婚約破棄された令嬢はもう戻らない〜涙を捨てた私を今さら追うなんて遅すぎます殿下〜

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第3話 捨てられた令嬢と黒衣の将軍

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夜明け前の森は、息を潜めたように静かだった。  
わずかに霧が漂い、木立の向こうから冷たい風が流れ込んでくる。  
馬の吐息が白く浮かび上がり、その背に手を添えたヴィンセントが短く合図をした。  
「行くぞ。」  

私はうなずき、裾を結い上げた青灰色の古着の裾を押さえた。  
昨日、彼が用意してくれたものだ。もとは男物らしいが、胸元を詰めたそれは意外と動きやすい。  
“侯爵令嬢”という重い鎖を捨てた新しい服だった。  

森の奥を抜けるまで、誰も言葉を発しなかった。  
木々が朝霧を受けて淡く光る。  
空はまだ白む途中で、夜と朝の境目のような曖昧な色をしていた。  
私は馬上の背で何度も息を整えた。鼓動がやけに大きく聞こえる。  

王都を離れる実感が、少しずつ現実になっていく。  
もう戻る場所も、迎える人もいない。  
ヴィンセントの背中を見つめながら、私は心のどこかで恐怖よりも安堵を感じていた。  

「寒くないか。」  
先を行く彼が振り向かずに言った。  
「大丈夫です。」  
「顔色が悪い。昨夜眠れなかったな。」  
「……少しだけ。」  
「泣いていたろう。」  
「……見ていたんですか。」  
「泣くなと言っても無理だ。ただ、人前で涙を見せるなと言ったのは正しい。」  

短く呼吸が詰まった。  
彼の声は淡々としていたが、どこか優しい。  
叱責でもなく慰めでもなく、ただ現実を見据えた言葉。  
その中に、不思議な安心感があった。  

***

森を抜けると、小さな村が広がっていた。  
川沿いに煙が立ち上り、石造りの家々からはパンを焼く香りが漂う。  
ヴィンセントは馬を降り、手綱を引いて村の裏道を進んだ。  

「ここで少し休む。国境まではまだ三日。食料を補給しなきゃならん。」  
「……こんなところに商人は?」  
「顔なじみがいる。信用できる奴だ。」  

村の奥にある小さな納屋に入ると、筋骨隆々とした男が出迎えた。  
「おや、将軍さんじゃねえか。生きてたのか!」  
「死ぬ暇もなかった。」  
ヴィンセントが淡く笑う。彼のそんな笑顔を見るのは初めてだった。  

「そちらの嬢ちゃんは?」男が私を見る。  
「ただの旅人だ。」  
「……なるほどな。」  
男は何も深くは尋ねなかった。戦のあとを生きる者たちには、詮索しないという知恵があるのだろう。  

パンと干し肉を受け取ると、ヴィンセントは代金を金貨で支払った。  
男はそれを見て眉を寄せた。  
「大丈夫か? この国の金、今は使いづらいって噂だぜ。」  
「しばらくは持つさ。」  
短い会話のあと、私たちは再び村を離れた。  

***

午後、川辺で小休止を取る。  
柔らかな芝生の上に腰を下ろし、靴を脱いだ。  
川の水に手を浸すと、刺すように冷たい。けれどこの冷たさが妙に心地いい。  

「……王都では泣かなかったと言っていたな。」  
不意に彼が言った。  
「はい。」  
「あの場で泣いていれば、殿下は少しは罪悪感を持ったかもしれない。」  
「そうかもしれません。でも、そんなもの要りません。哀れまれるくらいなら、嫌われた方がましです。」  
「なるほどな。」彼は草の上に身を横たえ、空を見上げた。「貴族というのは、演じるのがうまい。」  
「私も上手に演じたつもりでした。でも、最後だけ失敗したみたいです。」  
「その顔で泣かずに笑ったなら、十分だ。」  

私は彼を見た。  
ヴィンセントはまぶしげに片腕を額にかざしていた。  
黒衣に刃のような横顔。それでいて目を細めると、どこか穏やかさがある。  
戦場に生きた男。けれどいまは、静かな風の中に溶け込んでいた。  

「あなたは、なぜそこまでして私を助けてくださるのですか?」  
「さあな。理由なんて後からつけるものだ。」  
「……ずるい答えですね。」  
「お互い様だろう。」  

言葉の意味を問おうとして、やめた。  
彼の目が、どこか遠くを見ていたから。  
その瞳に映る景色の中に、私はまだいない。  
けれど、ほんの少しだけ、覗きたいと思った。  

***

夜。  
焚き火を囲み、私たちは食事を取った。簡単なスープと焼いた肉。香ばしい匂いが風に消える。  
ふと視線を感じて顔を上げると、ヴィンセントがこちらを見ていた。  

「何か?」  
「いや……君の髪、夜の火で赤く見えるな。」  
「そうでしょうか? 自分では気づきませんが。」  
「戦場で見た光に似ている。」  
「戦場の光?」  
「燃え上がる旗の色。誰もが恐れ、誰もが望んだ。勝利を意味する色だった。」  

その言葉に、胸の奥が熱くなった。  
私は焼けた薪を見つめたまま、静かに問う。  
「あなたは、戦を憎んでいるんですか?」  
「憎んでいる。けれど、それしか知らなかった。」  
「じゃあ……これからは?」  
「知らないものを、覚えていくしかない。例えば――穏やかな日々とか。」  

彼は少しだけ笑った。  
その笑みに、私は息を呑む。たったそれだけの表情が、どうしてこんなにも胸を締めつけるのだろう。  
“この人はきっと、誰かを守ろうとして傷だらけになった人なのだ”  
そう感じた瞬間、何かが心の奥で音を立てて崩れた気がした。  

私は焚き火の影で、そっと手を合わせた。  
もう誰かにすがる祈りではない。  
自分を生かしてくれたこの旅に、そしてこの奇妙な縁に――感謝の祈りを。  

「明日は峠を越える。」  
「ええ。」  
「途中で王国の哨戒兵に出くわすかもしれない。見つかれば面倒だ。髪を隠せ。」  
私は差し出された布のフードをかぶった。  
火の光が徐々に小さくなり、夜が深く沈む。  

もうこの先、何が待っているのかわからない。  
けれど、恐れはなかった。  
追われる令嬢ではなく、生きるために旅をするひとりの女として、私は初めて息をしていた。  

焚き火がぱちりと音を立てる。  
ヴィンセントが低く言った。  
「アリア、君はもう“捨てられた令嬢”じゃない。」  
「……そうなれたらいいですね。」  
「もうなってる。そういう目をしている。」  

夜風に髪が揺れた。  
私は微笑み返すと、少しだけ瞼を閉じた。  
火の静かな音と、彼の低い息遣いを聞きながら――心の中で、確かに新しい鼓動を感じていた。  

(続く)
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