Rain man

朋藤チルヲ

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first kiss

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 無理やりに作り出す笑顔には、限界がある。

 朝日には、私の笑顔をいちばん新しい記憶としてインプットしておいてもらいたい。
 だから、これ以上は無理だ。

「じゃあ、元気でね」

 私は背中を向けた。手も振らずに、足を踏み出し、来た道を引き返す。

「僕は」

 突然。そっと背中に手のひらを添えられるみたいな声を、朝日が出した。
 足を止めてしまう。だけど、振り返らない。

「君と出会うべきじゃなかった」

 喧騒にかき消されそうな心もとなさなのに、それは、背後からまっすぐ私の胸を突き刺した。

「何もできないから。苦しんでいる君のために、僕は何もしてあげることができない。そんなことわかっていたのに」

 か細くすり切れる末尾の言葉。
 私の心臓は、壊れるんじゃないかと不安になるほどに、激しく収縮して胸の壁を叩いていた。

「本当はあの時、すぐに追い出すつもりだった。でも、できなくて」

 私が知っている朝日はいつでも落ち着いていた。吐き出される言葉はどこか計算されたような印象があった。でも、それは違った。

 朝日の、心からの、本当の言葉だ。

「でも……だから、きっと君は大丈夫。凛子は、僕なんかと違って、大切な何かをちゃんと持っているんだ。だから、君はまた必ず誰かに愛される。……僕に愛されたように」

 涙が頬を零れた。

「……朝日は、バカだ」

 何も言わずに去っていれば、そのままさっぱりと別れられたのに。朝日はすぐに、いつもの日常に戻れたのに。

 私は堪らず振り返って、アスファルトを蹴った。

 驚いた顔の朝日がどんどん近づいて、その首筋に腕を回してしがみつく。反動で、背の高い殺し屋の身体はがくんと一段階低くなる。
 両手が塞がったままで無防備なその唇に、自分の唇を一瞬、重ねた。

「……朝日」

 朝日は大きく目を見開いていた。その透き通った瞳の表面に、顔をくしゃくしゃにした私が映る。

「朝日が……何もしてくれなかったとは思ってないよ。笑って、そばで話を聞いて、ギターを弾いてくれた。私の手料理を美味しいって言ってくれた。それだけで嬉しかったのに、朝日は教えてくれたよ。泣くことは悪いことじゃないって教えてくれた」

 通りかかる人たちが、あからさまに不快な表情をしたり、ニヤニヤしたりしながら過ぎて行った。でも、そんなことはさして大事じゃない。どうでもよかった。大事なのは、朝日に伝えることだ。今、朝日に伝えることだ。

「私は、朝日と会うべきじゃなかったなんて思ってない。後悔してない。会えてよかったよ」

 あの時、無我夢中で、ワガママを言い出してよかった。

「だから、私からも教えてあげる」
「何を……」

 ぼんやりと朝日が口を動かした。

 私は一度きゅっと唇を引き結んでから、再び開いて、それから一気に言った。言葉が、伝えたかった思いが、涙と一緒になって溢れ出していく。

「世の中に、消さないといけない人間は、確かにいるのかもしれない。だけど、それは人間が決めることじゃない、同じ人間が決めちゃいけないことだって思う。朝日がやるべきことじゃないんだよ。心を殺してまで朝日がやらなきゃいけない理由なんて、どこにもないよ」

 ずっと神様の存在なんて信じていなかった。

 だって、もしいるなら、どうして私は生まれた直後から、パパの暴力を受け続けなければならなかったの。どうして私はママに捨てられてしまったの。どうしてわたしは愛されなかったの。他の子供たちと、私は何が違うの。

 なんべんもなんべんも、空に、星に、月に、神様がいるって言われるあらゆるところに問いかけてきた。
 だけど、何も答えてはくれなかったし、救ってもくれなかった。

 だから、そのうち諦めてすべてを受け入れた。受け入れることは、絶望することと何も変わらなかった。

 でも、朝日と出会って、知らず知らずのうちに神様に祈る私がいた。

 朝日が神様を運んできたのかもしれない。
 彼の穏やかな笑みと優しい声は、偉大な存在に仕える聖なるもの以外の、なにものでもない気がした。

 私を取り巻く環境は変わらない。でも、変わったものもある。

 私がこれまで重ねてきた日々は、朝日と出会うために必要だったのかもしれない。人間の生い立ちや環境には、少なからず意味があるのかもしれない。少しだけ、そんなふうに思えるようになった。

 きっと朝日の手は、そうやって誰かを救うためにある。朝日の声は、誰かを慰めるためにある。これからもきっと。

 それなのに、真っ黒な心と、真っ黒な手を持つ人間に関わってしまったら、朝日の手と声がどんどん濁っていってしまう。いつしか取り込まれて、朝日自身が真っ黒になってしまう。今ならまだ間に合う。

 悪い人間を排除することなんて、そんなものは神様に任せておけばいい。

 朝日はもう悲しみから解放されるべきだ。
 仕事を辞めたら暮らしていけないと言うなら、私が朝日の面倒を見る。生涯をかけて。

 私を見下ろす朝日の瞳が、ゆらゆらと激しく揺れていた。

 その時。

 朝日の背後で重い破裂音がしたかと思うと、その瞬間、そこにあった屋台の店先に並んでいた、肉厚のチキンレッグが弾け飛んだ。

 思わず身をすくめる。

 店主の驚く声と、通りすがりの女性客の悲鳴。ざわめき。

 朝日の両方の目がくっと厳しくなり、眉毛のお尻が持ち上がる。
 私にバスケットを押しつけると、ギターケースをその場に放り出し、コートの裾を翻した。
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