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「こちらからも、訊いていいだろうか」
「え?」
「答えたくなければ、無理に答える必要はない」
「な、何でしょうか」
福永さんがわたしに尋ねたいこととは、いったい何だろう? ドキドキしながら身構える。
少しの間を置いてから、福永さんは切り出した。フロントガラスを見据える目には、感情が移ろわない。
「子供の頃の、溺れかけたという話」
「あ……」
「さっきも言ったが、答えたくなければ答えなくていい」
「えと……大丈夫、です」
「不快ではないのか。過去の古傷を、無遠慮に抉られるようなものだろう」
福永さんは少し驚いているようだ。
もちろん楽しいわけではない。
でも、以前にもそう感じたように、福永さんに知られることにそれほど抵抗はなかった。
「人に、よるんだと思います」
そうとしか答えられない。
でも、福永さんは琴音とは違う。
心を許した友達でもないのに、なぜ平気だと思えるのか、不思議な感覚でうまく説明できない。
ただ一つ言えることは、これが森さんが相手だったとしたなら、たぶん相馬さんでも、わたしはどうにかして話をはぐらかしただろう、ということ。
「そうか」
福永さんは倉庫の時と同じように、自分の胸の奥に落とし込むように、しみじみと言った。
「でも、あの、話せることはたぶん、そんなにないと」
「どういう意味だ?」
「覚えてないんです。えっと、小学生の頃、バーベキューで川に行って……そこで溺れそうになったんですけど」
躊躇がないと言っても、当時のことを言葉にして他人に伝えようとすると、さすがに胃の辺りが重くなるのを感じた。
「たまたま居合わせた人が助けてくれて、おかげで無事だったんですが、それから三日間も高熱に冒されてしまって」
「熱か。一時的なショック状態のようなものかもしれない」
「はい。それで目が覚めたら、事故のことをまるきり忘れてしまっていて」
福永さんはハンドルを握っていないほうの指で、自身の顎の下をさすった。
「なるほど」
「だから、わたしもその時のことは又聞きと言うか……それ程度しか知らないんです。自分のことなのに、変ですけど」
「変ではない。人間には防衛本能が備わっていると聞く。恐怖がキャパを超えると脳が判断して、記憶を封じ込める指令を身体に出したんだろう。そういう話は稀にある」
「防衛本能、ですか」
「生きていくために必要なものだと思う」
防衛本能。幼かったわたしの身体は、これからも平穏に生きていくために、小さいなりに懸命にショックに抗った。そういうことだろうか。
「そうか。では、助けてくれた人のことも、覚えていないというわけだな」
「あ……はい」
「何も知らないのか」
「はい。家族も……よく知らないみたいで」
「なるほど。でも、それでいいのかもしれない。君としては礼の一つも言いたいところだろうが、相手方の現在が平穏なものだとは限らない」
「えっと、それは……?」
「例えば、君を助けた際にケガを負っただとか。そこはわからないが、事故をきっかけに、今の生活に支障が出ている可能性もあるだろうということだ」
福永さんは顎を触りながら言った。
そうか、と全身に電流が走るような思いがした。
自分が今こうして元気に暮らせているから、助けてくれた恩人もそうだとばかり信じ込んでいた。
確かに、福永さんの言うことは一理ある。一理あるどころか、だからこそ会社を辞めたのかもしれない、と思えるくらい説得力がある。それをわたしに知らせたくないがために、家族はみんな恩人のことに口を閉ざしているのかも。
もし本当にそうなら、会ってお礼が言いたいと、恩人を捜そうとしたわたしの行動は、家族にとっても、もちろん恩人にとっても迷惑だ。
ふと、福永さんは恩人に心当たりがあるのでは? そう思って尋ねそうになった。
恩人は元社員で、福永さんはそこそこにキャリアがある。でも、それはあり得ない、とすぐに気づく。長く働いていると言ったって、福永さんが入社したのは十年前。恩人が会社を去ってから五年もあとなのだ。
「すまない」
「え?」
何に対して謝られているのかわからず、思わず背筋を伸ばしてしまう。
「自分の記憶の中に欠けた部分があるというのは、本人しかわからない辛さがあるのだろうな。知らなかったとはいえ、すまなかった」
「いえ! そんな」
「ただ、恥ずかしがることはない」
「え?」
福永さんは先程からただずっと、果てしなく続くかのような高速道路の先を見つめている。わたしと目を合わせることを避けるかのように。
「水への恐怖心も、さっき言ったように、生きていくために必要だと脳が判断するからだろう」
「あ……」
「君の心がおそらく、まだすべてを受け止める準備が整っていないんだ」
「準備、ですか?」
「いつか整うかもしれないし、一生このままなのかもしれない。それはわからない。ただ、恥ずべきものではない。君自身を守るための苦肉の策のようなものだから、頑張っているな、くらいに思ってやるといい」
ぽかんとしてすぐに返事ができなかったのは、理解できなかったわけではなかった。何も知らない他人が無責任なことを、と腹立たしく感じたわけでもなかった。
「……そんなふうに、考えたことなかったです」
感動していた。
わたしはずっと、福永さんが言ったように、水が怖い自分を恥ずかしいと思っていた。他の人と違う自分はおかしいのだと。でも、そうではない。
わたしの身体は、わたしの心を必死に守ってくれているだけ。
そんなふうに考えたことは一度もなく、でも、それは驚くほどしっくりきた。そして、涙が出るくらい優しい理由だった。苦しむことは変わらないとしても、わたしを困らせるためより、守ろうとしてくれているからのほうが、ずっといいに決まっている。
「そうか」
「はい……」
声が震えた。目から鱗が落ちるって、きっとこういうことを言うのだ。
安堵までがこぼれ落ちそうで、手で押さえながらうつむく。
「なんか……楽になりました」
「そうか。それはよかった」
「今日、連れてきてもらって……よかったです」
そればかりか、福永さんにトラウマのことを知られてよかったとさえ、思っている。
「そうか」
鼻をすする。
福永さんは何も言わない。ただまっすぐ前を見ている。謙遜しないし、わたしの言葉を打ち消すこともしない。
「え?」
「答えたくなければ、無理に答える必要はない」
「な、何でしょうか」
福永さんがわたしに尋ねたいこととは、いったい何だろう? ドキドキしながら身構える。
少しの間を置いてから、福永さんは切り出した。フロントガラスを見据える目には、感情が移ろわない。
「子供の頃の、溺れかけたという話」
「あ……」
「さっきも言ったが、答えたくなければ答えなくていい」
「えと……大丈夫、です」
「不快ではないのか。過去の古傷を、無遠慮に抉られるようなものだろう」
福永さんは少し驚いているようだ。
もちろん楽しいわけではない。
でも、以前にもそう感じたように、福永さんに知られることにそれほど抵抗はなかった。
「人に、よるんだと思います」
そうとしか答えられない。
でも、福永さんは琴音とは違う。
心を許した友達でもないのに、なぜ平気だと思えるのか、不思議な感覚でうまく説明できない。
ただ一つ言えることは、これが森さんが相手だったとしたなら、たぶん相馬さんでも、わたしはどうにかして話をはぐらかしただろう、ということ。
「そうか」
福永さんは倉庫の時と同じように、自分の胸の奥に落とし込むように、しみじみと言った。
「でも、あの、話せることはたぶん、そんなにないと」
「どういう意味だ?」
「覚えてないんです。えっと、小学生の頃、バーベキューで川に行って……そこで溺れそうになったんですけど」
躊躇がないと言っても、当時のことを言葉にして他人に伝えようとすると、さすがに胃の辺りが重くなるのを感じた。
「たまたま居合わせた人が助けてくれて、おかげで無事だったんですが、それから三日間も高熱に冒されてしまって」
「熱か。一時的なショック状態のようなものかもしれない」
「はい。それで目が覚めたら、事故のことをまるきり忘れてしまっていて」
福永さんはハンドルを握っていないほうの指で、自身の顎の下をさすった。
「なるほど」
「だから、わたしもその時のことは又聞きと言うか……それ程度しか知らないんです。自分のことなのに、変ですけど」
「変ではない。人間には防衛本能が備わっていると聞く。恐怖がキャパを超えると脳が判断して、記憶を封じ込める指令を身体に出したんだろう。そういう話は稀にある」
「防衛本能、ですか」
「生きていくために必要なものだと思う」
防衛本能。幼かったわたしの身体は、これからも平穏に生きていくために、小さいなりに懸命にショックに抗った。そういうことだろうか。
「そうか。では、助けてくれた人のことも、覚えていないというわけだな」
「あ……はい」
「何も知らないのか」
「はい。家族も……よく知らないみたいで」
「なるほど。でも、それでいいのかもしれない。君としては礼の一つも言いたいところだろうが、相手方の現在が平穏なものだとは限らない」
「えっと、それは……?」
「例えば、君を助けた際にケガを負っただとか。そこはわからないが、事故をきっかけに、今の生活に支障が出ている可能性もあるだろうということだ」
福永さんは顎を触りながら言った。
そうか、と全身に電流が走るような思いがした。
自分が今こうして元気に暮らせているから、助けてくれた恩人もそうだとばかり信じ込んでいた。
確かに、福永さんの言うことは一理ある。一理あるどころか、だからこそ会社を辞めたのかもしれない、と思えるくらい説得力がある。それをわたしに知らせたくないがために、家族はみんな恩人のことに口を閉ざしているのかも。
もし本当にそうなら、会ってお礼が言いたいと、恩人を捜そうとしたわたしの行動は、家族にとっても、もちろん恩人にとっても迷惑だ。
ふと、福永さんは恩人に心当たりがあるのでは? そう思って尋ねそうになった。
恩人は元社員で、福永さんはそこそこにキャリアがある。でも、それはあり得ない、とすぐに気づく。長く働いていると言ったって、福永さんが入社したのは十年前。恩人が会社を去ってから五年もあとなのだ。
「すまない」
「え?」
何に対して謝られているのかわからず、思わず背筋を伸ばしてしまう。
「自分の記憶の中に欠けた部分があるというのは、本人しかわからない辛さがあるのだろうな。知らなかったとはいえ、すまなかった」
「いえ! そんな」
「ただ、恥ずかしがることはない」
「え?」
福永さんは先程からただずっと、果てしなく続くかのような高速道路の先を見つめている。わたしと目を合わせることを避けるかのように。
「水への恐怖心も、さっき言ったように、生きていくために必要だと脳が判断するからだろう」
「あ……」
「君の心がおそらく、まだすべてを受け止める準備が整っていないんだ」
「準備、ですか?」
「いつか整うかもしれないし、一生このままなのかもしれない。それはわからない。ただ、恥ずべきものではない。君自身を守るための苦肉の策のようなものだから、頑張っているな、くらいに思ってやるといい」
ぽかんとしてすぐに返事ができなかったのは、理解できなかったわけではなかった。何も知らない他人が無責任なことを、と腹立たしく感じたわけでもなかった。
「……そんなふうに、考えたことなかったです」
感動していた。
わたしはずっと、福永さんが言ったように、水が怖い自分を恥ずかしいと思っていた。他の人と違う自分はおかしいのだと。でも、そうではない。
わたしの身体は、わたしの心を必死に守ってくれているだけ。
そんなふうに考えたことは一度もなく、でも、それは驚くほどしっくりきた。そして、涙が出るくらい優しい理由だった。苦しむことは変わらないとしても、わたしを困らせるためより、守ろうとしてくれているからのほうが、ずっといいに決まっている。
「そうか」
「はい……」
声が震えた。目から鱗が落ちるって、きっとこういうことを言うのだ。
安堵までがこぼれ落ちそうで、手で押さえながらうつむく。
「なんか……楽になりました」
「そうか。それはよかった」
「今日、連れてきてもらって……よかったです」
そればかりか、福永さんにトラウマのことを知られてよかったとさえ、思っている。
「そうか」
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