運命のひとーSADAME NO HITOー

朋藤チルヲ

文字の大きさ
32 / 60
【8】

2

しおりを挟む
 琴音が取っ手を引くと、笑い声が響いた。
 トランペット奏者が発声練習ならぬ、発音練習をしたかのような、室内に唐突に広がった明るい華やかな声は女性のもの。普段、オフィスフロアでは滅多に聞こえることがないものだったから、少し面食らった。

 何事だろうとカウンターを見ると、数人の社員が円陣を組むみたいに立っていた。
 ちょうど先日、福永さんと田嶋さんが立ち話をしていた辺りで、あの時と同じく福永さんと田嶋さんがいる。違うのは、スーツ姿の女性が一緒だというところ。

「うえ。噂をすれば」

 福永さんの姿を認めて、琴音は嘔吐の真似をする。

「あの女の人……誰?」

 福永さんや田嶋さんと同じくらいの年齢。雑誌のモデルさながらに完璧なメイクを施して、肩までの艶やかな髪の毛は、揃った毛先が外側に跳ねていた。

「教育係だよ」

 琴音は目を丸くして答えた。

「教育係?」
「覚えてない? 研修の時、社員としての心得からみっちり叩き込まれたじゃん。あの時の担当とは別の人だけど」
「ああ……」
「本社にいるのは珍しいよ。毎日あちこちの店舗巡ってるはずだから」

 示し合わせたように、めいめいにポケットからハンカチを引っ張り出し、洗ってもいない手を拭きながら、わたしたちはコソコソと耳打ちし合った。

「福永さんと一緒にいるところを見ると、今日は新店の関係かな」
「ああ……新しいパートさんとかの?」
「そうそう。研修から行って帰ってきたところか、もしくはこれからか」
「え、福永さんと行くの?」
「そりゃ、そうでしょう」

 教育係だという女性社員は、にこやかに福永さんたちと喋っている。どう見ても仕事について話しているようには見えない。
 わたしには仕事と無関係な話は退勤後にしろ、とか言っていたくせに、と思うと心がざわざわした。

 はー、と琴音は感心したように息を吐いた。

「鬼上司と楽しくお喋りできる人がいるとは。田嶋さんが一緒にいるからだろうな。ムードメーカーだもんな、田嶋さん」

 分析しながら歩き出すあとを、わたしもついて踏み出した。
 上司の話の邪魔をしたらいけないと思うけど、黙って通り過ぎることはできない。琴音も同じ思いだったらしく、控えめに「お疲れさまです」と言って頭を下げた。

 田嶋さんは会話をやめて「お疲れさん」と明るく返してくれた。教育係の女性も「お疲れさまです」と興奮を抑えた声で返してきた。ドキドキしながら、福永さんの様子を上目遣いで確認したら、ぞんざいに会釈するだけ。目も合わせてくれなかった。

 通常運転だ。何もおかしくない。

 そう言い聞かせても、ざっくりと切り捨てられたみたいに感じるのは、心のどこかで期待していたから。
 たくさん話して、冗談を言ったり笑顔を見せてくれたりして、福永さんの中で、わたしはもう敬遠したい部下ではなくなったと、勝手に思っていた。そんなことないのに。

 階段を降りかけたところで、背後でわっと楽しそうな声が上がった。
 反射的に振り返る。女性社員が福永さんのジャンパーの袖を掴んでいた。

「本当ですって、田嶋さん。わたしが疲れて座っていたら、福永さん、そっとカフェラテのカップを置いていってくれて」
「嘘やん。この無愛想の塊が、どないな顔してそんなんすんねや」
「こんな顔だ」
「お前、そんなキャラやったかぁ?」
「確かに、誰かさんみたいな八方美人ではないな」
「えーじゃあ、奢ってくれたの、わたしが初めてとか?」

 女性社員が頬を染めながら、福永さんを見上げる。
 背中を向けている福永さんの表情は、こちらからはわからない。ただ、指で顎を触っていた。

「そうですね」
「えー、嬉しいかも」
「ちょい羽田はねださん、コーヒーくらい、俺がいくらでもうたるのに」
「田嶋さんが優しいのは知ってますから。でも、福永さんのほうがイケメンなんですよね」

 わたしは駆け出していた。

「ちょっと、ちょっと。優愛、どうしたの?」

 売り場フロアに辿り着いたところで追いついた琴音が、びっくり顔で覗き込んできた。

「……何でもない」
「何でもなくないでしょ。ひどい顔だよ」
「何でもないよ」

 イライラと言い放ってしまった。琴音は黙る。

 何でもないとしか言えなかった。訳がわからなかった。どうしてこれほどまでに心が乱されるのか、自分で理由がわからない。だから、説明できない。

 福永さんは忘れていた。わたしに飲み物を奢ったことを、好きな飲み物だとわたしが喜んだことを、忘れている。そのくらい福永さんにとっては、どうでもいいことだったのだ。でも、そんなの当たり前だ。

 福永さん、いや、誰にとってもどうだっていいことを、わたしは大切にしていた。空いたペットボトルを捨てられなかったのは、きっとそういうこと。

 どうしてなのだろう。
 あんなつまらないことを大切にしていたのは。こんなにも悲しい気持ちになるのは、どうしてなのだろう。
 何もわからない。ただ苦しい。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

貧乏大家族の私が御曹司と偽装結婚⁈

玖羽 望月
恋愛
朝木 与織子(あさぎ よりこ) 22歳 大学を卒業し、やっと憧れの都会での生活が始まった!と思いきや、突然降って湧いたお見合い話。 でも、これはただのお見合いではないらしい。 初出はエブリスタ様にて。 また番外編を追加する予定です。 シリーズ作品「恋をするのに理由はいらない」公開中です。 表紙は、「かんたん表紙メーカー」様https://sscard.monokakitools.net/covermaker.htmlで作成しました。

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

『愛が切なくて』- すれ違うほど哀しくて  

設楽理沙
恋愛
砂央里と斎藤、こじれてしまった糸(すれ違い)がほどけていく様子を描いています。 ◆都合上、[言う、云う]混合しています。うっかりミスではありません。   ご了承ください。 斉藤准一 税理士事務所勤務35才 斎藤紀子    娘 7才  毒妻:  斉藤淳子  専業主婦   33才 金遣いが荒い 高橋砂央里  会社員    27才    山本隆行  オートバックス社員 25才    西野秀行   薬剤師   22才  岡田とま子  主婦    54才   深田睦子  見合い相手  22才 ――――――――――――――――――――――― ❧イラストはAI生成画像自作 2025.3.3 再☑済み😇

神楽坂gimmick

涼寺みすゞ
恋愛
明治26年、欧州視察を終え帰国した司法官僚 近衛惟前の耳に飛び込んできたのは、学友でもあり親戚にあたる久我侯爵家の跡取り 久我光雅負傷の連絡。 侯爵家のスキャンダルを収めるべく、奔走する羽目になり…… 若者が広げた夢の大風呂敷と、初恋の行方は?

優しい雨が降る夜は

葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン 無自覚にモテる地味子に 余裕もなく翻弄されるイケメン 二人の恋は一筋縄ではいかなくて…… 雨降る夜に心に届いた 優しい恋の物語 ⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡ 風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格 雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン

処理中です...