寄せた。
馬が地面を掻き、どうにか体勢を戻す。
「無茶をするな!」
ヴィンセントの声が鋭く響いた。
「すみません……でも、ウサギが……」
「命よりウサギが大事か。」
「ちがっ……いえ、すみません。」
彼は短く息を吐き、それから苦笑した。
「すまん、怒鳴った。」
「いいえ。助けていただきましたし。」
「だが、次に危険があれば、ためらわず呼べ。俺は近くにいる。」
その言葉が、ぐっと胸に響いた。
彼は、ただの護衛ではない。
殿下のように、表向きの優しさを装ってもいない。
けれど、私の命を本気で守ろうとしてくれている。
その事実が、何よりも温かかった。
***
峠を越えた先に、小さな村があった。
木柵と石垣に囲まれた小さな集落。村人たちは皆、穏やかな顔で私たちを見る。
ヴィンセントは馬を預け、村長らしき初老の男と話をつけてきた。
「一晩泊めてもらえるそうだ。」
「ありがとうございます。」
「礼は村長に言え。俺は交渉しただけだ。」
小さな家に通されると、炉の火がぱちぱちと音を立てた。
老女が温かなスープを差し出してくれる。具沢山の野菜と豆の香りがたまらない。
「どうぞ、旅の方。凍えたでしょう。」
「ありがとうございます。」
匙を口に運ぶと、涙が出そうなくらい優しい味がした。
「どうした?」ヴィンセントが問う。
「……懐かしくて。母がよく作ってくれたんです。」
「母親は?」
「もうこの世にはいません。」
「そうか。」
彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ穏やかに私を見ていた。
その夜、寝台の上で目を閉じても、なかなか眠れなかった。
外では風の音が低く響き、どこかで犬が遠吠えしている。
眠れぬまま、私は小さく呟いた。
「どうして、あの人に出会ったんだろう……」
運命という言葉は信じていなかった。
けれど、こうして息をしていられるのは、間違いなく彼のおかげだ。
もしかしたら、神様はまだ私に罰ではなく試練を与えているのかもしれない。
捨てられた女ではなく、新しく生まれ直すための時間を。
窓から、朝日の気配がわずかに差し込む。
雪を溶かすような淡い金色の光。
あの時の誓いが、もう一度蘇る。
私は静かに拳を握った。
もう誰にも怯えない。
もう誰の言葉にも縛られない。
自分の足で、彼と共に進んでいく。
夜が明ける。
新しい一日が、私たちの前に静かに広がっていた。
(続く)
夜露の冷たさが、眠気を追い払う。
ヴィンセントはすでに支度を終え、黒衣の上に旅装束を重ねていた。
「出るぞ。」
短い言葉にうなずき、馬の腹を軽く蹴った。
森の小道に朝の光が差し込み、枝葉の間を黄金色の筋が走る。鳥の声が響き、足元では霜がきらめいた。
こんな美しい景色を、私は幼いころから見ていたはずなのに、今日ほど鮮やかに感じたことはなかった。
恐怖も不安も消えはしないけれど、確かにこの朝は自由の匂いがした。
「国境まではあと二日ほどだ。」
ヴィンセントの低い声が風に溶ける。
「追手は……」
「まだ動いてはいないだろう。だが、油断はするな。」
「わかっています。」
彼の横顔は朝日に照らされ、薄く金の光を帯びている。
その表情には焦りも怒りもない。すべてを見通したような静けさがあった。
私はほんの少しだけ、その落ち着きに救われる。
「君はこれからどうするつもりだ。」
「この国を出たら……どこかで働きます。裁縫も多少はできますし。」
「働くか。貴族だった娘が?」
「ええ。人生をやり直すなら、それぐらいしないと。」
笑って言ったつもりだったが、思ったより声が震えた。
ヴィンセントは視線を前に向けたまま、ぽつりと言った。
「なら、その誓いを夜明けのうちに立てろ。」
「誓い、ですか?」
「ああ。夜と朝の境で立てた誓いは、裏切られない。」
意味がわからなかったけれど、その声音には何かを信じさせる力があった。
私は馬を止め、曇った息を吐いた。
東の空に太陽が顔を出し、霧の向こうが一瞬、光で満ちる。
「私は……もう誰かに依存しない。泣かないし、誰の言葉にも惑わされない。」
自分の声が冷たい空気に吸い込まれていく。
「私自身の手で、生きていきます。」
ヴィンセントはその言葉を黙って聞いていた。
しばらく沈黙が続いたあと、彼はゆっくりと片膝を地についた。
「ならば、俺もひとつ。――必ず、君を無事に国境まで送り届ける。それをこの男の誓いとする。」
その瞬間、朝の光が二人を包んだ。
凍える風の中で、私は彼の真っ直ぐな瞳に見入った。
言葉は少ないけれど、誰よりも誠実な約束に聞こえた。
***
昼を過ぎ、私たちは険しい崖道を登っていた。
道は狭く、馬が通るにはやっとの幅。
風が強く、下を見れば霧に閉ざされた深い谷が続いている。
「気を抜くな。ここを越えれば峠下の村だ。」
「……落ちそうで怖いです。」
「怖いと思っているうちは落ちない。」
淡々とした声。だけど、妙に説得力があった。
途中、岩陰からウサギが跳ね出た。
私が驚いて手綱を緩めると、馬がぐらりと体勢を崩した。
落ちる――そう思った瞬間、強い腕が私の腰を後ろから引き寄せた。
馬が地面を掻き、どうにか体勢を戻す。
「無茶をするな!」
ヴィンセントの声が鋭く響いた。
「すみません……でも、ウサギが……」
「命よりウサギが大事か。」
「ちがっ……いえ、すみません。」
彼は短く息を吐き、それから苦笑した。
「すまん、怒鳴った。」
「いいえ。助けていただきましたし。」
「だが、次に危険があれば、ためらわず呼べ。俺は近くにいる。」
その言葉が、ぐっと胸に響いた。
彼は、ただの護衛ではない。
殿下のように、表向きの優しさを装ってもいない。
けれど、私の命を本気で守ろうとしてくれている。
その事実が、何よりも温かかった。
***
峠を越えた先に、小さな村があった。
木柵と石垣に囲まれた小さな集落。村人たちは皆、穏やかな顔で私たちを見る。
ヴィンセントは馬を預け、村長らしき初老の男と話をつけてきた。
「一晩泊めてもらえるそうだ。」
「ありがとうございます。」
「礼は村長に言え。俺は交渉しただけだ。」
小さな家に通されると、炉の火がぱちぱちと音を立てた。
老女が温かなスープを差し出してくれる。具沢山の野菜と豆の香りがたまらない。
「どうぞ、旅の方。凍えたでしょう。」
「ありがとうございます。」
匙を口に運ぶと、涙が出そうなくらい優しい味がした。
「どうした?」ヴィンセントが問う。
「……懐かしくて。母がよく作ってくれたんです。」
「母親は?」
「もうこの世にはいません。」
「そうか。」
彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ穏やかに私を見ていた。
その夜、寝台の上で目を閉じても、なかなか眠れなかった。
外では風の音が低く響き、どこかで犬が遠吠えしている。
眠れぬまま、私は小さく呟いた。
「どうして、あの人に出会ったんだろう……」
運命という言葉は信じていなかった。
けれど、こうして息をしていられるのは、間違いなく彼のおかげだ。
もしかしたら、神様はまだ私に罰ではなく試練を与えているのかもしれない。
捨てられた女ではなく、新しく生まれ直すための時間を。
窓から、朝日の気配がわずかに差し込む。
雪を溶かすような淡い金色の光。
あの時の誓いが、もう一度蘇る。
私は静かに拳を握った。
もう誰にも怯えない。
もう誰の言葉にも縛られない。
自分の足で、彼と共に進んでいく。
夜が明ける。
新しい一日が、私たちの前に静かに広がっていた。
(続く)
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