9 / 60
【2】
3
しおりを挟む
福永さんがゆっくりとこちらを振り向いた。視線とか気配とか、そういうものを感じたのだと思う。
心臓が小さく跳ねて、とっさにうつむいた。
瞳が鋭い。怒っている。
それはそうだ。親しくもない部下からじろじろ見られていたら、福永さんでなくたって気分が良くない。
急いで平静を装う。ウエストポーチに手を突っ込んで、取り出したハンカチで手を拭き始めた。
従業員用のトイレは二階にある。休憩室や会議室、社長室などが並んだ通路側のいちばん奥。その前にわたしが立っていることは、何ら不思議ではないはず。と、自分に言い聞かせる。
ギクシャクと歩き出し、すれ違いざま二人に向かって、「お疲れさまです」と小声で言って会釈した。
広々としたワンフロア。カウンターに囲まれた中にデスクが整然と並び、合間に洋服を掛けるパイプラックがいくつも置かれている。銀色の細長い植物が、ニョキニョキと生えてきたみたいだ。
パイプラックに掛けられて空調の風に揺れているのは、次シーズンに販売予定のサンプルが主だ。本部社員たちは、その間でノートパソコンのキーボードを叩いたり、縫うようにせかせかと歩いていたりした。
「あいよ、お疲れさん。今日も頑張っとるか? 優愛ちゃん」
田嶋さんがいつもの調子で、明るく挨拶を返してきた。
あちゃあ、と顔をしかめたかった。やっぱりか、とも思った。
従業員同士の挨拶は当たり前のことで、返すことも当たり前。ついでに話しかけてもらえることは、普段ならぜんぜん嬉しい。
でも、今だけは早く立ち去りたかった。相手が上司では、スルーするわけにいかない。
「田嶋さん、あの、下の名前で呼ぶのは……」
おずおずと言う。
「ええやん。名字やったら、経理部の横尾さんと被んねやもん」
ニコニコと愛想の良い田嶋さんの向かいで、福永さんはぶすっとした顔。わたしと目も合わせてくれない。そんな態度は珍しいことではないのだけど、ぶしつけな視線を送っていた手前、今は余計に気まずさが胸を支配する。
ちなみに、この会社では上司を役職名で呼ばない。
社長や副社長に対しては例外だけど、その他の従業員同士は、必ず名字に「さん」を付けて呼ぶように決められている。
小さな会社なのだから、従業員同士は家族や親戚のような間柄が望ましい、気兼ねないほうが仕事も効率的に進む、というのが先代社長、わたしの父方の祖父の考え方だった。
祖父の死後、会社を継いだパパとママは、その考え方も一緒に引き継いだ。おかげで、この会社は珍しいくらい、立場や肩書きを超えて従業員同士の仲が良い。
「別に、被っても問題ないと思いますけど……」
控えめに唇を尖らせて反論する。
経理部の横尾さん、とは姉のこと。同じ社内にいるとはいえ、持ち場は一階と二階で離れているのだし、呼び名が被ったところで支障が出るはずもない。
優愛ちゃん、なんて、友達でもないのに。
社内では田嶋さんの他に誰からもそんなふうに呼ばれないし、別の社員が誰かをちゃん付けで呼んでいるのを聞いたこともない。
実は、こうやって田嶋さんに訴えるのは、もう何度目になるかわからない。
「せやから言うてるやん。響きがかわええもんやから、つい呼びたなってしまうねんて。優しくて愛おしい。いやぁ、かわええし、まさしく社長令嬢て感じで、ぴったしの名前やなぁ」
田嶋さんは悪びれもせずに言う。
調子良いし、理由になっていないし……という言葉を飲み込んだ。どうせ何を言っても聞き入れてくれないことなんて、とっくにわかっているのだ。
関西出身の人の気質なのか、田嶋さんは初対面でも、どんな相手でも物怖じしない。おかげですぐに打ち解けられたけど、ちょっとだけ距離感が近すぎて、こういう時には困る。
田嶋さんと話している間も、気がかりは福永さんの様子。
軽く会釈し返してくれたものの、表情は不機嫌極まりない。カウンターを見下ろして、会話に耳を傾けることさえ放棄している雰囲気だ。閉じられた薄い唇から、仕事の邪魔だから、さっさと行っちゃってくれ、と言う声が聞こえる気がした。
「お前という男は、ほんまに愛想ないねんなぁ」
ため息混じりに吐き出された田嶋さんの言葉に、思わずぎょっとする。
「無愛想がネクタイ締めて歩いとるってのは、お前のことやな。社長のお嬢さんが挨拶してくれとんのに、ちぃとくらいニコッとしたったらどうや」
「あ、あの、田嶋さん……わたしは別に」
田嶋さんの遠慮のない性格は、職場の誰もが知っていることとはいえ、さすがに怒られるのではとハラハラした。
「お前が社員らから嫌われとるんは、いっつもそんなおっかない顔しとるからやぞ。宝の持ち腐れやから、そのイケメンな表皮を脱いで俺によこせや」
ユーモラスな言い方が悩ましい。噴き出しそうになってしまって必死に堪えた。
福永さんは怒り出すことはなかった。でも、深くため息はついた。
「今さら自分が愛想良くなったところで、何も変わりはしない」
「そないなことあらへんやろ」
「気味悪がられるだけだ」
「うーん。わからんくもないが」
田嶋さんは腕組みをする。
「優愛ちゃんはどう思う? こいつが急にニコニコしよったら、やっぱきしょいか?」
なんとか退陣のタイミングを見つけられないかと、上司たちの会話の隙を探っていたら、急に話を振られたものだから、肩が跳ねてしまった。
「え、えっと……」
まごついていると、福永さんがこれ見よがしなため息をついた。何を素直に答えようとしているのか、と呆れているに違いなかった。わたしだって、品出しを放り出して用を足しにきているのだから、早いところ戻りたい。
「き、きしょくはないです」
「おー」
わたしの返事に、田嶋さんは何が嬉しいのかはしゃいだ声を上げた。
「す、すみません。仕事の途中なので、失礼します」
頭の中が沸騰するように熱くなってきて、「お邪魔してすみませんでした」とそれだけをどうにか言うと、わたしは足早に階段を目指した。
心臓が小さく跳ねて、とっさにうつむいた。
瞳が鋭い。怒っている。
それはそうだ。親しくもない部下からじろじろ見られていたら、福永さんでなくたって気分が良くない。
急いで平静を装う。ウエストポーチに手を突っ込んで、取り出したハンカチで手を拭き始めた。
従業員用のトイレは二階にある。休憩室や会議室、社長室などが並んだ通路側のいちばん奥。その前にわたしが立っていることは、何ら不思議ではないはず。と、自分に言い聞かせる。
ギクシャクと歩き出し、すれ違いざま二人に向かって、「お疲れさまです」と小声で言って会釈した。
広々としたワンフロア。カウンターに囲まれた中にデスクが整然と並び、合間に洋服を掛けるパイプラックがいくつも置かれている。銀色の細長い植物が、ニョキニョキと生えてきたみたいだ。
パイプラックに掛けられて空調の風に揺れているのは、次シーズンに販売予定のサンプルが主だ。本部社員たちは、その間でノートパソコンのキーボードを叩いたり、縫うようにせかせかと歩いていたりした。
「あいよ、お疲れさん。今日も頑張っとるか? 優愛ちゃん」
田嶋さんがいつもの調子で、明るく挨拶を返してきた。
あちゃあ、と顔をしかめたかった。やっぱりか、とも思った。
従業員同士の挨拶は当たり前のことで、返すことも当たり前。ついでに話しかけてもらえることは、普段ならぜんぜん嬉しい。
でも、今だけは早く立ち去りたかった。相手が上司では、スルーするわけにいかない。
「田嶋さん、あの、下の名前で呼ぶのは……」
おずおずと言う。
「ええやん。名字やったら、経理部の横尾さんと被んねやもん」
ニコニコと愛想の良い田嶋さんの向かいで、福永さんはぶすっとした顔。わたしと目も合わせてくれない。そんな態度は珍しいことではないのだけど、ぶしつけな視線を送っていた手前、今は余計に気まずさが胸を支配する。
ちなみに、この会社では上司を役職名で呼ばない。
社長や副社長に対しては例外だけど、その他の従業員同士は、必ず名字に「さん」を付けて呼ぶように決められている。
小さな会社なのだから、従業員同士は家族や親戚のような間柄が望ましい、気兼ねないほうが仕事も効率的に進む、というのが先代社長、わたしの父方の祖父の考え方だった。
祖父の死後、会社を継いだパパとママは、その考え方も一緒に引き継いだ。おかげで、この会社は珍しいくらい、立場や肩書きを超えて従業員同士の仲が良い。
「別に、被っても問題ないと思いますけど……」
控えめに唇を尖らせて反論する。
経理部の横尾さん、とは姉のこと。同じ社内にいるとはいえ、持ち場は一階と二階で離れているのだし、呼び名が被ったところで支障が出るはずもない。
優愛ちゃん、なんて、友達でもないのに。
社内では田嶋さんの他に誰からもそんなふうに呼ばれないし、別の社員が誰かをちゃん付けで呼んでいるのを聞いたこともない。
実は、こうやって田嶋さんに訴えるのは、もう何度目になるかわからない。
「せやから言うてるやん。響きがかわええもんやから、つい呼びたなってしまうねんて。優しくて愛おしい。いやぁ、かわええし、まさしく社長令嬢て感じで、ぴったしの名前やなぁ」
田嶋さんは悪びれもせずに言う。
調子良いし、理由になっていないし……という言葉を飲み込んだ。どうせ何を言っても聞き入れてくれないことなんて、とっくにわかっているのだ。
関西出身の人の気質なのか、田嶋さんは初対面でも、どんな相手でも物怖じしない。おかげですぐに打ち解けられたけど、ちょっとだけ距離感が近すぎて、こういう時には困る。
田嶋さんと話している間も、気がかりは福永さんの様子。
軽く会釈し返してくれたものの、表情は不機嫌極まりない。カウンターを見下ろして、会話に耳を傾けることさえ放棄している雰囲気だ。閉じられた薄い唇から、仕事の邪魔だから、さっさと行っちゃってくれ、と言う声が聞こえる気がした。
「お前という男は、ほんまに愛想ないねんなぁ」
ため息混じりに吐き出された田嶋さんの言葉に、思わずぎょっとする。
「無愛想がネクタイ締めて歩いとるってのは、お前のことやな。社長のお嬢さんが挨拶してくれとんのに、ちぃとくらいニコッとしたったらどうや」
「あ、あの、田嶋さん……わたしは別に」
田嶋さんの遠慮のない性格は、職場の誰もが知っていることとはいえ、さすがに怒られるのではとハラハラした。
「お前が社員らから嫌われとるんは、いっつもそんなおっかない顔しとるからやぞ。宝の持ち腐れやから、そのイケメンな表皮を脱いで俺によこせや」
ユーモラスな言い方が悩ましい。噴き出しそうになってしまって必死に堪えた。
福永さんは怒り出すことはなかった。でも、深くため息はついた。
「今さら自分が愛想良くなったところで、何も変わりはしない」
「そないなことあらへんやろ」
「気味悪がられるだけだ」
「うーん。わからんくもないが」
田嶋さんは腕組みをする。
「優愛ちゃんはどう思う? こいつが急にニコニコしよったら、やっぱきしょいか?」
なんとか退陣のタイミングを見つけられないかと、上司たちの会話の隙を探っていたら、急に話を振られたものだから、肩が跳ねてしまった。
「え、えっと……」
まごついていると、福永さんがこれ見よがしなため息をついた。何を素直に答えようとしているのか、と呆れているに違いなかった。わたしだって、品出しを放り出して用を足しにきているのだから、早いところ戻りたい。
「き、きしょくはないです」
「おー」
わたしの返事に、田嶋さんは何が嬉しいのかはしゃいだ声を上げた。
「す、すみません。仕事の途中なので、失礼します」
頭の中が沸騰するように熱くなってきて、「お邪魔してすみませんでした」とそれだけをどうにか言うと、わたしは足早に階段を目指した。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
貧乏大家族の私が御曹司と偽装結婚⁈
玖羽 望月
恋愛
朝木 与織子(あさぎ よりこ) 22歳
大学を卒業し、やっと憧れの都会での生活が始まった!と思いきや、突然降って湧いたお見合い話。
でも、これはただのお見合いではないらしい。
初出はエブリスタ様にて。
また番外編を追加する予定です。
シリーズ作品「恋をするのに理由はいらない」公開中です。
表紙は、「かんたん表紙メーカー」様https://sscard.monokakitools.net/covermaker.htmlで作成しました。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
『愛が切なくて』- すれ違うほど哀しくて
設楽理沙
恋愛
砂央里と斎藤、こじれてしまった糸(すれ違い)がほどけていく様子を描いています。
◆都合上、[言う、云う]混合しています。うっかりミスではありません。
ご了承ください。
斉藤准一 税理士事務所勤務35才
斎藤紀子 娘 7才
毒妻: 斉藤淳子 専業主婦 33才 金遣いが荒い
高橋砂央里 会社員 27才
山本隆行 オートバックス社員 25才
西野秀行 薬剤師 22才
岡田とま子 主婦 54才
深田睦子 見合い相手 22才
―――――――――――――――――――――――
❧イラストはAI生成画像自作
2025.3.3 再☑済み😇
神楽坂gimmick
涼寺みすゞ
恋愛
明治26年、欧州視察を終え帰国した司法官僚 近衛惟前の耳に飛び込んできたのは、学友でもあり親戚にあたる久我侯爵家の跡取り 久我光雅負傷の連絡。
侯爵家のスキャンダルを収めるべく、奔走する羽目になり……
若者が広げた夢の大風呂敷と、初恋の行方は?
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる