Rain man

朋藤チルヲ

文字の大きさ
2 / 49

storm

しおりを挟む
 が始まるのは、いつでも唐突だ。
 前触れがなくて、まるで直下型の地震のようだと思う。

 真夏の夕立が来る直前、じわじわと空に広がる黒い雲のように、何か巨大な飛行物体が空を覆い尽くしたのかと、どきっとして見上げてしまうほど、わかりやすければいい。怪しいと感じたら、来るぞとわかったら、小柄な私はきっとすばしっこく身を隠せるのに。から少しでも遠くへ逃げられるのに。

「このクソガキがあ!」

 アルミ製の灰皿が投げ飛ばされて、黒くて苦くてベタベタした汁と吸い殻が、色褪せたカーペットの上に散らばる。バッファローのように荒々しい足がテーブルを蹴飛ばすと、雷鳴のような音を立てて引っくり返った。

 今回は夕飯を食べ終えた直後だった。
 理由はまったくわからない。

 もう何度も経験していることなのに、そのたび私はひるんでしまう。恐怖で身体がコンクリートのように固まってしまう。

 それでも、私の中の防衛本能がなんとか私を奮い立たせ、震える足で立ち上がった。

 逃げろ、逃げろ。耳のすぐ近くで、誰かの声と自分の心臓の音が交互に聞こえる。
 でも、学習能力のない私はうっかり背中を向けてしまい、後ろから髪を鷲掴みにされる。ブチブチと根元から髪を引っこ抜かれる音が、頭の中にダイレクトに響いた。あまりの痛みに涙がこぼれる。

「――――痛い! お願い、やめてパパ!」

 だけど、パパは手を緩めてくれるどころか、もう片方の手も伸ばしてきた。私の細い腕を掴んで身体を吊し上げるから、パパの手の爪が鋭い猛禽類の爪みたいに肌に食い込んだ。

 かかとが浮かび上がる。脇腹の皮膚が引きちぎれそうなくらい伸び切る。

 天井に向かって広げた手のひらがビリビリと痺れてきた頃、パパはようやく髪の毛から手を放し、そうかと思うと、その手をグーにして、わたしの腰の軟弱なところを思いきり殴ってきた。

 目の前が白くなり、息が止まる。
 すぐに酸っぱい胃液が喉をせり上がってきて、吐いたらもっと殴られると、ぐっと堪えた。

「いつも言ってんだろうが! 舐めた目で見るんじゃねぇよ! 俺はな、お前のその目がでぇきれぇなんだよ!」

 舐めた目で見た覚えなんてない。でも、反抗しても無駄だ。反抗したら、死ぬほど殴られるだけ。一発で死んでしまえるならいいけど、怒り出したパパはそんなふうに私を楽にしない。ひたすら苦しむ時間が待っている。

 パパがようやく解放してくれたので、私は激しく咳き込みながらカーペットに倒れ伏した。その頭を汚い靴下で踏みつけられる。
 頬をくっつけたすぐそばに、つんと苦々しい黒いシミが出来ていた。私の中に、それと同じ色をした醜いものが、音もなく広がっていくのを感じた。

「またあんな目で見やがったら、次は容赦しねぇからな」

 髪の毛にニコチン混じりの唾を吐きかけて、パパは部屋を出て行った。




*****

 浴槽にお湯を溜める。
 白く柔らかい湯気を立てながら、蛇口からお湯がまっすぐに落ちていくのを、じっと見下ろしていた。
 天使の滝。そんな名前の滝があったような気がする。どこにあって、どんな流れなのかまるで知らないけれど、きっとその名前の通りに美しいんだろう。

 パパはたぶんお酒を飲みに行ったのだ。そうなると、すぐには帰ってこない。早くても真夜中だ。だから、今のうちにカーペットをきれいにしておく。汚したのはパパだけど、汚れたままなのを見つけたら、怒られるのは私だから。それが終わったら、温かいお風呂に入ろう。

 玄関の鍵はかけない。
 パパは家を出る時、いつも合鍵を持たないし、戻ってきて閉まっているとわかったら、間違いなくカンカンだ。冗談じゃなく、今度こそ殺されてしまう。

 私が殺されたら、大家さんくらいは悲しんでくれるだろうか。
 スーパーから帰ったら、その足で、何かしらお土産を届けてくれる大家さん。私と変わらない年頃の孫がいるという大家さんくらいは、不憫な子だったよと、泣いてくれるだろうか。

 私はふと素敵なことを思いついて、台所へ行った。
 包丁とまな板を出して、戸棚の中に裸のまま転がしておいたリンゴをその上に置いて、四等分にする。お風呂場に戻ると、それを浴槽の中にはなった。

 思った通り、とても爽やかでいい香りが立ちのぼった。

 ぽいぽいっと服を脱いで洗濯機に放り込み、スイッチを入れる。
 古い洗濯機がごうんごうんと不穏な音を鳴らす中、赤い皮つきのリンゴがぷかぷかと浮かぶお湯に浸かると、少し楽しい気分になった。

 フルーツは身体を冷やすらしいけど、これはどうなのかなって思った。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】 積み上がった伏線の回収目前!! 夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。 長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。 待っていたのは、凍てつく絶望。 けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。 「夫は愛人と生きればいい。  今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」 それでも私は誓う―― 「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」 歪で、完全な幸福――それとも、破滅。 “石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。

処理中です...