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午後からどんな作業をしたのか、よく覚えていない。
早番でよかった。遅番だったとしたら、閉店までの間に、どんな大きなミスをしでかしたかわからない。
琴音はあれ以上、深く追求してこなかった。それも、よかったと思った。
玄関のドアを引くと、マットの上に姉が待ち構えていた。
「おかえり」
口調も見下ろす顔も、少し怒っている。
理由はわからない。
その気迫のせいもあって、どうしてわたしが帰ってくるタイミングを知っていたのか、と一瞬うろたえたけど、落ち着けば何てことはない。
朝は早く出たことを知っているし、そのまま遊びに行っていつ戻るかわからないといった、バイタリティー溢れる妹ではないことも知っている。そろそろ頃合いだと、車のエンジン音に耳をすませていただけのことだろう。
「ただいま……どうしたの?」
「ここじゃなんだから。優愛の部屋に行こう」
姉はきびすを返して歩き出す。
問い詰める元気などない。先導されるがまま、ゾンビみたいに階段を上り、自分の部屋に入った。
姉が慣れた手つきでシーリングライトのスイッチを入れる。室内が明るくなると、バッグを下ろすより先に、違和感を覚えた。
赤い座椅子。丸い形のローテーブル。出しっぱなしのスタンドミラー。メイク道具。文庫本。
なかった。ペットボトルがない。福永さんから貰ったキャラメルマキアートのペットボトルが、今朝、部屋を出るまでは確かに置いてあったテーブルの端に、跡形もない。
ドアの開閉が起こす風にでも煽られて落ちたのかと、立ったまま視線でラグ上をざっと見渡すけど、どこにも転がっていなかった。
足元の床が抜け落ちる感覚がした。
「優愛、あのね」
「……捨てたの?」
「え?」
「ペットボトル」
「ああ。わたしじゃないよ。奈津さんじゃないの? それより」
かっと身体が熱くなった。バッグをその場に放り投げて、姉に詰め寄る。
「嘘だ! 勝手なことしないでよ!」
「ちょっと、なに急に興奮してるわけ。たかがゴミじゃない」
「ゴミ……だけど。だけど」
歯を食いしばる。そうしないと、身体の奥底から、悔しさと涙が噴火みたいに溢れ出しそうだった。
教育係の女性社員の、嬉しそうな顔が浮かんだ。親しげに福永さんの袖を掴んでいた。
新店のプロジェクトに関わるあの人は、今までも、きっとこれからも、何度も福永さんの運転する社用車に乗る。甘く澄んだ香りがする車内で、行きも帰りも福永さんとお喋りして、飲み物だって何度も買ってもらえるのだ。
わたしはもう乗せてもらえないし、何も買ってもらえない。
最初で最後だったあのペットボトルは、手元からなくなってしまった。福永さんの記憶の中にも、カケラですら残っていない。
姉の言うように、たかがペットボトル。たかがゴミ。わかっている。それなのに、感情が抑えられない。自分の脳と身体がバグを起こしているみたいだ。
「ちょっと落ち着いてよ。嘘をついたのは優愛でしょ?」
「何が?」
ぎっと姉を睨んだ。
そんなことで姉は怯まない。
「遣史へのメッセージに、まだ仕事中だって送ったよね」
冷静ではないわたしは、何の言いがかりかと憤る。
「でも、嘘だった。いつも通りに仕事が終わったあと、福永さんと出かけてたんだよね? わたしたち見たんだよ」
はっとした。
そうだ。福永さんと一緒にいる時、高速に乗って間もなくのことだったと思う。確かに遣史くんから、トークアプリにメッセージが届いた。食事に行かないかとか、そういった内容だったはず。
そう言えば、改めてきちんと返信し直そうとして、そのまま忘れてしまっていた。
「あの時、遣史から珍しく早く上がれたって連絡がきて。だから、三人でご飯でもどうかなって思ったの」
「え……」
「優愛が早番だってことも知ってたし。わたしは休みだったけど、用事で外に出てたから。代わりに、遣史に誘いのメッセージを送ってもらった」
そうだったのか。
つまり、食事は予定を変更して、姉と遣史くんの二人で行った。その帰り道、どこかでわたしたちの乗る社用車とすれ違った。そういうことらしい。
まったく気がつかなかった。
すっかり気概を削がれてしまったわたしは、姉から少し身を離す。
「でも、嘘をつくつもりじゃ……」
そんな意識は本当になかった。
「仕事だったのは、本当だもん」
タイムカードを切っていないのだから、あの時間は残業。指示したのは福永さんで、やはりあれは仕事だと認識しているということだ。
「福永さんと出かけることが?」
「道案内してもらったんだよ。新店までの。応援の日、自分で運転して行くから。わかりにくいところがあるからって、心配してくれて」
「じゃあ、そう言えばよかったじゃない。なんで隠すの?」
「隠すつもりじゃなかったんだってば」
また腹が立ってきた。
わたしにも落ち度はある。でも、やましいことは何もないのだ。
姉も琴音と同じ心配をしてくれていることはわかる。でも、今は素直に受け止められない。そんな余裕が心にない。
早番でよかった。遅番だったとしたら、閉店までの間に、どんな大きなミスをしでかしたかわからない。
琴音はあれ以上、深く追求してこなかった。それも、よかったと思った。
玄関のドアを引くと、マットの上に姉が待ち構えていた。
「おかえり」
口調も見下ろす顔も、少し怒っている。
理由はわからない。
その気迫のせいもあって、どうしてわたしが帰ってくるタイミングを知っていたのか、と一瞬うろたえたけど、落ち着けば何てことはない。
朝は早く出たことを知っているし、そのまま遊びに行っていつ戻るかわからないといった、バイタリティー溢れる妹ではないことも知っている。そろそろ頃合いだと、車のエンジン音に耳をすませていただけのことだろう。
「ただいま……どうしたの?」
「ここじゃなんだから。優愛の部屋に行こう」
姉はきびすを返して歩き出す。
問い詰める元気などない。先導されるがまま、ゾンビみたいに階段を上り、自分の部屋に入った。
姉が慣れた手つきでシーリングライトのスイッチを入れる。室内が明るくなると、バッグを下ろすより先に、違和感を覚えた。
赤い座椅子。丸い形のローテーブル。出しっぱなしのスタンドミラー。メイク道具。文庫本。
なかった。ペットボトルがない。福永さんから貰ったキャラメルマキアートのペットボトルが、今朝、部屋を出るまでは確かに置いてあったテーブルの端に、跡形もない。
ドアの開閉が起こす風にでも煽られて落ちたのかと、立ったまま視線でラグ上をざっと見渡すけど、どこにも転がっていなかった。
足元の床が抜け落ちる感覚がした。
「優愛、あのね」
「……捨てたの?」
「え?」
「ペットボトル」
「ああ。わたしじゃないよ。奈津さんじゃないの? それより」
かっと身体が熱くなった。バッグをその場に放り投げて、姉に詰め寄る。
「嘘だ! 勝手なことしないでよ!」
「ちょっと、なに急に興奮してるわけ。たかがゴミじゃない」
「ゴミ……だけど。だけど」
歯を食いしばる。そうしないと、身体の奥底から、悔しさと涙が噴火みたいに溢れ出しそうだった。
教育係の女性社員の、嬉しそうな顔が浮かんだ。親しげに福永さんの袖を掴んでいた。
新店のプロジェクトに関わるあの人は、今までも、きっとこれからも、何度も福永さんの運転する社用車に乗る。甘く澄んだ香りがする車内で、行きも帰りも福永さんとお喋りして、飲み物だって何度も買ってもらえるのだ。
わたしはもう乗せてもらえないし、何も買ってもらえない。
最初で最後だったあのペットボトルは、手元からなくなってしまった。福永さんの記憶の中にも、カケラですら残っていない。
姉の言うように、たかがペットボトル。たかがゴミ。わかっている。それなのに、感情が抑えられない。自分の脳と身体がバグを起こしているみたいだ。
「ちょっと落ち着いてよ。嘘をついたのは優愛でしょ?」
「何が?」
ぎっと姉を睨んだ。
そんなことで姉は怯まない。
「遣史へのメッセージに、まだ仕事中だって送ったよね」
冷静ではないわたしは、何の言いがかりかと憤る。
「でも、嘘だった。いつも通りに仕事が終わったあと、福永さんと出かけてたんだよね? わたしたち見たんだよ」
はっとした。
そうだ。福永さんと一緒にいる時、高速に乗って間もなくのことだったと思う。確かに遣史くんから、トークアプリにメッセージが届いた。食事に行かないかとか、そういった内容だったはず。
そう言えば、改めてきちんと返信し直そうとして、そのまま忘れてしまっていた。
「あの時、遣史から珍しく早く上がれたって連絡がきて。だから、三人でご飯でもどうかなって思ったの」
「え……」
「優愛が早番だってことも知ってたし。わたしは休みだったけど、用事で外に出てたから。代わりに、遣史に誘いのメッセージを送ってもらった」
そうだったのか。
つまり、食事は予定を変更して、姉と遣史くんの二人で行った。その帰り道、どこかでわたしたちの乗る社用車とすれ違った。そういうことらしい。
まったく気がつかなかった。
すっかり気概を削がれてしまったわたしは、姉から少し身を離す。
「でも、嘘をつくつもりじゃ……」
そんな意識は本当になかった。
「仕事だったのは、本当だもん」
タイムカードを切っていないのだから、あの時間は残業。指示したのは福永さんで、やはりあれは仕事だと認識しているということだ。
「福永さんと出かけることが?」
「道案内してもらったんだよ。新店までの。応援の日、自分で運転して行くから。わかりにくいところがあるからって、心配してくれて」
「じゃあ、そう言えばよかったじゃない。なんで隠すの?」
「隠すつもりじゃなかったんだってば」
また腹が立ってきた。
わたしにも落ち度はある。でも、やましいことは何もないのだ。
姉も琴音と同じ心配をしてくれていることはわかる。でも、今は素直に受け止められない。そんな余裕が心にない。
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