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琴音が取っ手を引くと、笑い声が響いた。
トランペット奏者が発声練習ならぬ、発音練習をしたかのような、室内に唐突に広がった明るい華やかな声は女性のもの。普段、オフィスフロアでは滅多に聞こえることがないものだったから、少し面食らった。
何事だろうとカウンターを見ると、数人の社員が円陣を組むみたいに立っていた。
ちょうど先日、福永さんと田嶋さんが立ち話をしていた辺りで、あの時と同じく福永さんと田嶋さんがいる。違うのは、スーツ姿の女性が一緒だというところ。
「うえ。噂をすれば」
福永さんの姿を認めて、琴音は嘔吐の真似をする。
「あの女の人……誰?」
福永さんや田嶋さんと同じくらいの年齢。雑誌のモデルさながらに完璧なメイクを施して、肩までの艶やかな髪の毛は、揃った毛先が外側に跳ねていた。
「教育係だよ」
琴音は目を丸くして答えた。
「教育係?」
「覚えてない? 研修の時、社員としての心得からみっちり叩き込まれたじゃん。あの時の担当とは別の人だけど」
「ああ……」
「本社にいるのは珍しいよ。毎日あちこちの店舗巡ってるはずだから」
示し合わせたように、めいめいにポケットからハンカチを引っ張り出し、洗ってもいない手を拭きながら、わたしたちはコソコソと耳打ちし合った。
「福永さんと一緒にいるところを見ると、今日は新店の関係かな」
「ああ……新しいパートさんとかの?」
「そうそう。研修から行って帰ってきたところか、もしくはこれからか」
「え、福永さんと行くの?」
「そりゃ、そうでしょう」
教育係だという女性社員は、にこやかに福永さんたちと喋っている。どう見ても仕事について話しているようには見えない。
わたしには仕事と無関係な話は退勤後にしろ、とか言っていたくせに、と思うと心がざわざわした。
はー、と琴音は感心したように息を吐いた。
「鬼上司と楽しくお喋りできる人がいるとは。田嶋さんが一緒にいるからだろうな。ムードメーカーだもんな、田嶋さん」
分析しながら歩き出すあとを、わたしもついて踏み出した。
上司の話の邪魔をしたらいけないと思うけど、黙って通り過ぎることはできない。琴音も同じ思いだったらしく、控えめに「お疲れさまです」と言って頭を下げた。
田嶋さんは会話をやめて「お疲れさん」と明るく返してくれた。教育係の女性も「お疲れさまです」と興奮を抑えた声で返してきた。ドキドキしながら、福永さんの様子を上目遣いで確認したら、ぞんざいに会釈するだけ。目も合わせてくれなかった。
通常運転だ。何もおかしくない。
そう言い聞かせても、ざっくりと切り捨てられたみたいに感じるのは、心のどこかで期待していたから。
たくさん話して、冗談を言ったり笑顔を見せてくれたりして、福永さんの中で、わたしはもう敬遠したい部下ではなくなったと、勝手に思っていた。そんなことないのに。
階段を降りかけたところで、背後でわっと楽しそうな声が上がった。
反射的に振り返る。女性社員が福永さんのジャンパーの袖を掴んでいた。
「本当ですって、田嶋さん。わたしが疲れて座っていたら、福永さん、そっとカフェラテのカップを置いていってくれて」
「嘘やん。この無愛想の塊が、どないな顔してそんなんすんねや」
「こんな顔だ」
「お前、そんなキャラやったかぁ?」
「確かに、誰かさんみたいな八方美人ではないな」
「えーじゃあ、奢ってくれたの、わたしが初めてとか?」
女性社員が頬を染めながら、福永さんを見上げる。
背中を向けている福永さんの表情は、こちらからはわからない。ただ、指で顎を触っていた。
「そうですね」
「えー、嬉しいかも」
「ちょい羽田さん、コーヒーくらい、俺がいくらでも買うたるのに」
「田嶋さんが優しいのは知ってますから。でも、福永さんのほうがイケメンなんですよね」
わたしは駆け出していた。
「ちょっと、ちょっと。優愛、どうしたの?」
売り場フロアに辿り着いたところで追いついた琴音が、びっくり顔で覗き込んできた。
「……何でもない」
「何でもなくないでしょ。ひどい顔だよ」
「何でもないよ」
イライラと言い放ってしまった。琴音は黙る。
何でもないとしか言えなかった。訳がわからなかった。どうしてこれほどまでに心が乱されるのか、自分で理由がわからない。だから、説明できない。
福永さんは忘れていた。わたしに飲み物を奢ったことを、好きな飲み物だとわたしが喜んだことを、忘れている。そのくらい福永さんにとっては、どうでもいいことだったのだ。でも、そんなの当たり前だ。
福永さん、いや、誰にとってもどうだっていいことを、わたしは大切にしていた。空いたペットボトルを捨てられなかったのは、きっとそういうこと。
どうしてなのだろう。
あんなつまらないことを大切にしていたのは。こんなにも悲しい気持ちになるのは、どうしてなのだろう。
何もわからない。ただ苦しい。
トランペット奏者が発声練習ならぬ、発音練習をしたかのような、室内に唐突に広がった明るい華やかな声は女性のもの。普段、オフィスフロアでは滅多に聞こえることがないものだったから、少し面食らった。
何事だろうとカウンターを見ると、数人の社員が円陣を組むみたいに立っていた。
ちょうど先日、福永さんと田嶋さんが立ち話をしていた辺りで、あの時と同じく福永さんと田嶋さんがいる。違うのは、スーツ姿の女性が一緒だというところ。
「うえ。噂をすれば」
福永さんの姿を認めて、琴音は嘔吐の真似をする。
「あの女の人……誰?」
福永さんや田嶋さんと同じくらいの年齢。雑誌のモデルさながらに完璧なメイクを施して、肩までの艶やかな髪の毛は、揃った毛先が外側に跳ねていた。
「教育係だよ」
琴音は目を丸くして答えた。
「教育係?」
「覚えてない? 研修の時、社員としての心得からみっちり叩き込まれたじゃん。あの時の担当とは別の人だけど」
「ああ……」
「本社にいるのは珍しいよ。毎日あちこちの店舗巡ってるはずだから」
示し合わせたように、めいめいにポケットからハンカチを引っ張り出し、洗ってもいない手を拭きながら、わたしたちはコソコソと耳打ちし合った。
「福永さんと一緒にいるところを見ると、今日は新店の関係かな」
「ああ……新しいパートさんとかの?」
「そうそう。研修から行って帰ってきたところか、もしくはこれからか」
「え、福永さんと行くの?」
「そりゃ、そうでしょう」
教育係だという女性社員は、にこやかに福永さんたちと喋っている。どう見ても仕事について話しているようには見えない。
わたしには仕事と無関係な話は退勤後にしろ、とか言っていたくせに、と思うと心がざわざわした。
はー、と琴音は感心したように息を吐いた。
「鬼上司と楽しくお喋りできる人がいるとは。田嶋さんが一緒にいるからだろうな。ムードメーカーだもんな、田嶋さん」
分析しながら歩き出すあとを、わたしもついて踏み出した。
上司の話の邪魔をしたらいけないと思うけど、黙って通り過ぎることはできない。琴音も同じ思いだったらしく、控えめに「お疲れさまです」と言って頭を下げた。
田嶋さんは会話をやめて「お疲れさん」と明るく返してくれた。教育係の女性も「お疲れさまです」と興奮を抑えた声で返してきた。ドキドキしながら、福永さんの様子を上目遣いで確認したら、ぞんざいに会釈するだけ。目も合わせてくれなかった。
通常運転だ。何もおかしくない。
そう言い聞かせても、ざっくりと切り捨てられたみたいに感じるのは、心のどこかで期待していたから。
たくさん話して、冗談を言ったり笑顔を見せてくれたりして、福永さんの中で、わたしはもう敬遠したい部下ではなくなったと、勝手に思っていた。そんなことないのに。
階段を降りかけたところで、背後でわっと楽しそうな声が上がった。
反射的に振り返る。女性社員が福永さんのジャンパーの袖を掴んでいた。
「本当ですって、田嶋さん。わたしが疲れて座っていたら、福永さん、そっとカフェラテのカップを置いていってくれて」
「嘘やん。この無愛想の塊が、どないな顔してそんなんすんねや」
「こんな顔だ」
「お前、そんなキャラやったかぁ?」
「確かに、誰かさんみたいな八方美人ではないな」
「えーじゃあ、奢ってくれたの、わたしが初めてとか?」
女性社員が頬を染めながら、福永さんを見上げる。
背中を向けている福永さんの表情は、こちらからはわからない。ただ、指で顎を触っていた。
「そうですね」
「えー、嬉しいかも」
「ちょい羽田さん、コーヒーくらい、俺がいくらでも買うたるのに」
「田嶋さんが優しいのは知ってますから。でも、福永さんのほうがイケメンなんですよね」
わたしは駆け出していた。
「ちょっと、ちょっと。優愛、どうしたの?」
売り場フロアに辿り着いたところで追いついた琴音が、びっくり顔で覗き込んできた。
「……何でもない」
「何でもなくないでしょ。ひどい顔だよ」
「何でもないよ」
イライラと言い放ってしまった。琴音は黙る。
何でもないとしか言えなかった。訳がわからなかった。どうしてこれほどまでに心が乱されるのか、自分で理由がわからない。だから、説明できない。
福永さんは忘れていた。わたしに飲み物を奢ったことを、好きな飲み物だとわたしが喜んだことを、忘れている。そのくらい福永さんにとっては、どうでもいいことだったのだ。でも、そんなの当たり前だ。
福永さん、いや、誰にとってもどうだっていいことを、わたしは大切にしていた。空いたペットボトルを捨てられなかったのは、きっとそういうこと。
どうしてなのだろう。
あんなつまらないことを大切にしていたのは。こんなにも悲しい気持ちになるのは、どうしてなのだろう。
何もわからない。ただ苦しい。
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