37 / 49
nothing
しおりを挟む
私は無だった。
大家さんから突然、パパが死んだと聞かされて、悲しいとか辛いとか、そんなことはもちろん、少しも思うことはなかったのだけれど。
逆に、いなくなってよかったとか清々したとか、そんなふうに思うこともなかった。
ただ、瞬間、胸の中に真ん丸の大きな穴がぽっかりと空いた。
そこから向こうを覗き込んでみても、どこまでも真っ白なだけ。何もない。太陽も、月も、星も、木も、土も、水もない。吹き込んでくる風の音すらしなかった。
私はパパを、自分の父親という存在を憎んでいたはずだ。それこそ朝日に頼んで、この世から消してほしかったくらいに。
図らずもそれが叶ったから、その感情も、まるで蒸発するみたいに、私の中からなくなってしまったってことなんだろうか。
もし本当にそうだったら、納得できない。私のこれまでの苦しみは、そんなにも軽いものじゃない。
大家さんに着替えてと言われても、何を着たらいいかわからなかったから、もうずいぶん長いこと袖を通していない、中学校の制服を着た。
向かう場所はたぶん病院だ。
パパの仕事場の工場かな、とも一瞬思ったけれど、もう亡くなったということだし、パパの身体は、病院の安置室みたいなところにあるんだろう。
普通の中学生は学校に行っている時間なんだから、やっぱり制服が最適だ。
そんなことを考えられるくらいに、私は冷静だった。冷静で、無だった。ううん、違う。無だったから冷静でいられたんだ。
いつもは歩いて通る街の中を、タクシーで走り抜けていく。
その後部座席で、大家さんはずっと私の右手を握ってくれていた。朝日のそれとはまったく違う、ふよふよとした感触のしわがれた手。
なんだかこそばゆい。
そう感じる一方で、パパが言った「お前を利用していい人になりたいだけ」、その言葉が頭の中をくるくる回っていた。
あの時、朝日は黙って私の背中を、大家さんの前へとそっと押し出した。
振り返った私は泣きそうな顔をしていたに違いなくて、それを見た朝日は柔らかく微笑んだ。
もちろん、私はパパの死が悲しかったわけじゃなくて、不安だった。朝日と離れることが怖かった。
朝日のギターの音を、朝日の存在をよりどころにしたのは、パパの暴力があったから。そのパパがいなくなったってことは、私は悲しみの原因から解放されたってこと。つまり、朝日をよりどころにする理由がなくなったってこと。
そしたらもう、朝日と交わした約束は、意味を持たないんじゃないかって思った。
離れた隙に朝日は、自分はお役御免だからと、ギターを持って、銃を持って、レインを連れて、あの部屋から旅立ってしまうかもしれない。
だけど、きっと朝日は、そんな私の心の中なんて見透かしていたんだと思う。
朝日の笑顔は、まるで行ってらっしゃいと送り出してくれているみたいだった。
だから、私は信じる。
朝日の笑顔を。
僕は出て行かない。三日間はここで一緒にいる。約束でしょうって。優しく腰を抱き寄せながら、肩に頬を寄せながら言ってくれた、あの言葉を。
信じてもいいんだよね?
タクシーが赤信号で停まる。横の窓から、小さな児童公園が臨めた。
団地と団地の間の、塗装の剥げたシーソーと、古びたブランコと、背もたれのないベンチが一つだけしかない公園。
やっぱり今年は気温が高いみたいだ。温暖化の影響なのかもしれない。広くない敷地いっぱいに、緑色の絨毯のようにカタバミが生えていた。
クローバーにそっくりな、でも、決してクローバーにはなれない葉。幸せを呼び込むことはできない葉。
だけど、幸せを連れてくるはずの葉の方が咲かせる花には、「復讐」という恐ろしい花言葉があることを、私は知っている。
私がこれまで、それによく似た小さな葉をいくつも千切ってきたのは、だからだ。
私はいつだって、関わった人の不幸を願いながら千切った。その数の多さは、願いが何度も裏切られてきた数と比例する。
神様は、もしかしたらひどく天邪鬼で。
これまでちっとも叶える気なんてなかった願いを、初めて真逆のことを願った今日、ようやく叶えてやる気になったのかもしれない。
車が走り出すと同時に、大家さんが呟いた。
やっとかける言葉を探し当てたように。重苦しい沈黙に打ち負かされたように。
「……凛子ちゃんを苦しめた罰のつもりなのかね。神様はやり過ぎだね」
私の気持ちにリンクするようでしないその言葉に、外を眺めたままで少し笑う。
久しぶりに身につけた制服は、つんとカビ臭い。
私は何も言わず、窓の外を流れる景色を眺めていた。
涙腺は乾いていた。
大家さんから突然、パパが死んだと聞かされて、悲しいとか辛いとか、そんなことはもちろん、少しも思うことはなかったのだけれど。
逆に、いなくなってよかったとか清々したとか、そんなふうに思うこともなかった。
ただ、瞬間、胸の中に真ん丸の大きな穴がぽっかりと空いた。
そこから向こうを覗き込んでみても、どこまでも真っ白なだけ。何もない。太陽も、月も、星も、木も、土も、水もない。吹き込んでくる風の音すらしなかった。
私はパパを、自分の父親という存在を憎んでいたはずだ。それこそ朝日に頼んで、この世から消してほしかったくらいに。
図らずもそれが叶ったから、その感情も、まるで蒸発するみたいに、私の中からなくなってしまったってことなんだろうか。
もし本当にそうだったら、納得できない。私のこれまでの苦しみは、そんなにも軽いものじゃない。
大家さんに着替えてと言われても、何を着たらいいかわからなかったから、もうずいぶん長いこと袖を通していない、中学校の制服を着た。
向かう場所はたぶん病院だ。
パパの仕事場の工場かな、とも一瞬思ったけれど、もう亡くなったということだし、パパの身体は、病院の安置室みたいなところにあるんだろう。
普通の中学生は学校に行っている時間なんだから、やっぱり制服が最適だ。
そんなことを考えられるくらいに、私は冷静だった。冷静で、無だった。ううん、違う。無だったから冷静でいられたんだ。
いつもは歩いて通る街の中を、タクシーで走り抜けていく。
その後部座席で、大家さんはずっと私の右手を握ってくれていた。朝日のそれとはまったく違う、ふよふよとした感触のしわがれた手。
なんだかこそばゆい。
そう感じる一方で、パパが言った「お前を利用していい人になりたいだけ」、その言葉が頭の中をくるくる回っていた。
あの時、朝日は黙って私の背中を、大家さんの前へとそっと押し出した。
振り返った私は泣きそうな顔をしていたに違いなくて、それを見た朝日は柔らかく微笑んだ。
もちろん、私はパパの死が悲しかったわけじゃなくて、不安だった。朝日と離れることが怖かった。
朝日のギターの音を、朝日の存在をよりどころにしたのは、パパの暴力があったから。そのパパがいなくなったってことは、私は悲しみの原因から解放されたってこと。つまり、朝日をよりどころにする理由がなくなったってこと。
そしたらもう、朝日と交わした約束は、意味を持たないんじゃないかって思った。
離れた隙に朝日は、自分はお役御免だからと、ギターを持って、銃を持って、レインを連れて、あの部屋から旅立ってしまうかもしれない。
だけど、きっと朝日は、そんな私の心の中なんて見透かしていたんだと思う。
朝日の笑顔は、まるで行ってらっしゃいと送り出してくれているみたいだった。
だから、私は信じる。
朝日の笑顔を。
僕は出て行かない。三日間はここで一緒にいる。約束でしょうって。優しく腰を抱き寄せながら、肩に頬を寄せながら言ってくれた、あの言葉を。
信じてもいいんだよね?
タクシーが赤信号で停まる。横の窓から、小さな児童公園が臨めた。
団地と団地の間の、塗装の剥げたシーソーと、古びたブランコと、背もたれのないベンチが一つだけしかない公園。
やっぱり今年は気温が高いみたいだ。温暖化の影響なのかもしれない。広くない敷地いっぱいに、緑色の絨毯のようにカタバミが生えていた。
クローバーにそっくりな、でも、決してクローバーにはなれない葉。幸せを呼び込むことはできない葉。
だけど、幸せを連れてくるはずの葉の方が咲かせる花には、「復讐」という恐ろしい花言葉があることを、私は知っている。
私がこれまで、それによく似た小さな葉をいくつも千切ってきたのは、だからだ。
私はいつだって、関わった人の不幸を願いながら千切った。その数の多さは、願いが何度も裏切られてきた数と比例する。
神様は、もしかしたらひどく天邪鬼で。
これまでちっとも叶える気なんてなかった願いを、初めて真逆のことを願った今日、ようやく叶えてやる気になったのかもしれない。
車が走り出すと同時に、大家さんが呟いた。
やっとかける言葉を探し当てたように。重苦しい沈黙に打ち負かされたように。
「……凛子ちゃんを苦しめた罰のつもりなのかね。神様はやり過ぎだね」
私の気持ちにリンクするようでしないその言葉に、外を眺めたままで少し笑う。
久しぶりに身につけた制服は、つんとカビ臭い。
私は何も言わず、窓の外を流れる景色を眺めていた。
涙腺は乾いていた。
0
あなたにおすすめの小説
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
『大人の恋の歩き方』
設楽理沙
現代文学
初回連載2018年3月1日~2018年6月29日
―――――――
予定外に家に帰ると同棲している相手が見知らぬ女性(おんな)と
合体しているところを見てしまい~の、web上で"Help Meィィ~"と
号泣する主人公。そんな彼女を混乱の中から助け出してくれたのは
☆---誰ぁれ?----★ そして 主人公を翻弄したCoolな同棲相手の
予想外に波乱万丈なその後は? *☆*――*☆*――*☆*――*☆*
☆.。.:*Have Fun!.。.:*☆
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる