逢坂超えぬ縁

shingorou

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逢坂超えぬ縁

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 放たれた矢が見事に的に当たる。
 蹴り上げた鞠が優美に舞い上がる。
 身体能力の高かった十歳年上の兄は、弓矢も蹴鞠も抜群だった。
 自分もあんなふうになれたら。
 千幡は、何度そう思ったことだろう。
 濃紫の紐で髻を結わえた千幡よりも少し年上の美しい少年が、そんな兄の姿を頬を染めながら、憧れと尊敬に満ちた熱いまなざしで見つめている。
 千幡は、その濃紫の美少年に心の中でそっと語りかける。
 ねえ、こっちを向いて。私の方を見てくれないかな。

 鎌倉を追われた兄に代わって、元服を済ませ、三代目鎌倉殿の座についた実朝の前に、濃紫の美少年が跪いている。
 兄の最期を知ってしまったのに、不謹慎だと思う。
 京から御台所となる姫君を迎えるというのに、不誠実だとも思う。
 けど、やっと濃紫の美少年が自分のものになるかもしれない。
 その高揚感はいかんともしがたい。
「どれにいたしましょうか」
 濃紫の思い出の美少年、和田朝盛が、実朝の髻を結ぶための色とりどりの紐を実朝に見せる。
 もちろん、答えは決まっている。
 思い出の中の少年が結っていたのと同じ濃紫だ。
 朝盛は器用に実朝の髻を濃紫の紐で器用に結い上げていく。
 髻という一人前の男子が人前では見せない部分を曝しているのが、恥ずかしくもある。
 伝わってくる形の良い指先の感触がくすぐったい。
 心地よいこの時間が永遠に続けばいいのに。

 相手の性別を問わず恋多き人だった兄。その姿を朝盛は悲し気な表情で見つめ、追いかけていた。
 自分だったら、そんな顔はさせないのに。何度そう思ったことだろう。
「ご結婚、誠におめでとうございます。どうか、御台所となられる姫君を大切になされ、末永くお幸せになられることを祈っております」
 朝盛は、実朝の結婚を祝う言葉を口にした。
 朝盛ならきっとそう言うだろうと実朝には分かっていた。
「言うまでもない。私は兄上とは違う」
 実朝は自分自身に言い聞かせるように言葉を返した。

 側室も妾もいらない。
 たとえ、政略結婚であったとしても、できる限りのことはしよう。
 縁があって生涯を共にする御台所ただ一人を大切にしよう。
 朝盛よ、それがそなたの願いならば。
 それで、そなたが喜んでくれるなら、そうしよう。
 なのに、なぜ、そなたは、兄上に向けたのと同じ悲し気な顔を私に見せるのだ。
 もしかしたら、そなたも同じ思いでいてくれるのかもしれない。
 そう思ったこともあった。
 けれど、私は、御台所に対しても、そなたに対しても、兄上のような不実な男にはなりたくなかった。
 だから、お互いに気づかないふりをしたままでよい、そう思った。

 月が澄みきった明るい夜。
 忍ぶように実朝のもとにやって来た朝盛は言った。
「お別れして遠い所へ行く前に、どうしても思い出が欲しいのです」
 嬉しくないわけがなかった。
 秘めてきた互いの思いを確かめ合うことができるのは、今しかなかった。
 けれども、一線を越えてしまえば、溺れて手放すことはできなくなってしまう。
 それは、為政者としてあってはならないことだった。
 濃紫の紐で髻を結んでいた少し年上の美少年。その色に染まりたくて、自分もまた、髻を濃紫色の紐で結び初め、慣れ親しんできた。今でもその縁が浅かったものとは思えない。
 されど、逢坂を超えることができなかった、そういう縁でもあったのだ。
 
「いかがなさいましたか」
 主君の髪を梳かした後、濃紫色の紐を手に取り、鬢を結い上げようとした宮内公氏の手が止まった。
 実朝は、何でもないと言った表情で首を横に振り、鬢を一筋自ら抜いて、静かに微笑んだ。
「右大臣の髪だ。記念にとっておくがいい」
 銀世界を進んで行くと、兄によく似た若い男の怨嗟の声が聞こえてくる。
 妬ましい。憎くてたまらない。
 自分が決して手にすることができないすべての物を手にしたお前が。
 実朝は、少しばかり勝ち誇ったような顔で兄に向って言った。
「私はあなたとは違う。私には本当に愛しい者と帯を解く機会さえなかった。だからこそ、いつまでも恋しいと思い続けることができる、そのような縁もあるのです。朝盛の心だけは、永遠に私のものです」
 降りしきる雪の中、実朝の髻を優しく撫でるように、赤い紅梅の花びらが舞い落ちた。

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