運命のひとーSADAME NO HITOー

朋藤チルヲ

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 福永さんがゆっくりとこちらを振り向いた。視線とか気配とか、そういうものを感じたのだと思う。

 心臓が小さく跳ねて、とっさにうつむいた。
 瞳が鋭い。怒っている。
 それはそうだ。親しくもない部下からじろじろ見られていたら、福永さんでなくたって気分が良くない。

 急いで平静を装う。ウエストポーチに手を突っ込んで、取り出したハンカチで手をき始めた。
 従業員用のトイレは二階にある。休憩室や会議室、社長室などが並んだ通路側のいちばん奥。その前にわたしが立っていることは、何ら不思議ではないはず。と、自分に言い聞かせる。
 ギクシャクと歩き出し、すれ違いざま二人に向かって、「お疲れさまです」と小声で言って会釈した。

 広々としたワンフロア。カウンターに囲まれた中にデスクが整然と並び、合間に洋服を掛けるパイプラックがいくつも置かれている。銀色の細長い植物が、ニョキニョキと生えてきたみたいだ。
 パイプラックに掛けられて空調の風に揺れているのは、次シーズンに販売予定のサンプルが主だ。本部社員たちは、その間でノートパソコンのキーボードを叩いたり、縫うようにせかせかと歩いていたりした。

「あいよ、お疲れさん。今日も頑張っとるか? 優愛ちゃん」

 田嶋さんがいつもの調子で、明るく挨拶を返してきた。
 あちゃあ、と顔をしかめたかった。やっぱりか、とも思った。

 従業員同士の挨拶は当たり前のことで、返すことも当たり前。ついでに話しかけてもらえることは、普段ならぜんぜん嬉しい。
 でも、今だけは早く立ち去りたかった。相手が上司では、スルーするわけにいかない。

「田嶋さん、あの、下の名前で呼ぶのは……」

 おずおずと言う。

「ええやん。名字やったら、経理部の横尾よこおさんとかぶんねやもん」

 ニコニコと愛想の良い田嶋さんの向かいで、福永さんはぶすっとした顔。わたしと目も合わせてくれない。そんな態度は珍しいことではないのだけど、ぶしつけな視線を送っていた手前、今は余計に気まずさが胸を支配する。

 ちなみに、この会社では上司を役職名で呼ばない。
 社長や副社長に対しては例外だけど、その他の従業員同士は、必ず名字に「さん」を付けて呼ぶように決められている。
 小さな会社なのだから、従業員同士は家族や親戚のような間柄が望ましい、気兼ねないほうが仕事も効率的に進む、というのが先代社長、わたしの父方の祖父の考え方だった。
 祖父の死後、会社を継いだパパとママは、その考え方も一緒に引き継いだ。おかげで、この会社は珍しいくらい、立場や肩書きを超えて従業員同士の仲が良い。

「別に、被っても問題ないと思いますけど……」

 控えめに唇を尖らせて反論する。

 経理部の横尾さん、とは姉のこと。同じ社内にいるとはいえ、持ち場は一階と二階で離れているのだし、呼び名が被ったところで支障が出るはずもない。
 優愛ちゃん、なんて、友達でもないのに。
 社内では田嶋さんの他に誰からもそんなふうに呼ばれないし、別の社員が誰かをちゃん付けで呼んでいるのを聞いたこともない。
 実は、こうやって田嶋さんに訴えるのは、もう何度目になるかわからない。

「せやから言うてるやん。響きがかわええもんやから、つい呼びたなってしまうねんて。優しくて愛おしい。いやぁ、かわええし、まさしく社長令嬢て感じで、ぴったしの名前やなぁ」

 田嶋さんは悪びれもせずに言う。
 調子良いし、理由になっていないし……という言葉を飲み込んだ。どうせ何を言っても聞き入れてくれないことなんて、とっくにわかっているのだ。

 関西出身の人の気質なのか、田嶋さんは初対面でも、どんな相手でも物怖じしない。おかげですぐに打ち解けられたけど、ちょっとだけ距離感が近すぎて、こういう時には困る。

 田嶋さんと話している間も、気がかりは福永さんの様子。
 軽く会釈し返してくれたものの、表情は不機嫌極まりない。カウンターを見下ろして、会話に耳を傾けることさえ放棄している雰囲気だ。閉じられた薄い唇から、仕事の邪魔だから、さっさと行っちゃってくれ、と言う声が聞こえる気がした。

「お前という男は、ほんまに愛想ないねんなぁ」

 ため息混じりに吐き出された田嶋さんの言葉に、思わずぎょっとする。

「無愛想がネクタイ締めて歩いとるってのは、お前のことやな。社長のお嬢さんが挨拶してくれとんのに、ちぃとくらいニコッとしたったらどうや」
「あ、あの、田嶋さん……わたしは別に」

 田嶋さんの遠慮のない性格は、職場の誰もが知っていることとはいえ、さすがに怒られるのではとハラハラした。

「お前が社員らから嫌われとるんは、いっつもそんなおっかない顔しとるからやぞ。宝の持ち腐れやから、そのイケメンな表皮を脱いで俺によこせや」

 ユーモラスな言い方が悩ましい。噴き出しそうになってしまって必死に堪えた。
 福永さんは怒り出すことはなかった。でも、深くため息はついた。

「今さら自分が愛想良くなったところで、何も変わりはしない」
「そないなことあらへんやろ」
「気味悪がられるだけだ」
「うーん。わからんくもないが」

 田嶋さんは腕組みをする。

「優愛ちゃんはどう思う? こいつが急にニコニコしよったら、やっぱきしょいか?」

 なんとか退陣のタイミングを見つけられないかと、上司たちの会話の隙を探っていたら、急に話を振られたものだから、肩が跳ねてしまった。

「え、えっと……」

 まごついていると、福永さんがこれ見よがしなため息をついた。何を素直に答えようとしているのか、と呆れているに違いなかった。わたしだって、品出しを放り出して用を足しにきているのだから、早いところ戻りたい。

「き、きしょくはないです」
「おー」

 わたしの返事に、田嶋さんは何が嬉しいのかはしゃいだ声を上げた。

「す、すみません。仕事の途中なので、失礼します」

 頭の中が沸騰するように熱くなってきて、「お邪魔してすみませんでした」とそれだけをどうにか言うと、わたしは足早に階段を目指した。
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