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第一話 栞のラブレター

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「私が唯一、睦子に言わなかったことがあるんです。翔が好きだって、内緒にしてた。親友だったのに。ずっと隠してた。睦子、私と翔のこと、どう思ってたんだろう」

 菜七子さんはシールを丁寧にはがして封筒を開く。

「これ……。なんで、睦子が……」

 中身を取り出した菜七子さんは絶句する。

「そっか。睦子だったんだ……」

 ほどなくして、菜七子さんの中ですべてがつながったかのように、力なくそう言う。

 無言で見守る沙代子に見えるように、彼女は栞サイズの紙をカウンターに乗せた。

 紙はしわくちゃになっていたが、重しを乗せて伸ばそうとした苦心が見えるかのようにまっすぐ伸びていた。

「……封筒の中身、ご存知だったんですよね。睦子から聞きました?」
「本当のことを言うと」

 うなずくと、菜七子さんは頼りなげに眉を下げる。

「睦子、一生懸命伸ばしたのかな。きっと、ごめんねって思ったから、元通りにしようとしたんですよね。でも、元通りにはできないんだって気づいて、ずっと黙ってたのかな」

 菜七子さんを傷つけた心はもう戻らない。紙に刻まれたしわのように。どんなに必死に伸ばしてもしわは消えず、罪は消せないと気づいただろう。

「睦子さん、菜七子さんが大好きなんですね」
「今でも、そう思ってくれてるでしょうか」
「はい」
「……本当にそうかな。自信ない」
「大丈夫です。そう思います」

 沙代子が自信満々に言うから、菜七子さんはくすりと笑って胸を張る。優等生の彼女はいつだって、こうやって自身を励ましながら立ち上がってきたのだろうと思えるほど、その姿は毅然として美しかった。

「来てくれるかわからないけれど、睦子を結婚式に招待してみます」

 なんで黙ってたんだってケンカして、泣いて笑って仲直りができる日が来るようにと、沙代子は祈る。壊れたものが元通りになってほしいと願うのは、今の沙代子には何もないからだろう。

 私にも取り戻せる何かがあるだろうか。

 沙代子は菜七子さんを羨ましく眺めながら尋ねる。

「プロポーズのお返事はしたの?」
「それがまだ。翔は今さら急かさないよって言ってくれたけど、これからします。この栞にプロポーズの返事を書いて、翔に渡します」
「それは、村瀬さんもびっくりしますね」
「笑うかな。でもきっと、喜んでくれると思います。翔は優しいから、全部わかってくれると思う」
「菜七子さんが選んだ方だものね」

 そう言うと、彼女は華やかに微笑んで、ようやくキッチンから姿を現す天草さんに声をかける。

「空の鼓動、まだありますか?」
「もちろん、あります」

 天草さんは予約済の箱から空の鼓動を取り出すと、そっとカウンターの上に乗せる。

「私、ずっと空の鼓動と、この栞を探してたの」
「うん」

 菜七子さんはきっと、村瀬さんが貸してくれたままの本をずっと探してた。

 丁寧に栞を本の中ほどにはさみこみ、彼女は胸にそっと抱きしめる。

「この本、ください」

 菜七子さんは軽やかな足取りでまろう堂をあとにする。

 城下町の石畳みを駆けていく、ふわりと揺れる菜七子さんのスカートの裾が楽しげで、幸せな花嫁姿の彼女がまぶたに浮かぶ。

 そんな彼女の手には、今日の澄み切った空と同じ、空色の本がしっかりと握られている。

 父が古本屋をやめなかった理由がわかる気がした。その父の思いを、天草さんはこれからも守り続けてくれるのだろう。

「ねぇ、葵さん。あの話、本当だったね」

 いつまでも菜七子さんが立ち去った方角を見つめる沙代子に、天草さんが声をかける。

「あの話って、本が待っててくれるって話?」
「そう。あの本が待ってたのは、栞のラブレターだったね」

 だから、菜七子さんは最初、空の鼓動を買っていかなかった。

「私もそう思う。菜七子さんの元に戻るために必要なものだったんだね」

 あるべき人のところへあるべき形で戻るため、古本は父の本棚でそのときが来るのを待っているのだろう。

「私を待っててくれる本もあるのかな」

 沙代子が晴れやかな笑顔でそう言うと、天草さんは、「あるといいね」と春の風のように穏やかに微笑んだ。





【第一話 栞のラブレター 完】
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