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promise
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遠慮しながらも朝日が先に、そのあとで私がシャワーを浴びた。そもそも家主は朝日なのだから、遠慮するのがおかしな話だ。
ドライヤーで髪を乾かす時になると、朝日が私の髪を乾かしたいと言い出した。照れ臭くて嫌だって言ったのに、朝日は目を輝かせてちっとも引かない。
渋々といった感じでも言う通りにしてあげたのは、朝日も私と同じだと思ったからだ。たぶん、朝日も普通の日常を味わってみたいんだと思う。ただ、他人に髪を触られるのは、くすぐったいような、落ち着かない気分になって、ちょっとだけ後悔した。
それから、二人で朝ごはんの準備をした。
私が洗ったレタスを千切ってハムを千切りにしている間、朝日は昨日と同じくトーストを焼いて、熱いコーヒーを淹れてくれた。
私の分にまたたっぷりと砂糖を投入しようとしたから、その半分にしてもらって、牛乳を少し多めに入れてもらうことにした。さすがにブラックでは飲めないけど、あんまり甘いのも舌が疲れてしまう。それに、子供扱いされているみたいで悔しい。
規則正しく、誰かと向かい合って取る朝食はまだ慣れない。でも、慣れないだけで、ぜんぜん嫌じゃない。
私はずっと一人だった。
ママがいたこともあるし、今はパパがいる。嫌だけど、正真正銘の私の家族だ。
本当の独りぼっちだった朝日に言うと怒られそうだけど、私にとって「家族」というものは、そういう関係に付けられている名称ってだけ。愛おしいものでも、大切なものでもない。愛おしいものだと、大切にされたこともない。だから、家族があっても、私はずっと独りぼっちだった。
だけど、今は違う。
朝日とレインと過ごすこの空間が、とても愛おしい。二人とも大切だし、失いたくないって思う。何もないこの部屋だって、今はすごく愛着がある。こんな気持ちは初めて。私はこの部屋で、ようやく「家族」の意味を知った気がしていた。
だけど、本当はわかっている。
誰が見たって、この食卓は不自然だ。
私たちは揃って目隠しをして、ヘッドホンを着けて、向かい合っているようなものなのだから。
問題は何一つ解決されないまま、目の前にある。
朝日を追ってきたあの男たちが、今にも玄関のドアを蹴破って現れるんじゃないか、とか。結局、朝日は昨日、仕事に行くことはなくて、それが朝日のこれからの生活にどう影響してくるのか、とか。
私たちは、自分たちを不安に陥れるそれらの要因を見ないふりして、束の間に、マジパンで出来たみたいな偽物の朝に身を委ねているんだ。
「凛子の将来の旦那さんは幸せだ」
不意に朝日がそんなことを言い出した。
朝日は今日も椅子の代わりに脚立に座っていて、だけど、その不安定さを微塵も感じさせない落ち着いた顔をしている。
「なんで?」
自分では見られないけど、私は変な顔をしているはずだ。
「美味しいごはんが食べられるから」
「野菜を切って、ドレッシングをかけただけだけど」
「ラザニアも美味しかった」
「あれも、特別難しい工程なんかないってば」
朝日は、ほったらかしの風船からゆるゆると空気が抜けていくような、ゆったりとした笑みを浮かべた。
「さっと用意できて、それでいて見栄えがいいレシピを覚えるしかなかったんだよ。パパの機嫌を損ねるわけにいかなかったから」
損ねたら最後、食事にすらありつけなくなる。
こんな日々を暮らす私にも、人並みに将来とかが訪れるんだろうか。友達ができて、恋人に発展して、結婚して、家族を作って。そんな当たり前の人生を私も送れるんだろうか。まったく想像できない。
「凛子の旦那さんは幸せだ」
朝日は繰り返して、微笑んだ。心配なんかないよって言うみたいに。君は、その辺にいる普通の女の子と何ら変わりはないって。
例え気休めだとしたって、それは私の心をふわりとわずかに浮上させた。
「……ねぇ、朝日」
「どうしたの?」
私は気になってしかたがないことを訊くことにした。
ずっとどうしようか迷っていた。口に出せば、この偽物の時間がぱちんと割れて消えてしまいそうで。
でも、やっぱりいつまでも見ないふりをしているわけにいかない。私たちは現実を生きているから。
「昨日……仕事に行かなかったでしょ? それで、何か困ることにはならない?」
散々仕事に行くのをやめてと言っていたくせに、いざ行かなかったら心配するのだから、我ながら面倒臭いなって思う。
朝日は目尻を垂らした。
「問題ないよ。依頼を受けたあとは、僕は僕のスケジュールで動くからね。ある程度の期限はあるけど、別に昨日じゃなけりゃいけなかったわけじゃない。フリーランスの気楽なところだよ」
冗談ぽく言ったのは、私を気遣ってわざとなんだろう。だからって笑えないけれど。
本当に笑えない。私、ほっとしていた。
朝日の暮らしは、朝日が行う仕事が支えている。
それが何の問題もなく、滞りなく進んでいくと知って、ほっとしてしまった。
誰かが死ぬというのに。その命の芽を、朝日が摘んでしまうというのに。きっとそれは、朝日に降りそそぐ雨の一粒になるのに。
「もし」
私はフォークで真っ赤なプチトマトを刺すと、それを朝日に向かって差し出した。
「昨日のことで朝日の信用がなくなって、仕事が来なくなったら、私のところへ来なよ。こんなごはんで良ければ、いつでも食べさせてあげる」
それは儚い約束。
約束を破ったところにある、だめな約束。
叶うことは絶対にないけど、この広い世界のどこかで傷ついた朝日を癒して、元気を与えてくれたならそれでいい。
朝日は首を前に出して、ぱくっとトマトに噛みついた。
もぐもぐしながら緩やかに口角を上げるけど、その顔はちょっとだけ悲しそうだった。
ドライヤーで髪を乾かす時になると、朝日が私の髪を乾かしたいと言い出した。照れ臭くて嫌だって言ったのに、朝日は目を輝かせてちっとも引かない。
渋々といった感じでも言う通りにしてあげたのは、朝日も私と同じだと思ったからだ。たぶん、朝日も普通の日常を味わってみたいんだと思う。ただ、他人に髪を触られるのは、くすぐったいような、落ち着かない気分になって、ちょっとだけ後悔した。
それから、二人で朝ごはんの準備をした。
私が洗ったレタスを千切ってハムを千切りにしている間、朝日は昨日と同じくトーストを焼いて、熱いコーヒーを淹れてくれた。
私の分にまたたっぷりと砂糖を投入しようとしたから、その半分にしてもらって、牛乳を少し多めに入れてもらうことにした。さすがにブラックでは飲めないけど、あんまり甘いのも舌が疲れてしまう。それに、子供扱いされているみたいで悔しい。
規則正しく、誰かと向かい合って取る朝食はまだ慣れない。でも、慣れないだけで、ぜんぜん嫌じゃない。
私はずっと一人だった。
ママがいたこともあるし、今はパパがいる。嫌だけど、正真正銘の私の家族だ。
本当の独りぼっちだった朝日に言うと怒られそうだけど、私にとって「家族」というものは、そういう関係に付けられている名称ってだけ。愛おしいものでも、大切なものでもない。愛おしいものだと、大切にされたこともない。だから、家族があっても、私はずっと独りぼっちだった。
だけど、今は違う。
朝日とレインと過ごすこの空間が、とても愛おしい。二人とも大切だし、失いたくないって思う。何もないこの部屋だって、今はすごく愛着がある。こんな気持ちは初めて。私はこの部屋で、ようやく「家族」の意味を知った気がしていた。
だけど、本当はわかっている。
誰が見たって、この食卓は不自然だ。
私たちは揃って目隠しをして、ヘッドホンを着けて、向かい合っているようなものなのだから。
問題は何一つ解決されないまま、目の前にある。
朝日を追ってきたあの男たちが、今にも玄関のドアを蹴破って現れるんじゃないか、とか。結局、朝日は昨日、仕事に行くことはなくて、それが朝日のこれからの生活にどう影響してくるのか、とか。
私たちは、自分たちを不安に陥れるそれらの要因を見ないふりして、束の間に、マジパンで出来たみたいな偽物の朝に身を委ねているんだ。
「凛子の将来の旦那さんは幸せだ」
不意に朝日がそんなことを言い出した。
朝日は今日も椅子の代わりに脚立に座っていて、だけど、その不安定さを微塵も感じさせない落ち着いた顔をしている。
「なんで?」
自分では見られないけど、私は変な顔をしているはずだ。
「美味しいごはんが食べられるから」
「野菜を切って、ドレッシングをかけただけだけど」
「ラザニアも美味しかった」
「あれも、特別難しい工程なんかないってば」
朝日は、ほったらかしの風船からゆるゆると空気が抜けていくような、ゆったりとした笑みを浮かべた。
「さっと用意できて、それでいて見栄えがいいレシピを覚えるしかなかったんだよ。パパの機嫌を損ねるわけにいかなかったから」
損ねたら最後、食事にすらありつけなくなる。
こんな日々を暮らす私にも、人並みに将来とかが訪れるんだろうか。友達ができて、恋人に発展して、結婚して、家族を作って。そんな当たり前の人生を私も送れるんだろうか。まったく想像できない。
「凛子の旦那さんは幸せだ」
朝日は繰り返して、微笑んだ。心配なんかないよって言うみたいに。君は、その辺にいる普通の女の子と何ら変わりはないって。
例え気休めだとしたって、それは私の心をふわりとわずかに浮上させた。
「……ねぇ、朝日」
「どうしたの?」
私は気になってしかたがないことを訊くことにした。
ずっとどうしようか迷っていた。口に出せば、この偽物の時間がぱちんと割れて消えてしまいそうで。
でも、やっぱりいつまでも見ないふりをしているわけにいかない。私たちは現実を生きているから。
「昨日……仕事に行かなかったでしょ? それで、何か困ることにはならない?」
散々仕事に行くのをやめてと言っていたくせに、いざ行かなかったら心配するのだから、我ながら面倒臭いなって思う。
朝日は目尻を垂らした。
「問題ないよ。依頼を受けたあとは、僕は僕のスケジュールで動くからね。ある程度の期限はあるけど、別に昨日じゃなけりゃいけなかったわけじゃない。フリーランスの気楽なところだよ」
冗談ぽく言ったのは、私を気遣ってわざとなんだろう。だからって笑えないけれど。
本当に笑えない。私、ほっとしていた。
朝日の暮らしは、朝日が行う仕事が支えている。
それが何の問題もなく、滞りなく進んでいくと知って、ほっとしてしまった。
誰かが死ぬというのに。その命の芽を、朝日が摘んでしまうというのに。きっとそれは、朝日に降りそそぐ雨の一粒になるのに。
「もし」
私はフォークで真っ赤なプチトマトを刺すと、それを朝日に向かって差し出した。
「昨日のことで朝日の信用がなくなって、仕事が来なくなったら、私のところへ来なよ。こんなごはんで良ければ、いつでも食べさせてあげる」
それは儚い約束。
約束を破ったところにある、だめな約束。
叶うことは絶対にないけど、この広い世界のどこかで傷ついた朝日を癒して、元気を与えてくれたならそれでいい。
朝日は首を前に出して、ぱくっとトマトに噛みついた。
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