運命のひとーSADAME NO HITOー

朋藤チルヲ

文字の大きさ
30 / 60
【7】

6

しおりを挟む
「こちらからも、訊いていいだろうか」
「え?」
「答えたくなければ、無理に答える必要はない」
「な、何でしょうか」

 福永さんがわたしに尋ねたいこととは、いったい何だろう? ドキドキしながら身構える。
 少しの間を置いてから、福永さんは切り出した。フロントガラスを見据える目には、感情が移ろわない。

「子供の頃の、溺れかけたという話」
「あ……」
「さっきも言ったが、答えたくなければ答えなくていい」
「えと……大丈夫、です」
「不快ではないのか。過去の古傷を、無遠慮にえぐられるようなものだろう」

 福永さんは少し驚いているようだ。
 もちろん楽しいわけではない。
 でも、以前にもそう感じたように、福永さんに知られることにそれほど抵抗はなかった。

「人に、よるんだと思います」

 そうとしか答えられない。
 でも、福永さんは琴音とは違う。
 心を許した友達でもないのに、なぜ平気だと思えるのか、不思議な感覚でうまく説明できない。
 ただ一つ言えることは、これが森さんが相手だったとしたなら、たぶん相馬さんでも、わたしはどうにかして話をはぐらかしただろう、ということ。

「そうか」

 福永さんは倉庫の時と同じように、自分の胸の奥に落とし込むように、しみじみと言った。

「でも、あの、話せることはたぶん、そんなにないと」
「どういう意味だ?」
「覚えてないんです。えっと、小学生の頃、バーベキューで川に行って……そこで溺れそうになったんですけど」

 躊躇ちゅうちょがないと言っても、当時のことを言葉にして他人に伝えようとすると、さすがに胃の辺りが重くなるのを感じた。

「たまたま居合わせた人が助けてくれて、おかげで無事だったんですが、それから三日間も高熱に冒されてしまって」
「熱か。一時的なショック状態のようなものかもしれない」
「はい。それで目が覚めたら、事故のことをまるきり忘れてしまっていて」

 福永さんはハンドルを握っていないほうの指で、自身の顎の下をさすった。

「なるほど」
「だから、わたしもその時のことは又聞きと言うか……それ程度しか知らないんです。自分のことなのに、変ですけど」
「変ではない。人間には防衛本能が備わっていると聞く。恐怖がキャパを超えると脳が判断して、記憶を封じ込める指令を身体に出したんだろう。そういう話はまれにある」
「防衛本能、ですか」
「生きていくために必要なものだと思う」

 防衛本能。幼かったわたしの身体は、これからも平穏に生きていくために、小さいなりに懸命にショックにあらがった。そういうことだろうか。

「そうか。では、助けてくれた人のことも、覚えていないというわけだな」
「あ……はい」
「何も知らないのか」
「はい。家族も……よく知らないみたいで」
「なるほど。でも、それでいいのかもしれない。君としては礼の一つも言いたいところだろうが、相手方の現在が平穏なものだとは限らない」
「えっと、それは……?」
「例えば、君を助けた際にケガを負っただとか。そこはわからないが、事故をきっかけに、今の生活に支障が出ている可能性もあるだろうということだ」

 福永さんは顎を触りながら言った。

 そうか、と全身に電流が走るような思いがした。
 自分が今こうして元気に暮らせているから、助けてくれた恩人もそうだとばかり信じ込んでいた。
 確かに、福永さんの言うことは一理ある。一理あるどころか、だからこそ会社を辞めたのかもしれない、と思えるくらい説得力がある。それをわたしに知らせたくないがために、家族はみんな恩人のことに口を閉ざしているのかも。

 もし本当にそうなら、会ってお礼が言いたいと、恩人を捜そうとしたわたしの行動は、家族にとっても、もちろん恩人にとっても迷惑だ。

 ふと、福永さんは恩人に心当たりがあるのでは? そう思って尋ねそうになった。
 恩人は元社員で、福永さんはそこそこにキャリアがある。でも、それはあり得ない、とすぐに気づく。長く働いていると言ったって、福永さんが入社したのは十年前。恩人が会社を去ってから五年もあとなのだ。

「すまない」
「え?」

 何に対して謝られているのかわからず、思わず背筋を伸ばしてしまう。

「自分の記憶の中に欠けた部分があるというのは、本人しかわからない辛さがあるのだろうな。知らなかったとはいえ、すまなかった」
「いえ! そんな」
「ただ、恥ずかしがることはない」
「え?」

 福永さんは先程からただずっと、果てしなく続くかのような高速道路の先を見つめている。わたしと目を合わせることを避けるかのように。

「水への恐怖心も、さっき言ったように、生きていくために必要だと脳が判断するからだろう」
「あ……」
「君の心がおそらく、まだすべてを受け止める準備が整っていないんだ」
「準備、ですか?」
「いつか整うかもしれないし、一生このままなのかもしれない。それはわからない。ただ、恥ずべきものではない。君自身を守るための苦肉の策のようなものだから、頑張っているな、くらいに思ってやるといい」

 ぽかんとしてすぐに返事ができなかったのは、理解できなかったわけではなかった。何も知らない他人が無責任なことを、と腹立たしく感じたわけでもなかった。

「……そんなふうに、考えたことなかったです」

 感動していた。
 わたしはずっと、福永さんが言ったように、水が怖い自分を恥ずかしいと思っていた。他の人と違う自分はおかしいのだと。でも、そうではない。

 わたしの身体は、わたしの心を必死に守ってくれているだけ。

 そんなふうに考えたことは一度もなく、でも、それは驚くほどしっくりきた。そして、涙が出るくらい優しい理由だった。苦しむことは変わらないとしても、わたしを困らせるためより、守ろうとしてくれているからのほうが、ずっといいに決まっている。

「そうか」
「はい……」

 声が震えた。目から鱗が落ちるって、きっとこういうことを言うのだ。
 安堵までがこぼれ落ちそうで、手で押さえながらうつむく。

「なんか……楽になりました」
「そうか。それはよかった」
「今日、連れてきてもらって……よかったです」

 そればかりか、福永さんにトラウマのことを知られてよかったとさえ、思っている。

「そうか」

 鼻をすする。
 福永さんは何も言わない。ただまっすぐ前を見ている。謙遜しないし、わたしの言葉を打ち消すこともしない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

貧乏大家族の私が御曹司と偽装結婚⁈

玖羽 望月
恋愛
朝木 与織子(あさぎ よりこ) 22歳 大学を卒業し、やっと憧れの都会での生活が始まった!と思いきや、突然降って湧いたお見合い話。 でも、これはただのお見合いではないらしい。 初出はエブリスタ様にて。 また番外編を追加する予定です。 シリーズ作品「恋をするのに理由はいらない」公開中です。 表紙は、「かんたん表紙メーカー」様https://sscard.monokakitools.net/covermaker.htmlで作成しました。

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

『愛が切なくて』- すれ違うほど哀しくて  

設楽理沙
恋愛
砂央里と斎藤、こじれてしまった糸(すれ違い)がほどけていく様子を描いています。 ◆都合上、[言う、云う]混合しています。うっかりミスではありません。   ご了承ください。 斉藤准一 税理士事務所勤務35才 斎藤紀子    娘 7才  毒妻:  斉藤淳子  専業主婦   33才 金遣いが荒い 高橋砂央里  会社員    27才    山本隆行  オートバックス社員 25才    西野秀行   薬剤師   22才  岡田とま子  主婦    54才   深田睦子  見合い相手  22才 ――――――――――――――――――――――― ❧イラストはAI生成画像自作 2025.3.3 再☑済み😇

神楽坂gimmick

涼寺みすゞ
恋愛
明治26年、欧州視察を終え帰国した司法官僚 近衛惟前の耳に飛び込んできたのは、学友でもあり親戚にあたる久我侯爵家の跡取り 久我光雅負傷の連絡。 侯爵家のスキャンダルを収めるべく、奔走する羽目になり…… 若者が広げた夢の大風呂敷と、初恋の行方は?

優しい雨が降る夜は

葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン 無自覚にモテる地味子に 余裕もなく翻弄されるイケメン 二人の恋は一筋縄ではいかなくて…… 雨降る夜に心に届いた 優しい恋の物語 ⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡ 風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格 雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン

処理中です...