Rain man

朋藤チルヲ

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nothing

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 私は無だった。

 大家さんから突然、パパが死んだと聞かされて、悲しいとか辛いとか、そんなことはもちろん、少しも思うことはなかったのだけれど。
 逆に、いなくなってよかったとか清々したとか、そんなふうに思うこともなかった。

 ただ、瞬間、胸の中に真ん丸の大きな穴がぽっかりと空いた。
 そこから向こうを覗き込んでみても、どこまでも真っ白なだけ。何もない。太陽も、月も、星も、木も、土も、水もない。吹き込んでくる風の音すらしなかった。

 私はパパを、自分の父親という存在を憎んでいたはずだ。それこそ朝日に頼んで、この世から消してほしかったくらいに。
 図らずもそれが叶ったから、その感情も、まるで蒸発するみたいに、私の中からなくなってしまったってことなんだろうか。

 もし本当にそうだったら、納得できない。私のこれまでの苦しみは、そんなにも軽いものじゃない。

 大家さんに着替えてと言われても、何を着たらいいかわからなかったから、もうずいぶん長いこと袖を通していない、中学校の制服を着た。

 向かう場所はたぶん病院だ。
 パパの仕事場の工場かな、とも一瞬思ったけれど、もう亡くなったということだし、パパの身体は、病院の安置室みたいなところにあるんだろう。

 普通の中学生は学校に行っている時間なんだから、やっぱり制服が最適だ。
 そんなことを考えられるくらいに、私は冷静だった。冷静で、無だった。ううん、違う。無だったから冷静でいられたんだ。

 いつもは歩いて通る街の中を、タクシーで走り抜けていく。
 その後部座席で、大家さんはずっと私の右手を握ってくれていた。朝日のそれとはまったく違う、ふよふよとした感触のしわがれた手。

 なんだかこそばゆい。

 そう感じる一方で、パパが言った「お前を利用していい人になりたいだけ」、その言葉が頭の中をくるくる回っていた。

 あの時、朝日は黙って私の背中を、大家さんの前へとそっと押し出した。
 振り返った私は泣きそうな顔をしていたに違いなくて、それを見た朝日は柔らかく微笑んだ。

 もちろん、私はパパの死が悲しかったわけじゃなくて、不安だった。朝日と離れることが怖かった。

 朝日のギターの音を、朝日の存在をよりどころにしたのは、パパの暴力があったから。そのパパがいなくなったってことは、私は悲しみの原因から解放されたってこと。つまり、朝日をよりどころにする理由がなくなったってこと。

 そしたらもう、朝日と交わした約束は、意味を持たないんじゃないかって思った。

 離れた隙に朝日は、自分はお役御免だからと、ギターを持って、銃を持って、レインを連れて、あの部屋から旅立ってしまうかもしれない。

 だけど、きっと朝日は、そんな私の心の中なんて見透かしていたんだと思う。
 朝日の笑顔は、まるで行ってらっしゃいと送り出してくれているみたいだった。

 だから、私は信じる。
 朝日の笑顔を。
 僕は出て行かない。三日間はここで一緒にいる。約束でしょうって。優しく腰を抱き寄せながら、肩に頬を寄せながら言ってくれた、あの言葉を。

 信じてもいいんだよね?

 タクシーが赤信号で停まる。横の窓から、小さな児童公園が臨めた。
 団地と団地の間の、塗装の剥げたシーソーと、古びたブランコと、背もたれのないベンチが一つだけしかない公園。
 やっぱり今年は気温が高いみたいだ。温暖化の影響なのかもしれない。広くない敷地いっぱいに、緑色の絨毯のようにカタバミが生えていた。

 クローバーにそっくりな、でも、決してクローバーにはなれない葉。幸せを呼び込むことはできない葉。
 だけど、幸せを連れてくるはずの葉の方が咲かせる花には、「復讐」という恐ろしい花言葉があることを、私は知っている。

 私がこれまで、それによく似た小さな葉をいくつも千切ってきたのは、だからだ。
 私はいつだって、関わった人の不幸を願いながら千切った。その数の多さは、願いが何度も裏切られてきた数と比例する。

 神様は、もしかしたらひどく天邪鬼で。
 これまでちっとも叶える気なんてなかった願いを、初めて真逆のことを願った今日、ようやく叶えてやる気になったのかもしれない。

 車が走り出すと同時に、大家さんが呟いた。
 やっとかける言葉を探し当てたように。重苦しい沈黙に打ち負かされたように。

「……凛子ちゃんを苦しめた罰のつもりなのかね。神様はやり過ぎだね」

 私の気持ちにリンクするようでしないその言葉に、外を眺めたままで少し笑う。

 久しぶりに身につけた制服は、つんとカビ臭い。
 私は何も言わず、窓の外を流れる景色を眺めていた。
 涙腺は乾いていた。
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