婚約破棄された令嬢はもう戻らない〜涙を捨てた私を今さら追うなんて遅すぎます殿下〜

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第2話 涙は人前で落とさない

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目を覚ますと、窓の外は灰色の夜明けだった。  
まだ陽は昇っていない。けれど闇の境目に、ぼんやりした光が差し込み始めている。  
毛布の感触が柔らかくて、思わず胸の奥が痛んだ。  
暖かいものに触れると、どうしてこんなにも涙が出そうになるのだろう。  

起き上がると、木の床が少し軋んだ。  
隣の部屋からは、かすかな物音がする。  
扉のすき間からのぞくと、ヴィンセントが暖炉の火を調整していた。  
夜明け前の冷気の中、黒髪がほのかに光を反射している。その姿に、威圧感よりも静かな頼もしさを感じた。  

「起きたか。」  
彼は焚き火の鉄棒を戻しながら言った。  
「はい。……お世話になりました。」  
「礼を言われるほどのことはしていない。生きて帰っただけで上等だ。」  

彼の言葉は無骨だが、そこには温かい響きがある。  
私は慣れない居心地の良さに戸惑いながら、ドレスの裾を整えた。  
昨夜、馬車事故で裂けた袖口。真珠の飾りがひとつ欠けている。  
このドレスも、今日が最後の出番かもしれない。  

「朝食を作った。食べられそうか?」  
「いただきます。」  
丸太のテーブルに置かれていたのは素朴なスープと黒パン。  
口に含むと、ほんのり塩気が広がる。驚くほど美味しかった。  

「……お上手なんですね。」  
「軍では、食わねば死ぬ。だから覚えただけだ。」  
「戦場でも、こうやって火を囲んでいたんですか?」  
「そうだな。仲間と語る夜もあった。誰も生き残らなかったが。」  

静寂が、焔の音と溶け合った。  
彼はさらりと言ったが、その言葉の奥にどれほどの重みがあるか、想像するだけで胸が痛んだ。  

「君は、これからどうする?」  
「……考えなければいけませんね。」  
スプーンを置いて、私は少し俯いた。  

レイフォード家に戻る?  
否。あの屋敷には、もう私の居場所はない。王都では“婚約破棄された哀れな娘”として笑いものになるのが関の山だ。  
「どこか、誰も私を知らない場所で……一からやり直したいです。」  
「一から、か。」  
ヴィンセントの瞳が微かに和らぐ。その表情を見て、私は思わず問い返した。  
「どうかしましたか?」  
「いや、俺も同じことを考えていた。」  
彼の声には、戦から遠く逃れてきた男の静かな諦めがにじんでいた。  

***

その日から、しばらく私は彼の屋敷に身を寄せることになった。  
といっても豪奢な貴族の屋敷ではない。  
木と石だけで組まれた簡素な建物。けれど、何もかもが清潔で整っていた。  
少し動けば埃が舞う私の実家とは大違いだ。使用人がいても、心が荒れれば家も荒れる。  
ヴィンセントの空間は、まるで彼の心を映すように確かな落ち着きを持っていた。  

「手伝わせてください。」  
そう申し出たとき、彼は露骨に困った顔をした。  
「貴族のお嬢様に薪割りをさせるのは気が引ける。」  
「貴族ではなくなったと言いました。」  
「……君は負けず嫌いだな。」  
「王太子殿下にも、よくそう言われました。」  
その名を口にした瞬間、空気がぴんと張り詰めた。  

ヴィンセントがこちらを見た。炎のような黒い眼差し。  
「その“殿下”の話、聞いてもいいか?」  
私はうなずいた。どうせ、いつかは話さなければならない。  

「私はアラン殿下の婚約者でした。けれど、昨日、公衆の前で婚約を破棄されました。理由は彼のお気に入りの女性を苛めたという作り話です。証拠もなく、誰も私を信じませんでした。」  
「なるほど。ざらにある話だ。」  
「ええ。ただ、私にとっては人生を終わらせるほどの話でもありました。」  
「終わらせなくて正解だ。」  
彼は短く言い、再び手元のナイフで薪を割り始めた。  
一定のリズムで木が割られるたび、私の心の澱が少しずつ砕かれていく気がした。  

「君は泣かないんだな。」  
「泣きましたよ。……何度も。でも、人前では泣かないって決めたんです。」  
「強い女だ。」  
「強くないと、生き残れませんもの。」  
二人の間に、乾いた木の音と風の音だけが響いた。  

***

夕暮れ。森の影が濃くなるころ、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。  
ヴィンセントが身を固くする。  
「下がれ。」  
声が低く変わった。  
扉の外に立ったのは、二人の騎士。王国軍の紋章を肩に掲げている。  

「失礼します。こちらに侯爵令嬢アリア・レイフォード様がいると伺いました。殿下の命により、連行を命じます。」  
心臓が強く跳ねた。  
逃げられない。どうしてこんなに早く見つかったの?  
答えは考えるまでもない。王都の人間は皆、殿下の足元に縋って生きている。反逆者を匿う男とその女――その構図ができあがれば、見せしめとして吊し上げられるのは明らかだった。  

「彼女はここにはいない。」ヴィンセントの声は鋭かった。  
「しかし!」  
「誤情報だ。森の奥には多くの旅人が迷い込む。侯爵令嬢の名を騙る女なら珍しくない。」  
「……承知いたしました。ですが、もし彼女を庇っているなら、あなたが危うくなりますよ。王の命令です。」  

騎士たちは不満げに顔を見合わせ、それでも退いた。  
木の軒が揺れ、遠ざかる蹄の音だけが残る。  

私は息を詰めたまま、隠れていた納屋の影から出た。  
「……助けていただいて、ありがとうございます。」  
「恩を感じるな。俺が気に入らないだけだ。」  
「気に入らない?」  
「権力を笠に人を追い詰める奴らがな。」  

彼は薪を投げ捨て、深くため息をついた。  
「君、このままでは危険だ。王都を出る準備をしよう。北の国境までなら、俺が案内する。」  
「でも、それでは……あなたまで巻き込んでしまう。」  
「構わない。俺はもう、この国に未来を見ていない。」  

その言葉に、胸が熱くなった。  
私はもう誰も信じられないと思っていたのに、この人だけは違う。  
今この瞬間だけ、本当の味方がここにいると思える。  

「わかりました。」  
短く答えると、彼はわずかに笑った。  
「明日の夜明けに出る。君は休め。泣く暇も、後悔する暇もなくなる。」  
「ええ、泣きません。」  
もう涙の意味を知っている。無力な祈りではなく、強さに変えていくためのものだ。  

ヴィンセントの屋敷に再び夜が訪れる。  
外では雪のような白い霧が漂い、遠くの森で梟が鳴いた。  
暖炉の火が静かに揺れている。  
私はその光を見つめながら、誓った。  

もう二度と、人前で涙は見せない。  
次に泣くとしたら、それは誰にも見えない夜の中で――自分のためだけに。  

(続く)
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